八幡古表神社にある江戸時代の古地図では、海岸の小高い丘の上の巨石として描かれ、
周辺からも弥生式土器など多数の遺物が発見されている。
遺物の中には 祭祀 さいし 土器も含まれており、
巨石信仰 きょせきしんこう の一つであり、海の神を祀る祭祀跡であったと思われる。
また、巨石はかつて周辺の人々から「鬼の臼」とも呼ばれ、
上部にある穴に溜まった水を付けるとイボが落ちるという信仰もあり、
「イボ神様」とも呼ばれている。
福岡県築上郡吉富町の北部、海岸近くの小高い一帯の中央部に、
高さ2m、周囲4mほどの岩石が、やや東に傾いて座っている。
この石を皇后石という。
各地に残る皇后石伝説のひとつでもある。
時は仲哀天皇の御世。九州の地に都を移し、三韓を討つことになった。
その準備の最中に天皇が崩御された。だが神功皇后は、それを隠して男装し、
軍を率いて兵の不足を補うためにこの地方の沿岸を廻った。
しかし、思うにまかせず 「 事ここに至っては 」 と、
諸国の神々に祈ることになった。その祭壇がこの石である。
皇后は、大臣の武内宿彌を従え、数隻の船でこの地に着き、
自ら海の幸、山の幸を石の上に供えて天神地祇に祈られた。
その祈りによって兵を多く得、船も調達できた。
その後、海神・住吉大神の助けを得た皇后は、亡き天皇の遺志を果たすことが出来た。
時は移り、欽明天皇のころにはこのことを知る者もいなくなっていた。
今は神となった神功皇后は、かつての自分の事蹟を懐かしみ、
白雲に乗って諸国を周りこの地に到った。
丁度その時、土地の支配者・玉手翁が山国川のほとりを散歩していた。
雲上の皇后を神と知り平伏した翁に、
皇后は天皇の遺志を叶えてくれた石のことを話して聞かせた。
翁は感激し、神功皇后を自分たちの氏神として社殿を営むこととなった。
そして、人々はこの石を皇后石と呼ぶようになった。
皇后石の東約1キロの場所に八幡古表神社が鎮座している。
祭神は息長帯姫尊 ( おきながたりしひめのみこと ) 、即ち神功皇后である。
その西脇殿に住吉大神があり、東脇殿には四十柱の神々が居られる。
その中には、竹内宿彌や玉手大神の名も見える。
皇后石は今でも古表神社の奥の宮として神幸場になっている。
人々が神を祀る社殿を営むようになる以前は、
山や石が神の座であり、政治の場でもあった。
そういった意味からも、この皇后石の周囲からは弥生式土器が多数出土しているのも
うかがえる。