「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

佐賀県唐津市 / 唐津くんち 「 五番曳山 ・ 鯛 」

2014-11-19 05:13:41 | 日記 ・ イベント
























































■唐津くんち(五番曳山 鯛)

町名:魚屋町

製作年:弘化2(1845)年9月

総高:約6.7m

重さ:約1.6~1.8トン

製作担当者:不明

塗師:不明


1845年(弘化2)に鯛曳山ができた頃は、魚屋町はその名の通り魚屋が軒を並べていた。
この町名にちなんで、海の幸として日本人の珍重する鯛をお供えすることに決め、
鯛曳山を造り神輿に供奉したものと思われる。
ちなみに鯛の伝説を調べてみると、延喜式に平魚とあるがこれは鯛のことで、
肥前地方では「へいけ」、土佐では「うだい」その子を「へラボ」と呼ぶが、
これは平魚の転語であるという。鯛は古くからその名を知られており、
海幸彦の釣針をのんだため口をさかれたという神話があり、
口が大きいのはその名残りとされている。

紅鱗の美しさとその美味は最上のものとされ、
目出度いという語呂合わせから後世にはあらゆる祝いごとの食膳を飾るようになった。
この鯛と称する魚には、マダイ、キダイ、チダイがあり、
チダイは背ビレ十二棘八軟条、尻ビレ三棘八軟条を有し、縦一列の鱗数は60個であるという。
したがって唐津の漁師たちは、鯛曳山の鯛は棘の数が少ないのでマダイではないかと言っている。
だが、この単純で技巧の凝らしようがない魚を見事に造形したのには感嘆する。

肉付けを厚くして、前面からの眺めを良くしたばかりでなく、
胸ビレを開閉できるようにしたり、尾だけを後屈するようにして、
前後が交互に上下するよう仕組み、大手門や細い町並みの軒先をかわすように工夫されている。
   
鯛曳山の胴体は、粘土型に紙を張り、
ヒレと尾は木型に紙を張り漆を塗った一閑張りで仕上げられている。
曳山の幅は2.2㍍、高さ約6.7㍍。重さは推定で2.0㌧から2.5㌧ほどある。
昭和54年には、フランスのニースカーニバルに出演して好評を博した。




福岡県豊前市 / 全国で最後に築かれた城 「 旭 城 」

2014-11-19 05:12:41 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )



旭城跡の城壁を望む








本丸があった千束神社







境内にある旭城の説明版






旭城の城跡は、千束神社と千束小学校の敷地にあったと言われている。
現在、千束神社を囲むように高さ2mほどの石垣を残すだけである。
この城の築城者は、豊前小倉十五万石の藩主・小笠原忠雄の弟直方の子孫貞正である。
直方は、 「 篠崎候 」 と呼ばれ、一万石を分封。
小倉城下、篠崎 ( 現・小倉北区木町 ) に屋敷を構えていた。

慶応二年 ( 1866年 ) 八月一日、小倉藩と長州藩との戦いで、
小倉城、篠崎邸ともに焼け、小倉藩主・小笠原豊千代 ( 忠忱 ) 、
篠崎候・小笠原近江守貞正ともに田川郡香春に逃れ、
貞正は同年10月1日、領内当郡に来て安雲 ( 築上郡上毛町 ) の光林寺に入った。
かつて多くの古墳があり、千束原と呼ばれたこの地に居館を構えることになり、
古墳の石材で石垣を築き、明治3年 ( 1870年 ) に完成し、旭城と名付けたが、
明治4年に廃藩置県となり、築城間もない当城は廃城となった。

完成して1年も経たずに廃城と、その城の命の短いことでも全国に例がなく、
全国で最後に築かれた城としても有名である。