「 焼罪公園 」 は、長崎県平戸市田平町の
平戸たびら温泉サムソンホテルの裏側にひっそりある公園で、
イタリア人宣教師カミロ・コスタンツォ神父が
火刑に処せられた 「 殉教の碑 」 が建てられている。
ここから海を挟んで正面には 平戸城 と
聖フランシスコ・ザビエル記念教会 が見える。
徳川幕府が発布した禁教令により、
外国人宣教師や一部の日本人キリシタンが国外追放となる中、
何人もの宣教師たちが日本国内への潜伏、布教を試みた。
カミロ神父もマカオ追放後、再び平戸や生月で布教を行い、
その後宇久島に渡ったところで役人に捕えられ、
1622年に焼罪 ( やいざ ) と呼ばれる岬で火刑に処せられた。
カミロ・コンスタンツォ神父はイタリアのカラブルに生まれ、ナポリに学んだ。
21歳でイエズス会修道会に入り、33歳でインド布教の伝導師となる。
高潔な人格と敬虔な態度、温厚な容貌の持ち主であった。
1605年渡来し、豊前小倉、泉州堺で9年間布教し、
その間、日本史および仏法八宗の教旨を研究した。
1614年幕府により、国外追放となり、マカオに行き、
仏教研究、日本語習得に努め、日本に密航の機会を狙っていた。
1621年6月、日本への便船があり、
兵卒の姿で長崎に上陸、監視の目を逃れて、肥前不動山に暫く潜伏、
唐津に出て3ヶ月宗務をとり、布教師長の重責についた。
当時平戸では、厳しい弾圧で、苦境にあり、獄に繋がれていた者もいた。
カミロ神父は平戸に行き、密かに彼らに近づき、
慰め、秘蹟を授け、殉教の心を喚起した。
次に生月に渡って3ヶ月の間信者を導き、布教した。
人々は彼を父と慕った。
当時の生月の奉行は、熱心信者の妻の入門の勧めに、立場上耳をかさなかった。
またカミロ神父の潜入を聞いて見逃すわけには行かなかった。
カミロ神父も身の危険を感じ、かねて納島の信者を訪問しようと思っていたので、
数人の信者と生月を去った。
西風が荒く、まず渡島に向かったが、渡島も危険なため、
逆風をついて予定通り、納島に向かった。
ここで一泊したが、納島も危ないので、宇久島の神の浦に向かった。
しかし、ここで追っ手に捕らえられ、
同行の者たちおよび庇護した者たちも牢に繋がれた。
藩主の松浦隆信は、自領内で再び切支丹問題が起きた事で、
厳罰を以って臨む事とし、転宗を拒否し続けたので、死刑の宣告を下した。
カミロ神父は、1622年9月15日、田平の焼罪の丘で火あぶりで殉教を遂げた。
殉教の碑の炎のオブジェには、カミロ神父が炎に包まれて
天に向かって拝み、仰ぎ見る姿が取り込まれている。
カミロ神父が火あぶりの刑になったのは、 「 焼罪の丘 」 というが、
その 「 焼罪 ( やいざ ) の丘 」 というのは後でついた地名だと思う。
実際には丘ではなく、その下の海岸ではなかのかと思われる。
かつて琉球王朝時代の平敷屋・友寄事件で、
平敷屋朝敏と友寄安乗が蔡温に処刑されたのは、安謝の浜だった。
安謝の浜は、現在の那覇工業高校の手前辺りで、
その当時は東シナ海に向かって遠浅の浜が続いていたと思われる。
また、宇都宮鎮房の娘、千代姫が黒田長政に磔の処刑をされたのが
大分県と福岡県の県境を流れる山国川の小犬丸の河原だった。
そんな観点から推測すると、
その当時海岸や河原は 「 死者にとってあの世に一番近い場所 」 で、
死者の亡骸を葬るのに適した場所であったと考えられる。
その所為ではないだろうが、
この公園の写真と、公園の真下にある灯台の写真が、
どれも真っ暗に写っていた。
この写真は露出などで明るさや鮮明さを調整したが、
よく見ると、どの写真も塔の両方にカラスが止まっている。
家に帰ってパソコンに取り込むまで気づかなかったが、
墓やグスクなどでたまにこうした現象の写真がある。