指揮者ティーレマンのインタヴューが載っていた。ドレスデン初登場で病欠のルイージに代わってブルックナーの交響曲八番を振るのリハーサル中にされたもののようだ。話題はミュンヘンの交響楽団との諍いからドレスデンへと移動するのではないかとの噂を辿っている内容である。
職業指揮者としてそこで何をして、楽団と旨く行かなくなった今後も ― 予定されていた日本公演もバーデンバーデンでのアリアドネもリンクもアメリカ公演もベルリン凱旋もと悔しがり ― なにが出来るかを答えていているのだが、主旨はドレスデンの座付き管弦楽団とヴィーンのそれと共通性に触れて、その特別な音色のみならず如何にダイナミックやテンポの動きなどに対する対応力が素晴らしいかを夢見心地に語っている。
それでもドレスデンに移る事が出来るかどうかは自分で決めれることではないからと控える一方、ミュンヘンで起きたいざこざについては彼の視点から正直に答えている。
音楽監督と総監督との権力争いには他ならないので、ベルリンのオペラ劇場でのゲッツ・フリードリッヒとの契約書を挟んだ練習中の談判の経験などを例として挙げている。つまり、音楽監督が例えば八番を自らが振るとすれば、曲が曲だけに数年に一度しかプログラムには載せられないので、他の客演指揮者には振らせる余裕はないと断言して、「英雄の生涯」をズビン・メータに振らせる事とは訳が違うと主張する。
それでも最も面白かったのは、経費削減から五つほどの楽師のポストが無くなるぐらいなら、音楽監督としてはやっていられないと反論した正当な言い訳である。この点がまさに、この指揮者がある程度経験も積んだ音楽家でもあっても、文化人とはなれない最大の問題点であって、たとえピエール・ブーレーズやフィッシャー・ディースカウが外部から同様の意見を書簡として送ったとしても、それでは管弦楽団と問題を起こしている監督としての立場が明確とはならない。
要するに現代においてたとえメトロポリタンやコヴェントガーデンからゲヴァントハウスやフィルハーモニアからオファーが来ていようとも、ドイツ連邦共和国では文化的な立派な立場を担うには荷が重いと表明しているようなものだ。
まさにそれだから、四角い大きな男が子供のように喜んでいたと表現されるのである。彼に似合うのはバイロイトのヴァークナー祝祭なのだろう。
職業指揮者としてそこで何をして、楽団と旨く行かなくなった今後も ― 予定されていた日本公演もバーデンバーデンでのアリアドネもリンクもアメリカ公演もベルリン凱旋もと悔しがり ― なにが出来るかを答えていているのだが、主旨はドレスデンの座付き管弦楽団とヴィーンのそれと共通性に触れて、その特別な音色のみならず如何にダイナミックやテンポの動きなどに対する対応力が素晴らしいかを夢見心地に語っている。
それでもドレスデンに移る事が出来るかどうかは自分で決めれることではないからと控える一方、ミュンヘンで起きたいざこざについては彼の視点から正直に答えている。
音楽監督と総監督との権力争いには他ならないので、ベルリンのオペラ劇場でのゲッツ・フリードリッヒとの契約書を挟んだ練習中の談判の経験などを例として挙げている。つまり、音楽監督が例えば八番を自らが振るとすれば、曲が曲だけに数年に一度しかプログラムには載せられないので、他の客演指揮者には振らせる余裕はないと断言して、「英雄の生涯」をズビン・メータに振らせる事とは訳が違うと主張する。
それでも最も面白かったのは、経費削減から五つほどの楽師のポストが無くなるぐらいなら、音楽監督としてはやっていられないと反論した正当な言い訳である。この点がまさに、この指揮者がある程度経験も積んだ音楽家でもあっても、文化人とはなれない最大の問題点であって、たとえピエール・ブーレーズやフィッシャー・ディースカウが外部から同様の意見を書簡として送ったとしても、それでは管弦楽団と問題を起こしている監督としての立場が明確とはならない。
要するに現代においてたとえメトロポリタンやコヴェントガーデンからゲヴァントハウスやフィルハーモニアからオファーが来ていようとも、ドイツ連邦共和国では文化的な立派な立場を担うには荷が重いと表明しているようなものだ。
まさにそれだから、四角い大きな男が子供のように喜んでいたと表現されるのである。彼に似合うのはバイロイトのヴァークナー祝祭なのだろう。