Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

皿まで食えないほどの毒

2009-09-26 | 生活
昨晩はスパイヤーでライヴパフォーマンスの会の手伝いをして来た。詳細は改めるとして、帰ってきたら午前様であった。

演者がライヴ前にぐいっと引っ掛けた安物発砲酒を一杯飲み、酒を注ぎながら味見に街道から外れた隣町のグラウブルグンダーを一寸口に含み、食事にピルツを二杯引っ掛けると流石に酔った。

演者は、そのお蔭で憑依状態に入れたのかもしれない。なにやら、上演前に「葉隠れ」かなんかのような「死」を対峙させた「生」を強調して、そこに続く「無」を説明していた。白地に黒や赤、緑や金などを入れて、「黒は弔いでなく力」と敢えて説明した。

何を隠そう、このパフォーマーは毎年新年会で珍奇な寿司トルテや蕎麦サラダを作る張本人であった。今回のパフォーマンスにも「同じようなもの」を感じたと同時に、そこに紛れもない彼の個性を見たのである。

それは偽りもないと言うか、全くパフォーマーその人の表現である。表現するその人の喜びと動を羨ましくも思わせるそれなのである。だから、事前の説明にも失笑させられながらも、これは受け入れられないと多くの人に思わせながらも、なんとなく受け入れてしまうパフォーマンスなのである。

その意味から、「言葉さえ浮ばない料理」と同一であって、彼の芸術を否定する必要などは無いのである。此方が共感しようが拒否しようが、そこに存在しているのである。全く、彼個人の存在そのものなのである。

それにしても彼の描くものがシンメトリーと環へと落ち着くのはなぜなのか。陰陽なのかどうかと考えていたら、ジョイントしたパフォーマーの方が「女性の顔なんですよね」と言った。

さて、そのユニークさを受け入れたとして、それを残らず腹に納めて、消化できるかどうかはまた別の問題である。なんとなくそこまで喰えないので申し訳ないなという気持ちにさせるのも個性なのであろう。



参照:
言葉さえ浮かばぬお料理 2009-01-19 | 料理
塩気の欠けた米国の話 2008-01-22 | 生活
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