グスタフ・マーラーの作曲の交響曲「大地の歌」は、人気交響曲である反面、その真意と言うか精神世界を理解するのは意外と難しい。その交響曲離れした形式や赤裸々な東洋趣味とセンチメンタリズムの混ざった創作世界が、音響効果を越えて理解するのを困難にしている。
中間楽章を、細密画のようにまたは山水画のように陶磁器を見るように、妙に感心したり、終楽章の切実な告別に芸術を見るのは容易い。ならば中国のそれのような芸術観が必要なのだろうか。
悲歌行
且孤死富金天悲悲一琴我君天悲聽主悲悲
須猿生貴玉雖來來杯鳴有有下來我人來來
一坐一百滿長乎乎不酒三數無不一有乎乎
盡啼度年堂地 啻樂尺斗人吟曲酒
杯墳人能應雖 千兩琴酒知還悲且
中上皆幾不久 鈞相 我不來莫 李
酒月有何守 金得 心笑吟斟 白
創作の契機とその作曲の環境を無闇に論じても仕方ないかもしれない。そもそもケルンテンのヴェルターゼーからここチロルのプスタータールのトブラッハに避暑地を変えたのは、娘マリア・アンナの死の思い出からの逃避にあるとされていて、実際作曲家は再び同地には戻らず、妻アルマが荷物を纏めに行っている。
終楽章「告別」の後半に対応する一楽章「憂き世の酒歌」の表現趣向が分かり難い。あるドイツバロック詩に示唆を受けて、かつトブラッハ周辺の環境を見ると、その意図するリアリズム表現が理解出来る。しかしそれは一般的にユーゲントシュティールやゼッツェンツョーンの芸術表現と比較されることが多い。また、東洋的なテキストの内容から、その意図するところが二元論的な陰陽の世界観へと集約されることが多い。
終楽章を夢半ばの生死隣合わせの世界とすると、それに対応する一楽章の生の快楽と「死も暗い」の表裏一体構造があまりにも容易過ぎると感じる。さて、問題のドイツ・バロック詩は、プロテスタントからカトリックへ改宗したシレシウスこと医師・詩人のヨハネス・シェフラー(1624-1677)のもので、次のようだ。
Die Rose ist ohne Warum.
Sie blühet, weil sie blühet.
Sie achtet nicht ihrer selbst,
fragt nicht, ob man sie siehet.
薔薇は理由もなく、咲いているから咲いている。
自らを顧みることもなく、
見えるだろうかとも気にかけない。
Angelus Silesius(1624-1677)
この詩の正統的解釈は分からないが、これはまさに実存の表現で、最後にその実体のオーラまでを否定している。存在あるのみである。薔薇の明確な輪郭と色彩が漆黒の宇宙を背景にして浮かび上がる。
マーラーのこの楽章には、上のように「生も暗く、死も暗い」としてモットーの光と闇が描かれている。だからこそその 影 が象徴するようなオーラと言うようなものが存在しない。そのガラス張りとも言えるリアルな和声と音響そのものが狙いなのだと気がつく。そうした影の無い傾向は、既に以前の交響曲にもあったが、アルプス以南の太陽や青い空に聳え立つドロミテの岩壁と同価値であり、またこの交響曲作家の一つの資質でもあったのだろう。
アルマ・マーラーの記録によると、トブラッハの農家の母屋の傍の苔むした土地に仕事場の離れが建っていて、そこで予定より早く一夏でこの曲を仕上げたとある。折りからの心臓病を圧して、山を歩き、水に潜る作曲家の健康を気遣っている。その反面、出来たばかりのホーヘタウヌス鉄道に乗ってザンクト・ギルゲンの男友達を訪ねて、年上の作曲家を悩ませる若妻振りが語られる。リヒャルト・シュトラウス夫妻の訪問を受けて、同行したガルミッシュパルテンキルヘンのご近所さんが、アルマの母親をマーラー夫人と勘違いして、シュトラウス夫人をいらいらさせたとある。
こうした一種のリアリズムは、ショスタコーヴィッチにも引き継がれたのでもあり、この後の二つの交響曲の理解に役立つのではないか。最後に再び繰り返せば、この光と闇の転回は、荘子の「胡蝶の夢」のように、決して反転してそのリアリティーを獲得するようなものではなくて、上述の薔薇のように虚空に存在する事象なのである。東洋趣味の音楽に惑わされてはいけない。だからベトゲのドイツ語訳こそテキストとして相応しい。
参照:
「大地の歌」について(Musikant/komponist)
第9交響曲について(Musikant/komponist)
永遠を生きるために [ 音 ] / 2005-05-16
民族差別と同化 [ 文化一般 ] / 2006-09-05
石灰岩の大地の歌 [ テクニック ] / 2006-09-03
中間楽章を、細密画のようにまたは山水画のように陶磁器を見るように、妙に感心したり、終楽章の切実な告別に芸術を見るのは容易い。ならば中国のそれのような芸術観が必要なのだろうか。
悲歌行
且孤死富金天悲悲一琴我君天悲聽主悲悲
須猿生貴玉雖來來杯鳴有有下來我人來來
一坐一百滿長乎乎不酒三數無不一有乎乎
盡啼度年堂地 啻樂尺斗人吟曲酒
杯墳人能應雖 千兩琴酒知還悲且
中上皆幾不久 鈞相 我不來莫 李
酒月有何守 金得 心笑吟斟 白
創作の契機とその作曲の環境を無闇に論じても仕方ないかもしれない。そもそもケルンテンのヴェルターゼーからここチロルのプスタータールのトブラッハに避暑地を変えたのは、娘マリア・アンナの死の思い出からの逃避にあるとされていて、実際作曲家は再び同地には戻らず、妻アルマが荷物を纏めに行っている。
終楽章「告別」の後半に対応する一楽章「憂き世の酒歌」の表現趣向が分かり難い。あるドイツバロック詩に示唆を受けて、かつトブラッハ周辺の環境を見ると、その意図するリアリズム表現が理解出来る。しかしそれは一般的にユーゲントシュティールやゼッツェンツョーンの芸術表現と比較されることが多い。また、東洋的なテキストの内容から、その意図するところが二元論的な陰陽の世界観へと集約されることが多い。
終楽章を夢半ばの生死隣合わせの世界とすると、それに対応する一楽章の生の快楽と「死も暗い」の表裏一体構造があまりにも容易過ぎると感じる。さて、問題のドイツ・バロック詩は、プロテスタントからカトリックへ改宗したシレシウスこと医師・詩人のヨハネス・シェフラー(1624-1677)のもので、次のようだ。
Die Rose ist ohne Warum.
Sie blühet, weil sie blühet.
Sie achtet nicht ihrer selbst,
fragt nicht, ob man sie siehet.
薔薇は理由もなく、咲いているから咲いている。
自らを顧みることもなく、
見えるだろうかとも気にかけない。
Angelus Silesius(1624-1677)
この詩の正統的解釈は分からないが、これはまさに実存の表現で、最後にその実体のオーラまでを否定している。存在あるのみである。薔薇の明確な輪郭と色彩が漆黒の宇宙を背景にして浮かび上がる。
マーラーのこの楽章には、上のように「生も暗く、死も暗い」としてモットーの光と闇が描かれている。だからこそその 影 が象徴するようなオーラと言うようなものが存在しない。そのガラス張りとも言えるリアルな和声と音響そのものが狙いなのだと気がつく。そうした影の無い傾向は、既に以前の交響曲にもあったが、アルプス以南の太陽や青い空に聳え立つドロミテの岩壁と同価値であり、またこの交響曲作家の一つの資質でもあったのだろう。
アルマ・マーラーの記録によると、トブラッハの農家の母屋の傍の苔むした土地に仕事場の離れが建っていて、そこで予定より早く一夏でこの曲を仕上げたとある。折りからの心臓病を圧して、山を歩き、水に潜る作曲家の健康を気遣っている。その反面、出来たばかりのホーヘタウヌス鉄道に乗ってザンクト・ギルゲンの男友達を訪ねて、年上の作曲家を悩ませる若妻振りが語られる。リヒャルト・シュトラウス夫妻の訪問を受けて、同行したガルミッシュパルテンキルヘンのご近所さんが、アルマの母親をマーラー夫人と勘違いして、シュトラウス夫人をいらいらさせたとある。
こうした一種のリアリズムは、ショスタコーヴィッチにも引き継がれたのでもあり、この後の二つの交響曲の理解に役立つのではないか。最後に再び繰り返せば、この光と闇の転回は、荘子の「胡蝶の夢」のように、決して反転してそのリアリティーを獲得するようなものではなくて、上述の薔薇のように虚空に存在する事象なのである。東洋趣味の音楽に惑わされてはいけない。だからベトゲのドイツ語訳こそテキストとして相応しい。
参照:
「大地の歌」について(Musikant/komponist)
第9交響曲について(Musikant/komponist)
永遠を生きるために [ 音 ] / 2005-05-16
民族差別と同化 [ 文化一般 ] / 2006-09-05
石灰岩の大地の歌 [ テクニック ] / 2006-09-03