「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県築上町寒田 ・ 「 雲の砦 」 岩井 護

2014-11-09 05:58:41 | 文学・文化・映画作品



三丁弓の岩








城井ノ上城址登り口





岩井 護は、飯塚市出身で、福岡市に住み、博多の郷土史に造詣が深い。
戦国ものをはじめ歴史・時代小説などを執筆している作家である。

『 雲の砦 』 は、旧・築城町寒田の城井谷 ( きいだに ) の城井ノ上城主の宇都宮鎮房と
中津城に居を構えていた黒田官兵衛孝高 ( 後の如水 ) と長政親子の戦いと、
薩摩藩に逃げる八重姫を描いた小説である。
この作品は、昭和44年 ( 1969年 ) フクニチ新聞に85回連載されたものである。

中津城に赴いた鎮房は、酒席で長政に謀殺された。
黒田官兵衛孝高の肥後の鎮圧に同行していた朝房 ( 鎮房の嫡男 ) は、
熊本県の木葉で黒田官兵衛孝高に切腹を命じられ、拒む朝房を惨殺する。
政略結婚させられた鎮房の双生児の娘のうち、姉の鶴姫は鎮房謀殺後、
小犬丸の河原で磔にされる。

ふたごは不吉として家臣に預けられていた双子の妹・八重姫は家臣二人に守られて
寒田 ( さわだ ) の城井谷を脱出し薩摩藩に向かった。
八重姫たちは、臼杵から日向街道を南下、宇根原地区の山道を豊後と日向の国境近くにたどり着く。
そこで見たものは、 「 城井谷の城井ノ上城付近の山々の眺めとそっくりだったのだ。
陽射しをはね返して、ぎらぎら光っている雲の頂きは、緑の山頂で懐深い城井谷の暮らしを
四百年にわたって見守って来た、城井ノ上城の厳しい姿とそっくりだった 」 とある。

城井ノ上城の入り口には、男三人が座れるほどの大きな穴があり、
攻めの手を防ぐのに三丁の弓で足りたという 「 三丁弓の岩 」 が砦となった。


岩井 護 ( いわい まもる ) は、昭和2年 ( 1929年 ) 嘉穂郡飯塚町 ( 現・飯塚市 ) に生まれた。
西南学院大学在学中から 「 九州文学 」 に参加していた。
九大付属図書館在籍中に書いた「雪の日のおりん」で第10回小説現代新人賞受賞した。

小説 「 花隠密 」 (講談社刊)が松平健の主演で舞台となり、大阪の新歌舞伎座などで上演された。
花を愛した徳川家斉にハナショウブを献上する肥後と宇和島の 「 花戦争 」 を背景とし、
勝負に負けた宇和島から花作りの秘密をさぐりに肥後に潜入する 「 花隠密 」 の悲恋を描いた作品や、
「 まぼろしの南方録 」 「 踏絵奉行 」 「 福沢諭吉 」 「 西南戦争 」 などがある。
2013年1月30日没。



佐賀県唐津市 / 唐津くんち 「 二番曳山 ・ 青獅子 」

2014-11-09 05:57:41 | 日記 ・ イベント























青獅子は二番曳山として刀町の赤獅子より5年遅れて
1824(文政7年)9月に年寄・前田久左衛門、高橋太郎兵衛、
組頭・浦田喜兵衛、松永吉助、世話人・宮川利左エ門、亀山仲兵衛、
獅子細工人・辻利吉、塗師・儀七、他若者12名により製作された。

遅れた理由はいろいろ考えられるが、一説によれば曳山の製法を刀町が教えず、
京都まで聞きに行ったとも言われているが、刀町は赤獅子を披露しているので、
それは考えられないと思われる。

やはり、財政面の問題や機運の高まりなどが関係していたのではないだろうか。
本当に京都まで出向いたとすれば、
それは赤獅子の製法や耐久性などに問題点がないかとの観点から、
確認及び工法などの見聞を広めるものであったのだろう。

青獅子は赤獅子に比べ、すべての面で小ぶりに造られている。
角はふたまたになっており、耳は垂れずにピンと垂直に立っている。
また、鼻も多少異なっているようだ。
青獅子は一般に雄と考えられているが、解釈には色々あって、
天照大神が女性であるので赤獅子は雌だと言う者や、赤獅子が大きいから雄で、
青獅子は小さいから雌だと言う者もいる。
結局のところ、雌雄は決めかねるというのが実情だ。
青獅子は赤獅子と同様に、面は粘土型を原形として、和紙を張り重ねた一閑張りである。
また、頭の後部の毛は麻苧の濃紺染めとなっている。
曳山の幅は2.5㍍。高さは約4.8㍍。
重さは推定で1.6㌧~1.8㌧である。[参考・転載:唐津くんち「ガイドブック」(1991)]