「 経呪嶺 ( きょうじゅれい ) 」 と書かれた経塚の石碑
1699年創建の観音堂だが、戦後コンクリートに建て替えられた
観音堂の敷地内にある石柱
平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。
祥雲寺の前の坂を下るとカーブに階段があり、その階段の上に観音堂経塚がある。
このあたりはかつて寺山と呼ばれていたそうである。
この観音堂はコンクリートで出来ていたが、史跡の説明板によると、
お堂が出来たのは17世紀末ですが、戦争で焼けてしまい、
その後に現在のコンクリートのお堂になったとのことである。
観音堂は1699年の創建で、定納船上下の安全祈願所として崇敬をあつめたと伝えられている。
前庭にある経塚は、宮古における仏教伝来の事跡を形ある物を以って示す数少ない遺跡の一つである。
石碑の表には「経呪嶺(きょうじゅれい)」、
裏には、「 雍正丙辰冬白川氏恵道建焉 ( ようせいひのえたつふゆしらかわうじけいどうここにたてる ) 」
と記されている。
経塚とは、経典や経文を書き写して塔内または塔下に埋めた塚、または塔碑のことをいい、
この経塚には、 「 金剛経 」 の経文が墨書された小石が埋められたと言われる。
経塚建立の雍正丙辰は、雍正14年 ( 乾隆元・1736年 ) で、観音堂建立の37年後のことである。
白川氏恵道は、家号上地野 ( うえずの ) で、
雍正9年 ( 1731年 ) から乾隆2年 ( 1737年 ) まで平良の頭職をつとめており、
この経塚は恵道が頭職在任中に建立したものである。
所在地 : 宮古島市平良 西里