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波の上の護国寺にある仲地紀仁顕彰碑とベッテルハイム居住の地記念碑
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仲地紀仁の顕彰碑
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ベッテルハイム居住之地記念碑
那覇の波の上通りの突き当たりに 「 波の上宮 」 と 「 護国寺 」 がある。
その護国寺の境内に仲地紀仁とベッテルハイムの碑が建っている。
1846年、イギリスから布教を目的にベッテルハイム博士が来琉した。
彼は、キリスト教が禁じられている日本に直接上陸するより琉球での布教を考え、
妻、子供二人を伴って琉球国に滞在することを決意したのである。
医師でもあったベッテルハイムは、那覇の町で貧困な人々の治療に当たり人々に親しまれるようになった。
「 ナンミンヌガンチョー 」 と呼ばれたベッテルハイムは琉球語を修得し、
那覇市内の医師を訪ねて歓談し、西洋医学の知識を伝授しようとした。
その一人に仲地紀仁 ( なかち きじん ) がいた。
仲地は1789年、泊の医学者の長男として誕生した。
家伝の医学を修得し、医療を天職として志していた。
26才の時、中国に渡り内科、眼科を学び、帰国の時、遭難で漂着した薩摩でさらに外科を覚えて帰国した。
卓越した彼の医術は、中国の漂流者の病を完治し、王府から表彰された。
医術の腕を認められた仲地は、宮古島の医師として二度にわたり派遣される。
那覇に帰った仲地は、泊と那覇で発生した天然痘の治療に中国で体得した人痘治療を用いて医療奉仕を行い、
再度、王府から褒賞を受けた。
ベッテルハイムは、仲地を見込んで最も優れた牛痘種痘を伝授することになる。
西洋人との交流を禁じていた薩摩の目をのがれて、仲地は波之上の洞窟の中で教えを受けた。
仲地は苦心の末、膿疱を持つ牛を入手し1848年、牛痘種痘法を完成させた。
この後、1849年に長崎で蘭医モーニッケが鍋島藩の姫に接種したのが日本各地に広がっていったのである。
「 なかち 」 といえば、沖縄でジンマシンが出て、名護にある 「 なかち皮膚科 」 で受診したことがある。
そのとき先生とグスクの話をしたのだが、先生が仲地紀仁の子孫だとか言ったのを憶えている。