東側正面から見た白州灯台
西側正面から見た白州灯台
まるで蜃気楼のように響灘に突如として現れたような白州灯台
石積みの岸壁は明治時代に築かれたもの
その名の如く白州に立つ灯台
わずかに盛り上がった北西からの眺望
灯台に設置されたネームプレート
LD管制器Ⅱ型の灯器でD-1の電球を使用している
初点はフランス製のレンズだったことを知らせるプレート
内壁に沿って曲線に設置された階段
各フロアの乗降口に設けられた手摺り
2階天井部分
レンズがある頂部フロアの3階天井部分
階の途中に縦長にはめ込まれた明かり窓
二重の擦り上げ式になった2階フロアにある窓
灯台頂部はコンパクトになっている
折れた方位を示すWの文字が時の流れを感じさせる
頂部の周囲を回る鍔は一部が朽ちている
明かり窓に付けられた軒がお洒落である
3分の2までは切り石を円筒状に積み上げている
灯台の入り口部分
重厚な切り石で造られた階段部分
灯台下部は石垣と盛土で守られている
海の向こうに山口県の蓋井島が見える
船上からの遠望
小倉北区長浜にある 「 岩松助左衛門翁の生誕の家 」
岩松助左衛門翁の生誕の家の前に立つ路標
岩松助左衛門翁と白洲灯台
「 岩松助左衛門翁顕彰会 」 のパンフレットより
岩松助左衛門は、文化元年(1804年)豊前国企救郡長浜浦で生まれました。
18歳で長浜浦の庄屋となり、以来41年間庄屋を務め、
その後その功績と経験が認められ「小倉藩海上御用掛難破船支配役」という役職を命ぜられました。
小倉沖の響灘は筑前・肥前方面から瀬戸内海へ往来する航路、
また日本海からやってくる北前船が通行する海の幹線で、
幕末・維新の頃には1年間に2万隻もの船が航行していました。
しかしこの辺りは、暗礁が多く急潮のため、船乗りからは海の難所と恐れられていました。
その中でも特に、藍島の西南1kmのところにある
白洲と呼ばれる大暗礁(長さ140m・横100m)での海難事故は後を絶ちませんでした。
庄屋の頃から難破船の救助を数多く経験してきた助左衛門は、
この暗礁の危険から航海者を守るためにこの白洲に常用灯の灯籠台を建てることを発案し、
文久2年(1862年)4月、小倉藩に白洲灯籠台築立願を提出しました。
時は幕末から明治へ変わろうとする大混乱の世情の中、
助左衛門は岩松家の全財産を投じ、不足の建設資金は募金・借金と奔走しました。
近隣漁民の反対、事業を支えてきた妻とみの死など幾多の困難を乗り越え、
ついに明治3年(1870年)7月基礎築立の竣工をみることが出来ました。
明治4年(1871年)4月、明治政府は海の交通整備を図るために
危険な航路に灯台建設を進めるための灯台寮を設置。
助左衛門の進めてきた工事は政府に受け継がれることになりました。
明治5年(1872年)3月、白洲での建設工事が始まりました。
しかし、人命尊重の悲願のために一念を燃やし続けた岩松助左衛門は同年4月25日、
白洲灯台の点灯をみることなく死去しました。
助左衛門が造った旧施設は、政府が買い上げ明治6年(1873年)9月6日、
ようやく白洲灯台は完成。正式の灯台として発足しました。
灯台表番号 / 5544
ふりがな / しらすとうだい
標識名称 / 白州灯台
所在地 / 福岡県北九州市若松区 ( 藍ノ島南端西方約2.7㌔ )
北緯 / 33-59-01 ( 01.0 )
東経 / 130-47-30 ( 30.3 )
塗色 / 白地に黒横帯3本塗
灯質 / 単閃白光 毎4秒に1閃光
光度 / 実効光度 640カンデラ
光達距離 / 8.0海里
地上~頂部の高さ / 16.69m
平均水面上~灯火の高さ / 16.0m
地上~灯火の高さ / 14.5m
業務開始年月日 / 明治6年9月1日
現用灯器 / LD管制器( Ⅱ型 )
この白州灯台は現役でありながら、近代土木遺産としても価値ある灯台である。
白州灯台は響灘の藍島と白島の間に浮かぶ小さな島に立つ灯台である。
この地域では珍しい白と黒のツートンの横帯の入った高さが17mの灯台で、
単閃白光で毎4秒1閃光となっている。
灯台マニアなら、一度は上陸して実際に目の当たりにしてみたい灯台であろう。
白州灯台へのアクセス
白州灯台へは、定期便がないため渡船を使わなければ上陸は出来ないが、
上陸が許可されているのかどうかは定かではない。
遠望だったら藍島や若松工業地帯の防波堤から見ることが出来る。