「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

大分県宇佐市 ・ 近代土木遺産 「 宇佐海軍航空隊 」

2013-01-21 00:06:26 | 近代化産業遺産・土木遺産



掩体壕の中でエンジンの一部を含め内部構造を見ることが出来る








史跡公園として整備されている城井1号掩体壕








今では物置として使用されている掩体壕







あちこちに掩体壕が点在する城井地区







掩体壕の飛行機型が戦争の事実をリアルに表している







真っ直ぐに伸びた道路は、かつての滑走路跡







空から見た宇佐海軍飛行場




所在地 /  大分県宇佐市城井
竣工  /  1943年 ( 昭和18年 )
■  城井1号掩体壕  宇佐市指定史跡
■  掩体壕群  Aランク近代土木遺産



この地に海軍航空隊の設置が決定したのは、昭和12年のことである。
昭和14年には練習航空隊が開隊し、訓練を開始する。
太平洋戦争が勃発すると戦闘機、爆撃機を守るために掩体壕が必要となり、
昭和18年から築造が始まった。その工法は最初に土盛りを作り、
そこに鉄筋組みを行ってコンクリートを打設する。
硬化したら中の土を取り出せば完成である。
こうして型枠無しで曲面の構造体を素早く作る苦肉の策であるが、
思いのほか頑強で、現在も農機具倉庫や車庫などに活用されている。
戦時中に造営された掩体壕のうち数基と道路となった滑走路跡が今も残っている。

終戦の年、ここは作戦部隊となり4月には神風特別攻撃隊が編成され、
串良基地などを経て南の海へ散って行った。
その数は154名に及んだといわれている。


宇佐海軍航空隊、掩体壕へのアクセス
宇佐海軍航空隊、掩体壕へは、JR日豊線柳ヶ浦駅より車で10分。
自動車では、別府宇佐道路・宇佐ICより宇佐市内のパブリック21より左折し、約5分。
駐車は、城井1号掩体壕史跡公園内にトイレ・無料駐車場が完備されている。

※ 城井1号掩体壕のみ史跡公園として整備されているので見学は可能だが、
   他の掩体壕は無断立ち入り禁止になっている。


横綱・白鵬の綱締実演と土俵入り

2013-01-21 00:04:19 | 相撲



不知火型の白鵬の土俵入り













































横綱・白鵬の綱締め







綱締め準備が出来るまで花道で待つ








土俵で綱締めを始める







長さ6mの綱を巧みに締めて行く







不知火型の白鵬の綱の結び目は双輪になっている











昨日、史上最多32回の優勝回数を誇る元横綱・大鵬(納屋幸喜)さんが亡くなられた。
子どもの頃、大鵬は最大のヒーローであり、強さの象徴だったように思える。
優勝回数32回も歴代1位だが、8割3分8厘の勝率も1位である。
通算勝数746勝の大鵬は全ての面において歴代の大横綱である。
ちなみに亡くなられた大鵬の土俵入りは、 「 雲龍型 」 であった。

横綱の土俵入りには、雲龍型と不知火型がある。
白鵬の不知火型は、第11代の横綱・不知火の土俵入りが美しく、感動的であったので、
土俵入りの型として後世に伝えられた。

横綱は、重さ14キロ、長さ6mの綱を綱を締めて土俵入りする。
不知火型は両手を大きく広げてせり上がる。
これは 「 攻め 」 の型を表している。
また綱の結び目が雲龍型は一輪のに対して、
不知火型は双輪になっている。





長崎県平戸島の川内峠にある 「 吉井 勇の歌碑 」

2013-01-20 07:00:31 | 文学・文化・映画作品















平戸港の西南約3kmの所に,眺望の良さで知られている川内峠がある。
その峠の頂上に 「 山清く海うるはしと たたえつつ旅人われや 平戸よく見む 」 という
吉井勇の歌碑が立っている。
標高約270mの高さに大草原が広がる峠一帯からは、
九十九島をはじめ生月島、遠くは壱岐、対馬などが一望に見渡せ、大パノラマが楽しめる。


吉井 勇は、維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父に持ち。
海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。

幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う。
1900年(明治33年)4月に東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に入学するが、
落第したため日本中学(現在の日本学園中学校・高等学校)に転校した。
漢学塾へ通い、『十八史略』『文章規範』などを習う。
この頃『海国少年』に短歌を投稿して1位となった。

1905年(明治38年)に攻玉社を卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って入院するが、
鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、
『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。
北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。

1908年(明治41年)、早稲田大学文学部高等予科に入学する。
途中政治経済科に転ずるも中退した。
大学を中退した1908年(明治41年)の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を
北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。

1909年(明治42年)1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、
石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。
3月に戯曲『午後三時』を『スバル』に発表。坪内逍遥に認められ、
続々と戯曲を発表して脚本家としても名をあげる。
1910年(明治43年)、第一歌集『酒ほがひ』を刊行。
翌年には戯曲集『午後三時』を刊行し、耽美派の歌人・劇作家としての地位を築いた。

1915年(大正4年)11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。
装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。
歌風は耽美頽唐であり、赤木桁平から「遊蕩文学」であるとの攻撃を招いた。
1919年(大正8年)11月、里見、田中純、久米正雄らと『人間』を創刊。
土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。


吉井 勇については、北原白秋、与謝野 寛、木下杢太郎、平野万里らと
天草の下田にある 「 五足の靴文学記念碑 」 の時に再度紹介したいと思っている。


6ヵ月になったムサシ

2013-01-20 06:59:11 | 柴犬 ムサシとピース






















1月17日で生後6ヵ月になったムサシ。
とにかく元気が良くて、無鉄砲。
先日も高さ1mのラティスをよじ登って脱走したばかり。
今まで庭で放し飼いだったが、
年末から一緒の部屋で過ごすようになってから、
仕事に行く時に後追いをして、その寂しさからか?
ラティスをよじ登って後を追って来た。
寄って来たムサシを抱きかかえて部屋に返したが、
それから仕事に出る時は玄関の扉を閉めて出るようにした。

残業になって8時に帰って来ても、
ずぶ濡れになって帰って来ても、
ムサシは必ず玄関で待ってその喜びをカラダいっぱいに表して迎えてくれる。
そんなムサシを限られた時間の中で精一杯の愛情表現で接したいと思っている。





佐賀県多久市  ・ 武富咸亮の 「 大宝聖林碑 ( おおたからせいりんひ ) 」

2013-01-19 00:07:25 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



武富咸亮の 「 大宝聖林碑 」

































大宝聖林碑は佐賀藩の儒学者で、
多久聖廟建設の設計・監督を携わった武富咸亮 ( たけとみ ともすけ ) が
佐賀・大財の私邸内に孔子様を祀る聖堂を建てた記念に1731年に建てたもので、
縁あって戦後西渓公園に移されたものである。

この“大宝聖林碑”は、亀が石碑を背負っている様式で、 『 亀趺 』 ( きふ ) というらしい。
元来、“亀の足”という意味で、古代中国(唐)にその初源があり、
記念碑や墓碑として用いられる例が多いようである。

どこのお寺だったか定かではないが、
お寺の境内の亀が夜な夜な出歩いて、人間に悪いことをするので、
背中にお経を書いた石を乗せたら亀が治まった。というような話しを聞いたことがある。
この亀を見て、その話しを思い出してしまった。



沖縄県宮古島市  道路に立つ 「 宮古島まもる君 」

2013-01-19 00:03:48 | 沖縄



宮古島まもる君

























夜、さとうきび畑が広がる交差点で、ヘッドライトに照らされた 「 まもる君 」 が
忽然と姿を現したら、 “ ゾッ ” とするだろうな。

そんな宮古まもる君 ( みやこまもるくん ) は、
沖縄県の宮古島警察署管内にあたる宮古列島の道路などに設置されている警察官型人形の愛称である。
「 宮古島まもる君 」 とも呼ばれ、2011年現在19基が設置されており、全員が兄弟と言う設定である。

身長180cm、体重5kg(足は50kgのおもり装着)。
手作業で塗装を行っているため、1基ごとに顔が微妙に異なる。
『 パーフェクトガイド 』 によれば、伝統的には 「 キモ 」 (気持ち悪い、不気味)系の顔であるが、
世代の新しいものは美形となる傾向がある。

名前は「すすむ君」「いさお君」「たかや君」「こうじ君」「りょうぞう君」
「まさお君」「かずき君」「たくま君」「ひとし君」「あつし君」「きよし君」
「いずる君」「まさかつ君」「てつや君」「まもる君」「じゅんき君」
「としお君」「いたる君」「つよし君」と妹の「まるこちゃん」

1996年に宮古地区交通安全協会が宮古島内に5基を設置。
1998年には宮古島に15基、伊良部島に1基がさらに設置された。
2009年には宮古空港にも1基が設置され、2011年現在、腐食や破損したものを除き、
合計19基が設置されて宮古列島の交通安全のシンボル的存在となっている。
なお、生産していた工場がすでに倒産しており、新たなまもる君の設置は難しい状態となっている。
また、翌2010年3月には多良間島の多良間空港にも1基が設置されているが、
これはもともと上野の大嶺に設置されていたまもる君が「人事異動」されたものである。
その他臨時的に振り込め詐欺啓蒙のために駆り出されたり、
一日税務署長を務めたりなど、その注目度を利用した活動は多岐に渡る。

2012年1月27日には、宮古島市より特別住民票が交付されている。
「宮古島まもる君」のほか、妹の「まる子ちゃん」も含めてであり、住所は宮古島警察署と同所とされた。




沖縄県宮古島  「 宮古島まもる君 」 商品

2013-01-19 00:01:58 | 沖縄



宮古島から買って帰った 「 まもる君 」 のボトル







まもる君の 「 ちんすこう 」







まもる君ファイル




宮古島限定の 「 まもる君 」 商品。
内地からすれば、沖縄も石垣も宮古もどれも同じような感覚だと思うが、
島に住んでいる人からすれば、同じ沖縄でもコトバや文化が違うのである。
宮古島で荷物になるからとおみやげを買わなかったら、
那覇では買えない限定品も多くある。

そんな宮古で買った 「 まもる君 」 をおみやげとして配ったら、
みんな “ キモい ” と言いながらも意外と受けていた。

まもる君のボトルは、多良川が入ったボトルだが、
多良川は飲んだ事があるが、これはどんな味がするのか楽しみである。




長崎県平戸島   「 川内峠からの眺望 」

2013-01-18 00:09:33 | 探訪 ・ ドライブ



平戸島の川内峠














































川内峠は平戸島北部にある標高267mの峠である。
穏やかな起伏の草原の丘で、東西南北360度、海と島の絶景が愉しめる。
平戸の街や平戸城。さらには平戸大橋が望め、
天気がいい日は、遠くは五島列島や対馬も見ることが出来るスポットである。
春はヒラドツツジ、秋には黄金になびくススキが丘一面に広がる。
1955年に正解国立公園に指定された場所に含まれている。




沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 産業界之恩人記念碑 」

2013-01-18 00:06:44 | 離島めぐり














平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたので、
これから少しずつ紹介して行きたいと思っている。


この記念碑は、大正14年7月に宮古神社が建立された際、
宮古の産業界の基礎を作った下地親雲上恵根 ( しもじぺーちんけいこん ) 、
砂川親雲上旨屋 ( うるかぺーちんしおく ) 、稲石刀自 ( いないしとじ ) の三者を顕彰し、
同境内に建立したものである。

碑の形状は縦264cm、横63cm、幅27cmの直方体のコンクリート造りである。
碑文は当時、沖縄史研究者として知られた眞鏡名安興 ( まじきなあんこう ) がまとめたものである。
表には 「 産業界之恩人・下地親雲上恵根、砂川親雲上旨屋、稲石刀自・記念碑 」
「 沖縄県知事正五位勲四等亀井光政書 」 の文字が記されている。

下地親雲上恵根は、1655年 ( 順治12年 ) に上国の帰途、松苗数本を持ち帰り、
大武山・島尻後に試植、さらに1681年 ( 康煕20年 ) に2000本の松苗を洲鎌村に植え、
造林の瑞緒を開いた。
砂川親雲上旨屋は1594年 ( 万暦22年 ) に御物宰領で上国の帰途中国に漂着し、
3年後、帰国に際し芋かづらを持ち帰り、栽培普及に努めた。
稲石刀自は、1583年 ( 万暦11年 ) に緩錆布を創製して琉球王国に献上した。
また宮古上布織製の端を開いた人物である。

碑文の内容は三者を讃えるとともに、今日の宮古の産業界の発展は彼らの恩恵によるものとし、
これを顕彰することで、今日および後世の人々に報恩報国の道を教示しようとしたものである。


所在地 : 宮古島市平良 西里




沖縄県宮古島 「 平良港西口水路灯浮標 」

2013-01-18 00:04:54 | 宮古の灯台







灯台表番号 7178
ふりがな / ひららこうにしぐちすいろとうふひょう
標識名称 / 平良港西口水路灯浮標
所在地 / 沖縄県平良港(平良港北防波堤灯台の西方約1.3km)
北緯  / 24-48-42 
東経  / 125-15-28 
頭標 / 緑色円筒形頭標1個付
塗色  / 緑色
灯質 /  群閃緑光 毎6秒に2閃光
光度 / 実効光度 49カンデラ
光達距離 / 4.0海里
水面上~灯火の高さ / 4.7m
業務開始年月日 / 昭和47年5月15日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)





沖縄県宮古島  ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 『 ドイツ皇帝博愛記念碑 』

2013-01-17 00:10:32 | 沖縄の文化財



「 ドイツ皇帝博愛記念碑 」


















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたので、
これから少しずつ紹介して行きたいと思っている。


明治6年 ( 1873年 ) 7月17日。
ドイツ商船ロベルトソン号は中国の福州からオーストラリアに向かう航路の途中、
台風に遭遇し、宮古島の南海岸・宮国村穴川の沖合いで座礁難破した。
これを発見した宮国村の人々は夜通しかがり火を焚いて、
遭難したその商船の乗組員8名を荒れ狂う海の中、救助した。
宮古島在番・蔵元は、乗組員8人を宮国村番所と野原村番所において、
34日間に渡り手厚く介護し、8月17日、役人は年貢運搬用の官船を仕立て、
この8名の乗組員を帰国させたのです。
後にこの事実を知った当時のドイツ皇帝ウィルヘルムⅠ世は、
自分たちの命も危うい状況で乗組員を救助してくれた宮古島の人々の
勇気と博愛の精神を讃え、
明治9年 ( 1876年 ) 3月、軍艦チクローブ号を宮古に派遣して、
上野村に記念碑を建てさせた。
チクローブ号は中国の上海で大理石の記念碑を積み、
長崎と横浜を経由して琉球藩庁を表敬し、3月16日の朝に宮古島の張水港に着いた。
蔵元近くの親越の坂が記念碑の建立の場所に選ばれ、
チクローブ号の水平たちにより作業が進められ、
3月22日に記念碑建立除幕式が盛大に執り行われた。
ちなみに記念碑のサイズは碑面約170cm×60cm。
碑文の表はドイツ語と漢文が、裏には漢文が記されていたという。


所在地 : 宮古島市平良 西里


佐賀県多久市   「 西渓 ( せいけい ) 公園 」

2013-01-17 00:08:54 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



「 西渓公園 」 にある高取伊好の像





高取伊好は、1850年、佐賀藩多久領の武士、鶴田斌の三男として生まれる。
その後、9歳の時には姉の嫁ぎ先である高取家の養子となりその家督を継いだ。
また、多久家の世継ぎである多久乾一郎の御学友に選ばれており、
多久藩の郷校東原庠舎や佐賀藩校弘道館などで共に漢学と国学を学んでいる。

1871年、上京し箕作奎吾が開いていた英学塾「三叉塾」から「慶應義塾」へ進み、英学・鉱山学を学ぶ。
三叉塾では東郷平八郎や伊地知弘一などと机を並べた。
慶應義塾卒業後、官費学校の「鉱山寮」に入学。採炭技術を学んだ後、工部省に採用され高島炭鉱に赴任。
長崎・佐賀県の炭鉱開発をおこない、高島炭坑取締役、明治唐津鉱業組合長となる。

1885年、独立し多久市の柚ノ木原炭鉱などの開発を手がけるが三菱など大資本に押されたうえ、
大恐慌も重なり苦戦する。
1909年、杵島炭坑を買収し大規模開発に成功。従業員5千人を抱え、「肥前の炭鉱王」の異名をとる。
1919年、事業を長男九郎に譲り引退。
1927年の死去まで唐津の自宅と武雄・雲仙の別荘で漢詩の詩作に励んだ。享年78。






寒鶯亭 ( かんおうてい )







紅葉ごしに見える寒鶯亭








大宝聖林碑































西渓公園は、江戸時代、多久邑女山多久家 ( 家老職 ) の屋敷跡で、
大正9~13年にかけて多久出身の石炭王・高取伊好 ( たかとりこれよし ) が
私財を投じて建設した格調高い山水公園である。
高取伊好の号を 「 西渓 」 と称していたことから、この公園の名が付けられた。
春は桜、初夏はツツジ、秋は紅葉、そして冬は梅と、
四季折々の美しい自然が風情を醸し出している。

公園内には、国の登録有形文化財に指定された寒鶯亭 ( かんおうてい ) 。
旧石器時代からの出土品や多久聖廟に関する資料が収められている郷土資料館。
炭坑・農業の他、江戸時代から昭和までの民具が展示されている歴史民俗資料館などがある。
また、先覚者資料館が併設されており、
そこには日本の近代化や郷土に尽くした多くの人が紹介され、資料が収集、保管されている。
多久聖廟建設の設計や監督に携わった武富咸亮ゆかりの 「 大宝聖林碑 」 などがある。




沖縄県宮古島 「 長山水路第十号灯浮標 」

2013-01-17 00:07:23 | 宮古の灯台













灯台表番号 7177
ふりがな / ながやますいろだいじゅうごうとうふひょう
標識名称 / 長山水路第十号灯浮標
所在地 / 西浜埼 ( 沖縄県宮古島市 ) の北北西方約4.3km
北緯  / 24-48-22 
東経  / 125-14-56 
頭標 / 赤色円すい形頭標1個付
塗色 / 赤色
灯質 / 単閃赤光 毎4秒に1閃光
光度 / 実効光度 45カンデラ
光達距離 / 4.0海里
水面上~灯火の高さ / 4.7m
業務開始年月日 / 平成4年11月1日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)




山口県岩国市   【 錦帯橋 】

2013-01-16 00:10:35 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣























































































































錦帯橋は山口県岩国市の錦川に架かる木造のアーチ橋である。

日本三名橋や日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。
藩政史料には大橋と表記されることが多く、
「錦帯」という美名は完成後に定着した説が有力とされている。
文書による初出は宇都宮遯庵の記述した文書内である。

5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル、幅員5.0メートルで、
継手や仕口といった組木の技術によって造られている。
しかし、美しいアーチ形状は、木だけでなく、
鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。
杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て1673年に創建された。
西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。

これは蛇足になるが、諫早の眼鏡橋もこのような造りをした石橋だった。




沖縄県宮古島から 「 フェリーはやて 」 で伊良部島へ向う

2013-01-16 00:09:22 | 離島めぐり



伊良部島行きの 「 フェリーはやて 」









宮古島の平良港








平良港と平良の街








フェリー 「 はやて 」









宮古空港からタクシーでホテルまで行き、
フロントで荷物を預けてそのまま平良港に直行し、
伊良部島行きの 「 フェリーはやて 」 に乗った。