「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

大相撲・幕内土俵入り と 高見盛

2013-01-26 00:05:44 | 相撲



十両でも人気者の高見盛










大相撲の土俵入りは、一度に大勢の力士が見れることでファンも興奮する瞬間である。
好みの力士や横綱・大関など、
テレビで馴染みの力士を目の当たりに出来ることは嬉しいものである。

かつては幕内で活躍した人気力士のひとりである高見盛が4勝9敗と負け越し、
十両から陥落が決定的になった。
引退を示唆していただけに、あの “ ロボコップ ” のような独特な動きが見れなくなると思うと
寂しいものである。
引退?だとしたら、せめて最後の相撲くらいは勝って欲しいと願っている。





沖縄県宮古島  ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 【 観音堂経塚 】

2013-01-26 00:03:24 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



「 経呪嶺 ( きょうじゅれい ) 」 と書かれた経塚の石碑







1699年創建の観音堂だが、戦後コンクリートに建て替えられた














観音堂の敷地内にある石柱









平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


祥雲寺の前の坂を下るとカーブに階段があり、その階段の上に観音堂経塚がある。
このあたりはかつて寺山と呼ばれていたそうである。

この観音堂はコンクリートで出来ていたが、史跡の説明板によると、
お堂が出来たのは17世紀末ですが、戦争で焼けてしまい、
その後に現在のコンクリートのお堂になったとのことである。


観音堂は1699年の創建で、定納船上下の安全祈願所として崇敬をあつめたと伝えられている。
前庭にある経塚は、宮古における仏教伝来の事跡を形ある物を以って示す数少ない遺跡の一つである。
石碑の表には「経呪嶺(きょうじゅれい)」、
裏には、「 雍正丙辰冬白川氏恵道建焉 ( ようせいひのえたつふゆしらかわうじけいどうここにたてる ) 」
と記されている。

経塚とは、経典や経文を書き写して塔内または塔下に埋めた塚、または塔碑のことをいい、
この経塚には、 「 金剛経 」 の経文が墨書された小石が埋められたと言われる。
経塚建立の雍正丙辰は、雍正14年 ( 乾隆元・1736年 ) で、観音堂建立の37年後のことである。
白川氏恵道は、家号上地野 ( うえずの ) で、
雍正9年 ( 1731年 ) から乾隆2年 ( 1737年 ) まで平良の頭職をつとめており、
この経塚は恵道が頭職在任中に建立したものである。


所在地 : 宮古島市平良 西里



沖縄県宮古島  ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 祥雲寺石垣 」

2013-01-25 00:52:24 | 沖縄の文化財




























平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたので、
これから少しずつ紹介して行きたいと思っている。

祥雲寺は薩摩藩の建議で1611年に山月和尚によって開山された。
当時の寺域はどの程度あったか定かではないが、
1685年になって住職の輪番制 ( 3年交換 ) を設けているところから、
寺域も次第に整備されて来たものと推定される。
『 球陽 』 は1696年の大地震の際、寺の石垣が崩されたことを記しており、
このころすでに祥雲寺の石垣があったことを示している。

18世紀の初頭、宮古では全域にわたって大規模な土木工事が進められており、
このとき祥雲寺の石垣も改めて築かれたものと考察される。
戦災をはじめ都市計画等によって平良の町並みも大きく変貌し、石垣も消滅しつつある。
当時の石垣文化を知る上からも貴重な建造物である。

所在地 : 宮古島市平良西里



熊本県天草市  「 志安橋 ( しあんばし ) 」

2013-01-25 00:50:57 | 熊本の石橋




































所在地 / 熊本県天草市亀場町食場
架橋  /  明治15年 ( 1882年 )
石工  /  大塚光治、横山為吉、大塚芳太郎、大塚要太郎ほか
長さ   /  8.8m   幅   /  3.0m
拱矢  /   3.4m   径間  /  7.1m 
単一アーチ



志安橋は、本渡の食場を流れる宇土川に架かる石橋で、
路面はコンクリートで舗装されているが、
往時の姿を残し、周辺地域の田園風景に溶け込んでいる。
現在も通学路として利用されており、地元の子どもたちに親しまれている。



沖縄県宮古島   「 平良港荷川取沖防波堤灯台 」

2013-01-25 00:49:05 | 宮古の灯台

















































平良港から右手に公園のようになった場所に白い灯台が見える。
ここの防波堤灯台は陸続きなので歩いて行けることを船から確認して島に渡った。
そして、その翌日に陸から灯台を訪れた。


灯台表番号 7180
ふりがな / ひららこうにかどりおきぼうはていとうだい
標識名称 / 平良港荷川取沖防波堤灯台
所在地 / 沖縄県平良港(荷川取沖防波堤外端)
北緯 / 24-49-05 
東経  / 125-16-36 
塗色 / 白色
灯質 / 群閃緑光 毎7秒に2閃光
光度 / 実効光度 26カンデラ
光達距離 / 3.5海里
地上~頂部の高さ / 9.4m 
平均水面上~灯火の高さ / 12m 
地上~灯火の高さ / 9.15m
業務開始年月日 / 平成1年11月29日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)



臥牙丸 ・ 豊響 ・ 豊ノ島の 「 あんこ3兄弟 」

2013-01-24 00:22:56 | 相撲



今場所は、なかなか勝てない下関出身 「 豊 響 」








栃ノ心 ( 左 ) と同じグルジア出身の 「 臥牙丸 」








技巧派の安美錦(左)と 「 豊ノ島 」












212キロの巨体をゆすって歩くのはグルジア出身の臥牙丸。
今場所はなかなか勝てない山口県下関市出身の豊響。
もろ差しになると滅法強い高知県宿毛市出身の豊ノ島。

ゆるキャラの 「 くまモン 」 ではないが、
あんこ力士を見ると、つい応援したくなる。



熊本県天草市  『 楠浦の眼鏡橋 』

2013-01-24 00:20:59 | 熊本の石橋




































所在地 / 熊本県天草市楠浦町中田原
架橋  /  明治11年 ( 1878年 )
石工  /  下浦の松次、打田の紋次
長さ   /  26.33m   幅   /  3.05m
拱矢  /   6.1m   径間  /  14.8m 
単一アーチ


楠浦の眼鏡橋は、楠浦と宮地往還を結ぶために方原川に架けられたもので、
楠浦村の庄屋・宗像堅固の遺徳を後世に伝える二大事業のひとつである。
そして宗像が行なったもうひとつの事業は、楠浦架橋の14年前、
前潟新田の水害を救うために5年余りの歳月と延べ4万5千人を使って、
方原川の流れを変える釜の迫の掘り切りの大工事も成し遂げている。
削河碑は、方原川が「なきごしの海」に曲がる河畔に建てられている。

楠浦の眼鏡橋は普通の橋に比べると、輪石上に積まれる壁石が薄いため、
輪石のアーチ曲線なりに橋全体も大きく弧を描いた形になっている。
橋は明治11年6月11日から工事に着手し、わずか80日で完成したといわれている。
橋の石材には下浦石が使われ、石工や足場枠組大工も下浦の人たちによるもので、
これは地元の人たちの手による架橋だといえる。

橋の周辺は農村地帯で、現在は農家の人たちが農作業に利用するほかは橋を渡る人も少ない。
橋は緑に包まれ、田園風景の中に溶け込んでいる。



沖縄県伊良部島  「 佐良浜港第一防波堤南灯台 」

2013-01-24 00:19:14 | 宮古の灯台



灯台の向うに池間島が見える






















灯台の向こうに宮古島市の街が見える










灯台表番号 7180.8
ふりがな / さらはまこうだいいちぼうはていみなみとうだい
標識名称 / 佐良浜港第一防波堤南灯台
所在地 / 沖縄県宮古島市(佐良浜港第一防波堤南端)
北緯  / 24-50-05
東経  / 125-13-06
塗色 / 赤色
灯質 / 群閃赤光 毎6秒に2閃光
光度 / 実効光度 59カンデラ
光達距離 / 4.5海里
地上~頂部の高さ / 9.5m 
平均水面上~灯火の高さ / 14m 
地上~灯火の高さ / 9.1m
業務開始年月日 / 平成1年11月28日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池



佐良浜港第一防波堤南灯台は、伊良部島の玄関口の佐良浜港に立つ灯台である。
この灯台が一番に伊良部島に訪れる人を迎えてくれる。



鹿児島県鹿児島市 ・  近代土木遺産 【 滝之神配水池 】

2013-01-23 00:08:17 | 近代化産業遺産・土木遺産



迫力を感じる造りと色合いである








深い谷の下にあるポンプ施設







坂の途中にある配水池への入り口となる門







上の段だけを見ると倉庫のようにしか見えない







側面から見るとなかりの奥行きがある







重厚な柱が建物を引き立たせる






大小に関わらず全ての窓や扉の縁石で囲っている






ポンプ施設の前庭の奥にある石造の建物





所在地   /  鹿児島市坂元町滝の神
竣工    /  昭和11年9月30日 ( 1936年 )
■  近代土木遺産


滝之神配水池の配水池ポンプ室は昭和11年 ( 1936年 ) 9月30日に設置されたものである。
坪数は約30坪 ( 90㎡ ) で、発電機は英国製三相式交流発電機 ( 150KW ) であった。
外観は凝灰岩をきれいに布積みして積み上げているが、扉については最近の物に付け替えたようである。
この建物自体がマジックのような仕組みになっていて、谷の上から見ると階段状に見えるが、
実際に降りて正面から見ると単独の平屋に見え、側面から見ると奥行きのある工場のように見える。
その場所々によって与える印象がこうも違う建造物も珍しいものである。
現在有形文化財などの指定を受けていないが、後世に残したい近代遺産として登録を願うばかりである。


滝之神配水池へのアクセス
滝之神配水池へは鹿児島市内の磯街道から国道10号線を東に向かい、
稲荷町を過ぎて浄水場ローターリーを出てから県道16号線沿いにある
ラーメンの 「 和田屋 」 の前辺りから左に降りて行く脇道がある。
そこから250mほど降りて行った場所が滝之神配水池になるが門が閉まっていることもある。
駐車は配水池入り口の門の手前の広くなった場所に駐車した。



沖縄県伊良部島   『 渡口の浜 』

2013-01-23 00:06:39 | 沖縄



伊良部島 「 渡口の浜 」















アダンの実










伊良部島の渡口の浜は下地島との境になる仲地に流れ込む入り江にある浜で、
浜の入り口に乗瀬御嶽がある。
天気が良ければもっといい色をした海だと思う。




沖縄県伊良部島   「 乗瀬御嶽 」

2013-01-23 00:01:58 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所


























乗瀬御嶽は伊良部町渡口の浜にある。

その昔、伊良部島のある百姓の娘は玉のように美しいので、
人々は玉メガと呼んでいた。
娘が15歳の時、潮水を汲みに乗瀬の浜に出かけたまま戻って来なかった。
それから3ヵ月経って娘が乗瀬の丘に立っていた。
両親は感極まって、我が子に抱きつこうとすると、
玉ミガは袖を千切り、 「 私は島の守護神となりました 」 と言って、山の中に姿を消した。
両親は千切れた袖を形見としてこの地に埋めた。
それから村人はここを 「 乗瀬御嶽 」 として祀った。

乗瀬御嶽は船守りの神として崇拝されている。
この御嶽でカムスという行事が毎年旧暦11月に行なわれる。
その由来は首里王府へ年貢を納めて帰る途中、暴風に遭って漂流中に中国船に助けられ、
全員無事に帰郷した。
これは乗瀬御嶽の神の加護であると、感謝の願解きをしたことによるという。
その船乗りの子孫の女性はコーキ母と称し、四日間の夜ごもり祈願を行なう。


所在地 : 伊良部町渡口の浜近く


熊本県天草市 「 市ノ瀬橋 」

2013-01-22 00:11:02 | 熊本の石橋







































所在地 / 熊本県天草市本渡町下河内 下向
架橋  /  明治24年 ( 1891年 )
石工  /  大塚光治ほか3名
長さ   /   22.2m   幅   /  4.65m
拱矢  /   6m   径間  /  18.9m 
単一アーチ


市ノ瀬橋は本渡から富岡への旧県道にあり、広瀬川に架かっている。
架橋に関する文献資料によると、明治15年4月に最初の橋が架けられたが、
明治19年7月の洪水で落橋する。
本来、木橋に架け替え計画が進められていたが、石橋に変更されたとされる。



沖縄県伊良部島   「 豊見親比屋地御嶽 」

2013-01-22 00:09:28 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所









御嶽に通じる御嶽道




比屋地御嶽は牧山の展望台の近くにあり、祭神は赤良朝金 ( あからともがに ) といい、
14世紀ごろ久米島から渡ってきて比屋地に住んだという。
住民に礼法や農法を教え、鍛冶で農具を造り、農業を督励した。
ここが島の集落の発祥地といわれ、鍛冶神、農神として崇めている。

その後、水源を求めて住民とともに西の方に移住し、伊良部元島の首長となった。
朝金の死後、人々はその徳を偲んで元の比屋地に御嶽を設け、島の守護神として祀った。
島人が最も崇拝した神で、島の大きな行事祈願はここで行なわれる。

明治期になると住民はさらに現在の字伊良部、字仲地に移動して行った。
伊良部・仲地・国仲・長浜の四カ字に朝金の分神を祀っている。
比屋地御嶽での行事は、旧暦1月に健康願い、4月にイモ豊作願イ、
8月に麦豊作願イ、世乞い、10月に火除け願いなどがある。
脇神に、近海の大フカを退治して命を失った氏親が祀られている。


所在地 : 伊良部町牧山



琉球泡盛 『 松藤 ( 三日麹 ) 』

2013-01-22 00:06:48 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒







沖縄で買って送った泡盛の久米仙と菊之露を空にして、
夕べは 「 松 藤 」 を飲んだ。
松藤は沖縄県金武町伊芸の崎山酒造の老麹山水仕込みで、
沖縄では珍しい恩納岳の軟水で仕込まれた酒は甘味があり、
味わい深く、ほのかに深みのある洋梨の香りがする25度の飲みやすい泡盛である。





大分県宇佐市  「 零式艦上戦闘機22型 ( A6M3 ) 」

2013-01-21 00:07:57 | 戦闘機 ・ 自衛隊関係



零式艦上戦闘機22型 ( A6M3 )




































太平洋戦争時代に、かつて宇佐に海軍航空隊があった関係から、
大分県宇佐市文化会館 ( ウサノピア ) に行くと、
「 零式艦上戦闘機22型 1/2モデル 」が展示されている。

22型は開発当初、零式3号艦上戦闘機と呼ばれたこの試作機は、昭和17年10月に完成。
ただちに量産発注が開始され、12月には部隊配備が始まった。
そして翌年昭和18年1月29日づけで、零式艦上戦闘機22型(A6M3)の正式名称で兵器採用された。
量産はこれまた三菱でのみ行われ、17年12月から18年8月まで560機が生産された。
量産の途中からは、主翼の20mm機銃が長銃身の99式2号固定銃3型に換装され、
零式艦上戦闘機22型甲(A6M3a)と称された。

主な配備先は空母部隊で、17年末から就役した。
昭和18年1月から陸上基地部隊支援のためにラバウルに進出した1航戦航空母艦「瑞鶴」戦闘機隊は、
21型/22型の併用だった。