(承前)先ず、西洋の「黄禍」への不安な状況が、日本の攘夷論と神国論が重なり合って行く様相を間接的に形作ったという例である。彼の美濃部達吉の天皇機関説を攻撃した上杉慎吉の場合を、こうして発言者側には大意はなくとも受け取り側には多大な影響があった例として、イアン・ブルマは挙げる。
上杉慎吉はもともとキリスト者の憲法学者で、国民主権には至らないまでも後に学ぶユダヤ系ゲオルク・イエリックの国家法人説を採っていたが、プロイセンの管理学校に学んで1919年帰国するや否や、「家臣は天皇陛下の御意思と御心を知るのみです。天皇陛下に全てを捧げます。陛下の御心にあるとき、初めて無我自然に精神的清楚に至ることが出来るのです。」と大きく転向している。
この背景には、現在でも遊学帰りにありがちな「やっぱり家が一番」の心情が見え隠れするが、上にあるような事情から被差別意識が隠蔽されていると考えられる。特に当時の欧州におけるユダヤ人社会の現実を如実に身をもって感じて居たとするならば、この転向はある程度理解可能となる。話者は、こうしていつの間にか狂信的な皇国の僕となり果てている。
次いでながら、丸山真男は、― 国家システムに働いた国家理性(国際社会における国家行動の準則)について著した ― 自らの中国語翻訳された論文の読者に対して補足説明をしている。フリードリッヒ・マイネッケの主張する国家理性は非西洋諸国にも有効だが、中国の権謀術数と言われるマキャヴェリズムとは些か違い、主権国家の平等とそれを根拠とする国際秩序を配慮する必要があると釘を刺している。
つまり、この新たな西洋概念のために、清朝末期には伝統的な道徳文化レヴェルに留まっていた「華夷」の考え方は読み替えられて、権力政治的変質をしていると言う福沢諭吉らの考え方を追確認している。
そして、攘夷思想こそが日本の儒学者であっても国学者であっても、そのまま開国日本では読みかえられて下敷きにされたと結論付けられて、それがまた近代日本の外交政策の基礎になった様子を示している。これはまさに、上の遊学帰りの学者が体験した転向の思考であって、もし上述のような欧州での環境の変化に原因があるとするならばすこぶる興味深い。
またこうした転向若しくはその過程が、八紘一宇の哲学の基礎を成しているのは自明である。しかし、時を遡る1890年の帝国議会で軍閥の山県有朋が主権線と利権線と二種を挙げて軍拡を主張している。つまり、中国大陸や朝鮮半島等で繰り広げられた大日本帝国の侵略行為は、もともと西欧列強の駆逐とアジアの民の解放ではなくて、明らかに西欧列強に一泡吹かせて自らがそれに入り込み、成り代わると言うような魂胆であった。
そうした西洋化の植民地主義を越えて、「近代西洋の超克」を隠れ蓑とする 聖 戦 が繰り広げられることになるのは、まだまだ後のことである。それを布告するかのように1937年の文部省のお達しに「神の血を引く絶え間ない天皇の下に、生活と商工を歩む、西洋人から別け隔てる特異性が日本人であり、大和心は清く、西洋文化の精神の不浄に対して汚点が無い。」とした人種・血統主義が強調される。
そう言えば、どこぞのポピュリストがフランス人相手に溜め込んだルサンチマンをフランス語に対して発散させるのにも数年以上の時が経っていたような気がする。(続く)
上杉慎吉はもともとキリスト者の憲法学者で、国民主権には至らないまでも後に学ぶユダヤ系ゲオルク・イエリックの国家法人説を採っていたが、プロイセンの管理学校に学んで1919年帰国するや否や、「家臣は天皇陛下の御意思と御心を知るのみです。天皇陛下に全てを捧げます。陛下の御心にあるとき、初めて無我自然に精神的清楚に至ることが出来るのです。」と大きく転向している。
この背景には、現在でも遊学帰りにありがちな「やっぱり家が一番」の心情が見え隠れするが、上にあるような事情から被差別意識が隠蔽されていると考えられる。特に当時の欧州におけるユダヤ人社会の現実を如実に身をもって感じて居たとするならば、この転向はある程度理解可能となる。話者は、こうしていつの間にか狂信的な皇国の僕となり果てている。
次いでながら、丸山真男は、― 国家システムに働いた国家理性(国際社会における国家行動の準則)について著した ― 自らの中国語翻訳された論文の読者に対して補足説明をしている。フリードリッヒ・マイネッケの主張する国家理性は非西洋諸国にも有効だが、中国の権謀術数と言われるマキャヴェリズムとは些か違い、主権国家の平等とそれを根拠とする国際秩序を配慮する必要があると釘を刺している。
つまり、この新たな西洋概念のために、清朝末期には伝統的な道徳文化レヴェルに留まっていた「華夷」の考え方は読み替えられて、権力政治的変質をしていると言う福沢諭吉らの考え方を追確認している。
そして、攘夷思想こそが日本の儒学者であっても国学者であっても、そのまま開国日本では読みかえられて下敷きにされたと結論付けられて、それがまた近代日本の外交政策の基礎になった様子を示している。これはまさに、上の遊学帰りの学者が体験した転向の思考であって、もし上述のような欧州での環境の変化に原因があるとするならばすこぶる興味深い。
またこうした転向若しくはその過程が、八紘一宇の哲学の基礎を成しているのは自明である。しかし、時を遡る1890年の帝国議会で軍閥の山県有朋が主権線と利権線と二種を挙げて軍拡を主張している。つまり、中国大陸や朝鮮半島等で繰り広げられた大日本帝国の侵略行為は、もともと西欧列強の駆逐とアジアの民の解放ではなくて、明らかに西欧列強に一泡吹かせて自らがそれに入り込み、成り代わると言うような魂胆であった。
そうした西洋化の植民地主義を越えて、「近代西洋の超克」を隠れ蓑とする 聖 戦 が繰り広げられることになるのは、まだまだ後のことである。それを布告するかのように1937年の文部省のお達しに「神の血を引く絶え間ない天皇の下に、生活と商工を歩む、西洋人から別け隔てる特異性が日本人であり、大和心は清く、西洋文化の精神の不浄に対して汚点が無い。」とした人種・血統主義が強調される。
そう言えば、どこぞのポピュリストがフランス人相手に溜め込んだルサンチマンをフランス語に対して発散させるのにも数年以上の時が経っていたような気がする。(続く)