冬以降初めて入浴した。寒かったからでもあるが、早い夕食で時間が出来たということもある。久しぶりに湯船に浸かるとやはり気持ちよかった。予想通り交感神経が緩んで起きていられなくなり早めに床に就いた。ぐっすりと眠ったが未明に目が覚めてこれまたぐっすりと二度目した。朝寝したが、とても効果があった。
来年一月のホテルを予約した。ミュンヘンへの観劇は通常は日帰りだが今回は一泊劇場から歩ける範囲でアパートメントを借りた。価格は適当で、必要なければ無料でキャンセルすればよい。車も劇場下に泊めて置けるので楽である。
来週の音楽会のために車に燃料を満タンにした。折からガソリンが安くなっているので助かった。もう一度出かける前に入れて満タンにしておけば比較的安上がりになりそうだ。
お勉強の方も始めたが、「角笛」と交響曲4番のプログラムで想定していたよりもオタマジャクシが多いように感じた。なによりもブラームスにおいても主旋律と対旋律ぐらいでしかその目の詰んだ織物を考えていなかったが、その声部毎のダイナミックスやアクセントを拾っていくととてもそれでは済まないなと感じた。恐らく歴史的な演奏実践の継承として、先ず何よりも和声的な観点でアーティキュレーションがなされていて、常套手段として解決されているのだろうが、よくよく見ると態々そのように作曲家が書き込んだ意味を考えさせるところが多々ある。
それとは別に一楽章の第二主題部での三連符などでもブルックナーなどではいつも決まったように納まっているのだが、ブラームスではその動機と他の動機との繋がりが気になって来て、たとえ対位法的と言われても到底主と従の様には処理出来なくなってしまう。
二楽章のフリジア調の主題とその後の経過の三連符と弱起のアーティキュレーションとの繋がりがとても面白く、とても細かに作曲されていて、やはりとても興味深い。
三楽章の三連符から第二主題の変形での大きく動機を拡張、対比と、第一主題のスラーの掛かった動機対比など、やはりこれは対比する主題の展開や縮小などではなく動機の組み合わせであることがよく分かる。
終楽章のパッサカリアでも三連符でクライマックスを迎えるのは良いが、それ以上に展開部へのリタルタンドとコーダでのポコリタルタンドを除いて、強拍にもつけられる数々のディムニエンド指定が目につく。
作曲経過を読むと四楽章のあとに三楽章が書かれていて、なるほどなと思った。全体の見通しがよく効いているからである。また初演がキリル・ペトレンコが音楽監督だったマイニンゲンの管弦楽団を作曲者本人が振ったとある。
恐らくブラームス演奏では最も権威があり歴史的にも重要なカール・ベーム指揮の録音などを聞くと、ここぞというところでおかしくならないようにそれを準備するようなテムポの運びをしていて、如何にノイエザッハリッヒカイトというようなものがその最大の効果を計算されたものであるかがよく分かる ― 要するにそこに至る準備を滞りなくして指揮台に立っているのがよく分かる。但し残念ながら管弦楽団が座付きのそれなので崩れることはないが全く楽譜の指定に無頓着な演奏が繰り広げられている。幾らでも録り直しの必要な箇所もあるのだが、指揮者もそこまでの意志も無いのか最初から無駄だと思っているのか分からないがそうしたものがこの曲の代表的な録音になってしまっている。
実はその前にいつものようにフルトヴェングラー指揮の戦中のライヴ録音を聞いたのだがそれは全く駄目だった。それについて触れずに、YOUTUBEで1949年のヴィースバーデンでの録音を聞いて驚いた。楽譜の情報が確り表現されていて、座付き管弦楽団とは違うのは当然ながら、ベルリンのフィルハーモニカ―を指揮してしっかりと楽譜が音化されている。今録音が残されている指揮者では、フルトヴェングラーはピエール・ブレーズと並んで、キリル・ペトレンコの楽譜の読みに迫る指揮をしている数少ない天才であることがこれでも分かる。そのテムポに関しても幾らでも自由自在になるのは、本人がバーデンバーデンのラディオで「幾らでもきっちり振るのは簡単で、自分は偶々指揮の才能があったから」と話していた通り、いつでも正しいリズムが打てる天分があったからなのだろう。
Brahms - Symphony n°4 - Berlin / Furtwängler Wiesbaden 1949
参照:
逆説の音楽的深層構造 2017-10-04 | マスメディア批評
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
来年一月のホテルを予約した。ミュンヘンへの観劇は通常は日帰りだが今回は一泊劇場から歩ける範囲でアパートメントを借りた。価格は適当で、必要なければ無料でキャンセルすればよい。車も劇場下に泊めて置けるので楽である。
来週の音楽会のために車に燃料を満タンにした。折からガソリンが安くなっているので助かった。もう一度出かける前に入れて満タンにしておけば比較的安上がりになりそうだ。
お勉強の方も始めたが、「角笛」と交響曲4番のプログラムで想定していたよりもオタマジャクシが多いように感じた。なによりもブラームスにおいても主旋律と対旋律ぐらいでしかその目の詰んだ織物を考えていなかったが、その声部毎のダイナミックスやアクセントを拾っていくととてもそれでは済まないなと感じた。恐らく歴史的な演奏実践の継承として、先ず何よりも和声的な観点でアーティキュレーションがなされていて、常套手段として解決されているのだろうが、よくよく見ると態々そのように作曲家が書き込んだ意味を考えさせるところが多々ある。
それとは別に一楽章の第二主題部での三連符などでもブルックナーなどではいつも決まったように納まっているのだが、ブラームスではその動機と他の動機との繋がりが気になって来て、たとえ対位法的と言われても到底主と従の様には処理出来なくなってしまう。
二楽章のフリジア調の主題とその後の経過の三連符と弱起のアーティキュレーションとの繋がりがとても面白く、とても細かに作曲されていて、やはりとても興味深い。
三楽章の三連符から第二主題の変形での大きく動機を拡張、対比と、第一主題のスラーの掛かった動機対比など、やはりこれは対比する主題の展開や縮小などではなく動機の組み合わせであることがよく分かる。
終楽章のパッサカリアでも三連符でクライマックスを迎えるのは良いが、それ以上に展開部へのリタルタンドとコーダでのポコリタルタンドを除いて、強拍にもつけられる数々のディムニエンド指定が目につく。
作曲経過を読むと四楽章のあとに三楽章が書かれていて、なるほどなと思った。全体の見通しがよく効いているからである。また初演がキリル・ペトレンコが音楽監督だったマイニンゲンの管弦楽団を作曲者本人が振ったとある。
恐らくブラームス演奏では最も権威があり歴史的にも重要なカール・ベーム指揮の録音などを聞くと、ここぞというところでおかしくならないようにそれを準備するようなテムポの運びをしていて、如何にノイエザッハリッヒカイトというようなものがその最大の効果を計算されたものであるかがよく分かる ― 要するにそこに至る準備を滞りなくして指揮台に立っているのがよく分かる。但し残念ながら管弦楽団が座付きのそれなので崩れることはないが全く楽譜の指定に無頓着な演奏が繰り広げられている。幾らでも録り直しの必要な箇所もあるのだが、指揮者もそこまでの意志も無いのか最初から無駄だと思っているのか分からないがそうしたものがこの曲の代表的な録音になってしまっている。
実はその前にいつものようにフルトヴェングラー指揮の戦中のライヴ録音を聞いたのだがそれは全く駄目だった。それについて触れずに、YOUTUBEで1949年のヴィースバーデンでの録音を聞いて驚いた。楽譜の情報が確り表現されていて、座付き管弦楽団とは違うのは当然ながら、ベルリンのフィルハーモニカ―を指揮してしっかりと楽譜が音化されている。今録音が残されている指揮者では、フルトヴェングラーはピエール・ブレーズと並んで、キリル・ペトレンコの楽譜の読みに迫る指揮をしている数少ない天才であることがこれでも分かる。そのテムポに関しても幾らでも自由自在になるのは、本人がバーデンバーデンのラディオで「幾らでもきっちり振るのは簡単で、自分は偶々指揮の才能があったから」と話していた通り、いつでも正しいリズムが打てる天分があったからなのだろう。
Brahms - Symphony n°4 - Berlin / Furtwängler Wiesbaden 1949
参照:
逆説の音楽的深層構造 2017-10-04 | マスメディア批評
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音