Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

甚だしい科学的無知蒙昧

2011-08-18 | アウトドーア・環境
どこまでまやかしの道化芝居をするのだろう?世界の誰一人として工程表などというものをまともに信じてはいない。内外から注目されている?安定冷却、避難者の帰宅などと戯けたことを述べ続けている。流石にあまりに恥ずかしいからか、茶番劇の政治的責任を逃れるためにも細野大臣は逸早く合同記者会見を逃げ出すのである。自らもまともなことをしているとは思っていない証拠である。

そもそも「水素爆発の危険性も予期せず」に発電所所長などをやっている者がなにをVIDEOで愚考を語るのだ。さらに統合記者会見で質問に対して、東電の相沢副社長は、「建屋が爆発することなど、論文等でも知られていなかった」と再びまやかしの答弁をした。こうした人が、原子力を動かしているのである。これは無知識では無くて無教養なのである。これをただのテプコの業務上過失罪で済ませれる理由は無いのである。

ヨハネス・ケプラーが「月旅行の夢」を語ったラテン語が新たに独訳された。注文しようと思って書評を読んでいるのであるが、科学における視座や思考態度が正しく訳されていればそれで良い。

それと同次元で考えてみれば良い。福島の事故で報じられた不思議に対する素朴な疑問をである。

ブラックアウトから早急に外部蓄電器で回復させられなかったのか?

なぜ、圧力容器に冷却水が入らなかったのか?

ヴェントの前に放射能が既に環境に漏れていたのに、なぜ圧力が上がり続けたのか?

水位が上がらずに注入した冷却水はどこへ流れたのか?

テプコは、水素爆発回避機構をなぜ設置していなかったのか?

こうした素朴な誰もが感じていた疑問と、所謂「安全神話」と呼ばれる「神話」の所在には密接な関係があるようで、日本の行政機構と同様如何に日本原子学会と呼ばれる学会が、学問やアカデミズムや科学とは一切関係の無い無知蒙昧の集まりであったかが表れているのである。

たとえ技術工学分野での思考態度としても、対象をどのように評価するか、その評価の視点をどこに築いているかを知ること無しに ― これは日本の「ジャーナリストと偽称する連中」が中立的な報道と呼ぶ愚かさと同様のものである ―、なにもハイゼンベルクとかシュレディンガーなどの大それた名を挙げるまでもなく、せめて一般相対性理論程度の「認識」すらを持ち合わせずに百年後の今の核技術者でありえるのだろうか。

「原子力むら」とか呼ばれる一味の連中の科学的教養の無さは甚だしいが、それが日本の近代化の歴史の象徴であったのだ。要するにアカデミズムとかいわれるもののその質と日本の政治社会のその程度とはなんら変わらないということであり、奇しくも「福島後に世界は変わった」と発言したメルケル博士が殆ど枕詞のように「高度に科学技術の発達した日本で起こった事故」と強調した真意はここにある。

どうも日本の文化人とか知識人とか呼ばれる人達にこの意味が解かる人は数えるほどしかないようである。自立神経失調の記事にリンクを含めて宗教的な視座も付け加えたのだが ― 脳神経学者クリストフ・コッホ博士の「深淵にぶら下がる意識」も認識しながら ―、それはなにも癲癇を起こすようなそうした意識にこそ宗教がある訳でもさらに科学がある訳でも決して無いのであるが、 そ れ はある意味「再生エネルギーなど存在しないと見得を切る」井戸の中の蛙的に蛸壺で一生を終える人達の「無意識な視座」をはじめて定める「環境」としての意識的視座と考えて間違いない。

要するに世界観の無いところには科学的な視座も無く、科学的な視座無くして世界観も生じない。ケプラーのそれはなるほどキリスト教世界でのピタゴラス・プラトニズムの基礎に立っていたのだが、現在の日本の科学者がそれ以上に科学的な基礎に立っているなどと信じる人はいまい。



参照:
細野補佐官のついた嘘 2011-06-08 | テクニック
再生不可能な科学的教養 2011-08-09 | 文化一般
はなの憂鬱 - 情報操作 2011-03-21 | アウトドーア・環境
収容所送りとなる人たち 2011-04-04 | 雑感
記憶にも存在しない未知 2007-05-27 | 文化一般
脱構造の日の丸の紅色 2007-12-12 | マスメディア批評
万世一系、無窮のいきほひ 2010-01-17 | 歴史・時事
ヨハネス・ケプラーのワイン樽 2004-11-17 | 数学・自然科学
コメント
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