Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

言葉の乱れ、心の乱れ

2006-10-28 | 
レオノーレかそれともドンナ・アンナか、オペラ歌手のエッダ・モーザーが運動家としてドイツ語の守護神になろうと企ている。先日、ドイツ語のためのフェスティヴァル開催にやっと漕ぎ着けた。その彼女のインタヴューを読む限り、かなり原理主義的な感じもするが、納得する事例も多い。

さて何が彼女の気に食わないかと言えば、その例として挙がるTVのレポーターが彼女にした質問が良い。そのレポーターは、「一体、なにが貴方の メ ッ セ ー ジ なのですか?」と質問したとして、これは由々しき英米主義と震え上がっている。なるほど、「メッセージ」をとうとうドイツ語に出来なかったレポーターも困り者である。オーケー、これは認めよう。しかし、このドイツ語救世主は、彼女が指導するケルン音大での生徒たちが万が一この言葉を使えば、1ユーロを罰金としての徴収するのはあまりにも度が過ぎている。要するに「言葉の乱れ」とか言われる現象にこそ、彼女の矛先が向けられている。

確かに彼女の言うように、ドイツのTVスポットなどや番組での崩れたドイツ語は目に余るものがある。彼女が「想像力を減退させ頭を馬鹿にする」と呼ぶTVなどは、端から視聴しなければ良いのだが、ある程度年配の熱心なTV世代の女性には画面をネットのモニターに切り替えるのは難しいようである。

軽薄を売り物にするモデル・ヴェローナ・フェルトブッシュのいい加減なドイツ語やゲッツ・ゲオルゲの不明瞭なドイツ語に真剣に腹をたてている。

ニケ・ヴァーグナーにヴァイマールにおいて、救世主が企てた催しへの援助を申し出て、そんなものは「必要ない」と一跳された。しかしヘルムート・コール博士の支持を取り付けている。またインタヴューをしている新正書法組しないFAZ新聞の広報力をこうして利用しているが、どうも正書法の問題と会話としての「美しいドイツ語」は相違するようだ。

デューデン社は金儲けのためにドイツ語を変えるとしたり、犯されざる神聖なドイツ語の変遷は、誤った方へと向かうべきではなく、それを阻止をすると言う言動は、十分に原理主義者である。

外来単語の転用を糾弾し、またフルセンテンスの明瞭性への主張は、言語をスローガンに掲げる割には、なんとも低俗過ぎる。そして、言語に関して揚足を捉えるような低俗さに、誰もが感情的になり易い要因が存在するようである。現に、新聞報道に対するネットでの反響は大きかったようである。誰もが、自らはどんな言葉使いをしようがお構い無しに、自国語には一家言持っているからである。

そもそも言語は社会層を定義するものであるのみならず、殆ど性行為に近いようなコミュニケーションの道具であり、それが口から肉体を通して発せられる時、自らの言語について間接的にせよとやかく言われることは、生殖器官について批評されるような感情に似ているようである。些か、フロイト・ユング的発想となったが、今回の一連の記事の動揺も、またインタヴューのこの音楽教師の家庭に生まれたオペラ歌手の落ち着かない胸騒ぎも、全くそれそのものである。

言語とは関係ないが、「あんなイドメネオなど舞台に乗せるべきではない」として、「ハンス・ノイエンフェルスは台本を無茶苦茶にしていて、更にジャーナリストは台本すら読んでいない」として強く非難する。「ベルリンの劇場女支配人は、モーツァルトとはなんら関係ないとしてその演出を破棄-因みに本年中の再演二回が今計画されている-すべきであった」とするのは良く理解できるが、彼女の立場を考えると毒舌以外のなにものでもない。生理的なバランスでも不安定なのだろう。

さて、引き続き、ドイツ語フェスティヴァルの記事を読むと、同じように怒りがどうにも収まらないと言う記者の書きようである。そこでは、正装の女史を揶揄して、主賓のヴィルヘルム・ヴィーベンの「トーマス・マンは一切英米かぶれではない」とした講演内容について、正しくは「英語を文中に使ったが、それを芸術的に使った」と鬼畜英米主義者に思い知らせるべきと反論する。頭に据えられたテューリンゲン州議会長ダグマー・シパンスキー女史の長すぎる演説の「チューリンゲン・ルター・ゲーテ、知る人ぞ知る。」の悪乗りを伝える。またユッタ・ホフマン女史の講演の最後に漏らしたO.K.の言葉にも拘らず、ペナルティーの1ユーロを接収するどころか喝采を送りシャンペンを注ぐエッダ・モーザーの痴態を赤裸々に描く。

ドイツ人が最も使う百の単語の二十三語が英語という。パリのカフェーに腰掛けて、同席者にSMSを打つと言うと、通訳しないといけないフランスの例を見るまでもなく、グローバル化の中での言語への護りは大切であろう。しかし、正書法のように合理化が必要でそれが求められるものと、会話の単語の上げ足を取るような低級なものとは峻別すべきである。

会話において重要なのは、自己主張とその主張を誰にも分からせるような努力でしかない。つまり他者とのコミュニケーションである。言語の真髄は、エスペラント語のような均一簡素化を言うのではなく、文化の内容を伝えることにある。

上のホフマン女史が、ハイネの言葉を引用しながら、「あら、言わなかった?」としらばくれる態度が民主的ではないとして責められる背景がここにある。

記事は、間違ったドイツ語でシャンペンに酔って気炎を上げる輪を抜けて、宮殿の外へ出ると、停まっている大きなBMWに「VIPシャトルサーヴィス」の文字を見付けて、「これは一体、なんです?!」と結んでいる。



参照:
さ、寒い いろんな意味で(TARO'S CAFEより)
「目上」と「目下」(ザ大衆食つまみぐいより)
恥部人間牧場(わりとキッチュな自閉症より)
敬語の形式 [ 文学・思想 ] / 2005-01-27
疑似体験のセーラー服 [文化一般] / 2005-06-12
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