豊前市大河内に架かる時代劇の大スター 「 大河内傳次郎の橋 」
橋の近くにある「大河内傳次郎生誕の地」
時代劇の大スター大河内傳次郎の生誕の地である福岡県豊前市大河内を流れる岩武川に
傳次郎のプレートが付いた橋が架かっている。
大河内傳次郎は、1898年(明治31年)2月5日、
福岡県築上郡岩屋村大河内(現・豊前市大河内)に、医者の息子として生まれる。
実業家を目指し、大阪に出て、大阪商業学校(現・大商学園高等学校)を卒業後、
兄の会社に入るが、関東大震災の影響で会社が倒産してしまう。
その後劇作家を目指し、大阪府堺市にあった倉橋仙太郎主宰の新民衆劇学校に入学。
俳優になる前は文学者志望だった。
卒業後第二新国劇に入り、室町 次郎(むろまち じろう)の芸名で舞台に立つ。
澤田正二郎を敬愛する彼は、映画でその流儀を試みようと、連合映画芸術家協会に入る。
時代劇の大スターとして1925年(昭和元年)、日活に移り、
芸名も大河内傳次郎と改める。
はじめ、背の低い大河内は監督たちが使いたがらず、
経営陣は怪奇映画に起用しようかと思っていたという。
だが、伊藤大輔監督に見出され、翌1926年 『 長恨 』 の主演に抜擢されて注目される。
続く1927年『忠次旅日記』三部作で忠次役に主演、一躍人気を集める。
1928年(昭和3年)、当時売れっ子の大衆作家だった林不忘の小説が
『 新版大岡政談 』 として映画化。
伊藤大輔監督はこの映画で、
原作ではあまり重要人物でなかった殺し屋 「 丹下左膳 」 を前面に押し出し、
大河内は大岡越前とこの丹下左膳の二役を演じて、
アクの強い丹下のキャラクターは大評判となった。
刀の鍔を口元に持ってきて見得を切る 「 丹下左膳 」 のキャラクターは
大河内のシンボルとなり、
生涯を通してこの 「 丹下左膳 」 の題名を持つ主演映画は17本を数えるに到った。
トーキー時代に入ると、少し訛りのある大河内の
「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」(姓は丹下、名は左膳)という決めセリフが一世を風靡、
後代まで多くの人々が物真似にする名文句になった。