Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

素人さんの催すつまらないもの

2010-04-20 | 文化一般
友人からメールが入っていた。日本週間の出し物に対しての忌憚無い厳しい意見であった。同じような反応は直に他の人からも聞いた。正直、さもありなんの感がある。彼女に答えた。「だからつまらない催しものにはあまり関わらないようにしているのだよ」と、正直過ぎるか?

要はこうである。素人さんが素人さんを舞台に挙げても全くどうしようもないということなのである。最初から道を間違っていれば如何せん結果は判っている。その結果や差異が判らないのを素人さんと呼ぶのである。

特に異文化を舞台というまな板に載せて展示する方法は二通りしかないと思われる。

一つは高度に知的な方法であり、これは学術的な積み重ねで的確に分析されている背景があってこそ成り立つ方法である。

一つはやはり何処まで行っても世界共通な職人的な、その修行の厳しさをも垣間見せ無いような精華をお見せすることである。

前者の例として、昨日も述べたアイヒャー氏の弓道家としての勉強量は大したものであり、異文化を異文化と感じさせない普遍的な知と客観的な視点がそこにある場合である。

後者の例としては、聞きづてながら日本の無形文化財の高齢の舞踊家が欧州で踊ってもその艶やかさで人を魅了したような芸の高さが顕著な場合だ。

そこから、その両面にヘルヴェッヘ氏のバッハ解釈がなぜドイツでも尊重されるかの理由も備わっている。

逆に、お手本通りしか出来ない、自由度の無い表現というのは、素人の手習いか、二三流の芸者のあり方で、そこに本質がないと言うことでもあるだろうか?異文化の体験においては、本物の一流のものしか意味は全く無いと言い切っても良いだろう。

もし二流三流のものを体験して満足している者がいるとすれば、それは多文化主義というビニールで作った毛皮を着ているエスキモーのようなものだろう。

良く昔から言われることだが、一流のものを体験しなければはじまらないと言うのは、知らない者だからこそ、その本質が明快に宿る一流の本物に触れる必要があるということなのである。

その一流とはなにか?
コメント
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