「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

『 鉄の女 』 イクノディクタス

2013-04-10 00:04:24 | 競馬・ボート



「 小倉記念 」  1991.8.25







「 小倉大賞典 」  1992.2.23






「北九州記念」 1991.8.4





小倉大賞典パドック




その強い意志と行動力で英国経済を立て直し、
自由放任主義的な「サッチャリズム」を旗印に
緊縮財政政策や規制緩和などを推進したサッチャー元英国首相が脳卒中のため亡くなられた。
「 鉄の女 」 として英国を先導した彼女も病には勝てなかったのだろう。


今から20年ほど前、熊本に住んでいたときに熊本日々新聞に3年間にわたり競馬エッセイを連載していた。
そのときに 「 鉄の女 」 と題して、イクノディクタスという牝馬を取り上げたことがある。


『 鉄の女 』

13日の日曜日は朝から 「 のぞみ 」 に乗って新大阪まで出て、
大阪まで引き返して梅田から阪急電車で仁川まで行き、阪神競馬場へ向った。
阪神競馬場は新幹線や飛行機の窓から見たことはあるが、
こうしてその地に立って目の当たりにするのは初めてであった。

宇宙ステーションを思わせるような銀白色の屋根がどっしりとメインスタンドの前を覆い、
入場ゲートをくぐるだけでもワクワクして、思わず駆け出してしまいそうになる。
この阪神競馬場は平成2年の6月から1年半をかけて改築工事を行い、
昨年の11月30日に新装オープンしたものである。
近代的な競馬場の目玉は、なんといっても雨に濡れないで見る事が出来る屋根付きパドックだ。
音響の関係からオッズ掲示板の上が一部開いているのを見て、半開きになった福岡ドームを思い出した。
メインスタンドは地上6回でどの階からでもパドックが見えるようにガラス張りなっている。
1階はファーストフードプラザになっていて、和洋中のいろんな味が楽しめる。
そして各階への移動はエスカレーターと、デパート気分で馬券が買え、
しかも前売りの馬券については全てマークシートで自動で買える気軽さがある。

さて、問題のレースだが、春のグレードレースを締めくくりである宝塚記念 ( GⅠ ) には、
「 皇太子殿下御成婚奉祝第三十四回宝塚記念 」 と銘打たれていた。
11頭のメンバーの中に抜きん出た馬が両メジロのマックイーンとパーマーだった。
その2頭を指示したオッズは、枠番連勝の③-⑥が160円と圧倒的な人気を受けていた。
だが、 「 勝負は水もの 」 とはよく言ったもので、
フタを開けてみれば本命でおさまらず、波乱となった。

緊張のスタート前、気合いが入り過ぎたロンシャンボーイがゲートが開く前に
ゲートに打ち当たって飛び出してしまった。
これで水を注された恰好になり、再度の仕切り直しでケチがついた。
逃げ宣言をしていたロンシャンボーイはバテバテになり、
人気のメジロパーマーもニシノフラワーも馬ゴミであえぐのを横目に
一気に抜けたのがメジロマックイーンだった。
ドーッと沸くスタンドの目は2着争いに絞られた。
ただ一頭スタートから内ラチ沿いを駆けたオースミロッチと、
最後方から猛然と追い込んで来たイクノディクタスの叩き合いになったが、
勢いに勝るイクノの軍配があがり、前回の安田記念に続き高配当の立役者となった。

今年で7歳になる牝馬のイクノディクタスは46戦とまさしく 「 鉄の女 」 である。
思ってみれば御成婚ということもあり、牡馬と牝馬がアベックでゴールしても不思議ではなかった。
ちなみに牝馬がこのレースで連に絡んだのは、昭和47年のタイヨウコトブキ以来、
実に21年振りのことである。
安田記念に続き、またしても 「 鉄の女 」 にやられてしまった感じである。




福岡県築上町  ・  メタセの杜 「 T-33複座ジェット練習機 」

2013-04-10 00:01:57 | 戦闘機 ・ 自衛隊関係



「 T-33複座ジェット練習機 」




















前後して座る複座式になった操縦席












航空自衛隊築城基地の 「 カラス天狗 」












両翼の下にある車輪の格納場所













添田公園にあった頃のT-33












福岡県築上町にある航空自衛隊築城基地の近くにある
物産館「メタセ杜」に設置されたT-33複座ジェット練習機。
このT-33は、以前は田川郡添田町の添田公園に設置されていたものであるが、
不用になったため?一度国に返還されたものを
築城にあるメタセの杜に移設したものである。


T-33は、アメリカ空軍初の実用ジェット戦闘機P-80から発展した、初の複座ジェット練習機で、
米空軍における愛称は、原型のロッキードP-80同様シューティングスター(Shooting Star:流星の意)。
米海軍でもTO-2(1950年以降TV-2と改称)の名称で使用された。
生産開始から半世紀以上経過した1990年代以降も現役で、
日本の航空自衛隊でも1954年から2000年まで運用されていた。

航空自衛隊では1954年(昭和29年)の創立当初からF-86Fと共にアメリカから68機の供与を受け、
翌1955年(昭和30年)からは川崎航空機によって210機がライセンス生産され、
計278機が本来目的の乗員育成のみならず、
訓練支援、連絡業務、デスクワークパイロットの規定飛行時間維持の為の年次飛行などに広く用いられた。

なお日本では米での愛称「シューティングスター」、
日本での公式愛称「若鷹」よりもその型番に由来する「サンサン」の名で広く呼ばれた。

老朽化した1980年代後半から順次退役が始まり、
後継機の川崎T-4への置き換えが進められていき、2002年までに退役させる予定だった。
しかし、1999年(平成11年)11月22日、入間基地の航空総隊所属の1機が墜落し、
乗員2名が殉職、墜落時の送電線の切断により約80万世帯が停電するという事故が発生し、
残存していた8機全機に対し飛行停止処分が課され、
地上に留置されたまま翌年2000年(平成12年)6月に除籍された経緯がある。