もう一つの天然ガスであるシェールガス採掘についての技術的話題を書くつもりであった。しかし、これはどうも代替エネルギーのまた化石燃料の位置づけを先ず抑えないとその意味合いを十分に理解できないことが分った。スレート層から採取する化石燃料である。
スレート層といえばワイン産地のモーゼル地方を思い起こす向きもあるだろう。四月の地方選挙直後に、我々が昨年挙って建設に反対したアウトバーンの高架橋の処置が社会民主党と緑の党の連立構想で決まった。BBC、ニューヨークタイムス、ファイナンシャルタイムスまでを巻き込んでその反対運動を訴えたのだが、高額な連邦政府の助成金と産業と過疎化対策のより重要な政治が歴史的ワイン栽培と風光明媚よりも重要視された結果であった。
世界からの反対署名は最終的に五千名に至ったようであるが、所詮その程度であるというのは実感である。新聞が書くように世界的権威のヒュー・ジョンソンらのエリートのエゴでしかないといわれても当然なのである。
この政治的決着が発表されたときはまだまだ福島が安定していなくて、とても環境問題として同じ土壌では考えられなかったのだが、今は状況が違う。そもそも原発問題はこうしたエゴの問題であり、自らに問題が降りかからない限り、誰も真剣に考えようとしない。それどころか政治は一般社会のためにこうした結論を出しており、それは社会の共通認識とそれほど離れていないのである。
だから、その地方選挙のキリスト教民主同盟の首班であった元ワイン女王のクロッカー女史が、シュピーゲルの記者などを交え名醸造家プリューム家に集った折にも、その民主的な決定への過程の公開などが欠けていて十分な理解が得られていなかったと、「建設に反対は出来ないながらも問題点」を指摘している。同じような事象はシュトッツガルトの駅前開発事業にも現れていて、複雑で大規模な公営事業を如何にガラス張りに出来るかという点が今更ながら民主的な社会の合意形成の基本となっている。
その点では、核開発というのはいつもその背後には核武装の本質が隠されているとすれば、オープンな形で議論が出来ない性質なものであることがその宿命であったと知るのである。同時に地域エゴの問題としてそれを考えてしまうと、やはりその合意形成の手順を誤ることになるのである。それどころかその事故の被害などは一地方や国の枠組みを大きく超えてしまうのである。
要するに、今日本で議論となっているように、地元が再稼動を認めるかどうかの問題では一切ないのであり、その利益や不利益は特定の地域や社会層などに限られるものではないということを明白にしなければいけないのである。
参照:
Wenn Reben weinen, Thomas Holl, FAZ vom 27.4.2011
放射能汚染は、みんなの街にもやってくるのに。 (そおやったんか! )
デジャブからカタストロフへ 2005-02-19 | アウトドーア・環境
あまり愛されていない地域文化 2010-04-24 | ワイン
スレート層といえばワイン産地のモーゼル地方を思い起こす向きもあるだろう。四月の地方選挙直後に、我々が昨年挙って建設に反対したアウトバーンの高架橋の処置が社会民主党と緑の党の連立構想で決まった。BBC、ニューヨークタイムス、ファイナンシャルタイムスまでを巻き込んでその反対運動を訴えたのだが、高額な連邦政府の助成金と産業と過疎化対策のより重要な政治が歴史的ワイン栽培と風光明媚よりも重要視された結果であった。
世界からの反対署名は最終的に五千名に至ったようであるが、所詮その程度であるというのは実感である。新聞が書くように世界的権威のヒュー・ジョンソンらのエリートのエゴでしかないといわれても当然なのである。
この政治的決着が発表されたときはまだまだ福島が安定していなくて、とても環境問題として同じ土壌では考えられなかったのだが、今は状況が違う。そもそも原発問題はこうしたエゴの問題であり、自らに問題が降りかからない限り、誰も真剣に考えようとしない。それどころか政治は一般社会のためにこうした結論を出しており、それは社会の共通認識とそれほど離れていないのである。
だから、その地方選挙のキリスト教民主同盟の首班であった元ワイン女王のクロッカー女史が、シュピーゲルの記者などを交え名醸造家プリューム家に集った折にも、その民主的な決定への過程の公開などが欠けていて十分な理解が得られていなかったと、「建設に反対は出来ないながらも問題点」を指摘している。同じような事象はシュトッツガルトの駅前開発事業にも現れていて、複雑で大規模な公営事業を如何にガラス張りに出来るかという点が今更ながら民主的な社会の合意形成の基本となっている。
その点では、核開発というのはいつもその背後には核武装の本質が隠されているとすれば、オープンな形で議論が出来ない性質なものであることがその宿命であったと知るのである。同時に地域エゴの問題としてそれを考えてしまうと、やはりその合意形成の手順を誤ることになるのである。それどころかその事故の被害などは一地方や国の枠組みを大きく超えてしまうのである。
要するに、今日本で議論となっているように、地元が再稼動を認めるかどうかの問題では一切ないのであり、その利益や不利益は特定の地域や社会層などに限られるものではないということを明白にしなければいけないのである。
参照:
Wenn Reben weinen, Thomas Holl, FAZ vom 27.4.2011
放射能汚染は、みんなの街にもやってくるのに。 (そおやったんか! )
デジャブからカタストロフへ 2005-02-19 | アウトドーア・環境
あまり愛されていない地域文化 2010-04-24 | ワイン