「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

長崎県佐世保市吉井町  「 高峰橋 ( 平山橋 ) 」

2016-10-21 07:59:07 | 長崎の石橋



























































架橋  / 大正9年ごろ
長さ  / 7.2m 
幅員  / 3.6m


大分県の院内や熊本県の美里町ほど知られていないが、
長崎県佐世保市世知原町には18基の石橋があり、
その隣町にある吉井町にも10基の石橋がある。
さらに小佐々町に1基、平戸島に4基の石橋がある。

そんな吉井町を中心とした石橋を探訪順に随時紹介していきたいと思っています。
その第一弾が、場所がわからず探し出すのに手間取った 「 高峰橋 」 である。
高峰橋は佐々町八口免と吉井町下原の両町に跨って架かる橋で、
現在もコンクリートで補強され現役の生活路として活躍している石橋である。

右側の橋台と通路部はコンクリートで固められているが、
その他は切り揃えられた石が綺麗に組まれており、
ガッシリとしたやや扁平なアーチが直接路盤を支えている。
高欄はコンクリートで建てているが、その中に当時の親柱が巻かれている。



高峰橋へのアクセス
高峰橋へは、佐々方面から吉井町に向かって行き、
吉井町の市街地の手前を右手に山に向かって入って行くと、
特別養護老人施設 「 煌めきの里 」 の下の道に架かる八口橋を過ぎて
上流に100mほど行った場所に架かっている。

橋の横の田んぼにイノシシよけの高圧電線が設置してあるので、
くれぐれも触れないように注意して歩かねばならない。


第8位 みずがめ座 今日のラッキーポイント 「 ツボ押し 」

2016-10-21 06:00:21 | 今日の占い ・ 二十八宿とコトバ

     昨日、ドラフト会議が行われた。
     今回の目玉である田中正義投手をどこが引き当てるか興味が持たれた。
     その結果、我がソフトバンクホークスが交渉権を獲得した。
     プロになるのも大変だが、
     これから野球を生業としてやって行くのは、
     さらに大変である。
     華やかなプロの世界でやって行けるのは
     ほんのひと握りでしかないのだから、
     そのことを肝に銘じて望んで欲しい。
     好きなことなら少々のことでも我慢できる。
     野球愛を持ってプロの世界に入って欲しいと思っている。
     そんなことを思う今日の順位は8位で、
     ラッキーポイントは、
     「 ツボ押し 」 である。

     馴れ馴れしい人にご用心!
     優しい言動には落とし穴が・・・


長崎県平戸市 ・ 焼罪公園 「 カミロ・コンスタンフォ神父 殉教の碑 」

2016-10-21 03:18:11 | 教会














「 焼罪公園 」 は、長崎県平戸市田平町の
平戸たびら温泉サムソンホテルの裏側にひっそりある公園で、
イタリア人宣教師カミロ・コスタンツォ神父が
火刑に処せられた 「 殉教の碑 」 が建てられている。
ここから海を挟んで正面には 平戸城 と
聖フランシスコ・ザビエル記念教会 が見える。

徳川幕府が発布した禁教令により、
外国人宣教師や一部の日本人キリシタンが国外追放となる中、
何人もの宣教師たちが日本国内への潜伏、布教を試みた。
カミロ神父もマカオ追放後、再び平戸や生月で布教を行い、
その後宇久島に渡ったところで役人に捕えられ、
1622年に焼罪 ( やいざ ) と呼ばれる岬で火刑に処せられた。


カミロ・コンスタンツォ神父はイタリアのカラブルに生まれ、ナポリに学んだ。
21歳でイエズス会修道会に入り、33歳でインド布教の伝導師となる。
高潔な人格と敬虔な態度、温厚な容貌の持ち主であった。

1605年渡来し、豊前小倉、泉州堺で9年間布教し、
その間、日本史および仏法八宗の教旨を研究した。
1614年幕府により、国外追放となり、マカオに行き、
仏教研究、日本語習得に努め、日本に密航の機会を狙っていた。
1621年6月、日本への便船があり、
兵卒の姿で長崎に上陸、監視の目を逃れて、肥前不動山に暫く潜伏、
唐津に出て3ヶ月宗務をとり、布教師長の重責についた。

当時平戸では、厳しい弾圧で、苦境にあり、獄に繋がれていた者もいた。
カミロ神父は平戸に行き、密かに彼らに近づき、
慰め、秘蹟を授け、殉教の心を喚起した。
次に生月に渡って3ヶ月の間信者を導き、布教した。
人々は彼を父と慕った。

当時の生月の奉行は、熱心信者の妻の入門の勧めに、立場上耳をかさなかった。
またカミロ神父の潜入を聞いて見逃すわけには行かなかった。
カミロ神父も身の危険を感じ、かねて納島の信者を訪問しようと思っていたので、
数人の信者と生月を去った。

西風が荒く、まず渡島に向かったが、渡島も危険なため、
逆風をついて予定通り、納島に向かった。
ここで一泊したが、納島も危ないので、宇久島の神の浦に向かった。
しかし、ここで追っ手に捕らえられ、
同行の者たちおよび庇護した者たちも牢に繋がれた。

藩主の松浦隆信は、自領内で再び切支丹問題が起きた事で、
厳罰を以って臨む事とし、転宗を拒否し続けたので、死刑の宣告を下した。

カミロ神父は、1622年9月15日、田平の焼罪の丘で火あぶりで殉教を遂げた。
殉教の碑の炎のオブジェには、カミロ神父が炎に包まれて
天に向かって拝み、仰ぎ見る姿が取り込まれている。

カミロ神父が火あぶりの刑になったのは、 「 焼罪の丘 」 というが、
その 「 焼罪 ( やいざ ) の丘 」 というのは後でついた地名だと思う。
実際には丘ではなく、その下の海岸ではなかのかと思われる。

かつて琉球王朝時代の平敷屋・友寄事件で、
平敷屋朝敏と友寄安乗が蔡温に処刑されたのは、安謝の浜だった。
安謝の浜は、現在の那覇工業高校の手前辺りで、
その当時は東シナ海に向かって遠浅の浜が続いていたと思われる。

また、宇都宮鎮房の娘、千代姫が黒田長政に磔の処刑をされたのが
大分県と福岡県の県境を流れる山国川の小犬丸の河原だった。
そんな観点から推測すると、
その当時海岸や河原は 「 死者にとってあの世に一番近い場所 」 で、
死者の亡骸を葬るのに適した場所であったと考えられる。

その所為ではないだろうが、
この公園の写真と、公園の真下にある灯台の写真が、
どれも真っ暗に写っていた。
この写真は露出などで明るさや鮮明さを調整したが、
よく見ると、どの写真も塔の両方にカラスが止まっている。
家に帰ってパソコンに取り込むまで気づかなかったが、
墓やグスクなどでたまにこうした現象の写真がある。



福岡県宗像市  「 フェリーおおしま出航 」

2016-10-21 01:02:41 | 船 ・ フェリー ・ 港







今か今かと待ちわびた時間も迫り、
出航を知らせる汽笛が鳴り響く。
” 待ってました! ” と言わんばかりに
気持ちと一緒に
船は次第に桟橋から離れていく。

それは・・・
杉本 清アナウンサーの実況じゃないけれど、
ゲートインした馬のように、
「 さぁ、行くぞ! 」 っていう感じである。