キリル・ペトレンコ指揮凱旋コンサートを前に、マティアス・ゲーネがバイエルン放送協会の電話インタヴューに答えている。東京で「子供の魔法の角笛」を歌って帰国したところである。十数年歌い続けているマーラーの歌曲についての考え、想いを語っている。それに続いて質問に答えて、日本の聴衆についてコメントする。独逸との比較において「電話が鳴ることなど経験したことないし、その会場がザワザワすることが無い」とその集中と静かなこと以外に、彼に言わせると、「音楽教養をもった人々が、インターナショナルにオープンになって来て、世界で恐らく一番素晴らしい聴衆の一つが日本のそれだ」となる。これは私が最も知りたかったことの一つである。
嘗てから特に東京の音楽会場では、所謂音楽教育を受けた人々と、今でいうクラシックオタクの人達によって、上の言葉で言えばとてもクローズで硬直した聴衆がその特徴だった。なるほど世界の大都市でその比率からして恐らく最も音楽の高等教育を受けた専門家の割合が多い都市だったが、それ故に、また制作メディアとの比較という方法で、技術的間違い探しの様な聴習慣がある聴衆だったのだ。言葉を変えると、教育は受けていても教養が無いのが東京の聴衆だったかもしれない。同時に今でも話題になっている知ったかぶりのオタクによる拍手のファールなどに見られる聴衆層がそれを特徴つけていたのだった。
今回の日本公演は色々な意味から文化的な評価をしてよいと思う。なによりも上に述べられているような、要するに教養のある人々が、そうした首都の文化を支えているということを確認したということである ― 中産階級の破壊とはといっても信頼できる良識人の存在である。それは、ミュンヘン側からすると前回のフクシマ寡に伴う大キャンセル問題もあって、神経質になっていたことは想像出来るので、聴衆の反応を殊の外注意しなければいけなかったということでもある。更に、今回の関心の的でもあったキリル・ペトレンコの特殊な立場である。
この天才指揮者も2015年にサイモン・ラトルの後継者として漸く世界的脚光を浴びることになったのだが、その特徴は日本ではCD等の録音が殆んど無い音楽家として知られており、これは業界から見ると商業メディアが関与しないつまりその広告費や活動費が一切使われないタレントとなる。それ故に日本側の招聘元を除くと、劇場の広報がその予算から最大限の活動をしたとみている。それに我々もSNSを使って各々協力したのであった。要するにBMWなどが直接関与した台北とは異なり、ミュンヘン側からすると飽く迄も非商業的な活動であったのだ。つまり今回の公演での日本の聴衆の反応はそのもの商業的なイメージ作りの影響を殆んど受けていないということでもある。
上述のように日本の聴衆の反応を分析することが様々な意味合いで興味深いのはその点である。キリル・ペトレンコが今現在までメディア契約をせずにこうして世界的に注目を浴びるということは、業界的な視座を越て革命的なことであり、この指揮者が純粋に芸術的な枠を超えて途轍もない破壊力を示したことになる。このことに関しては、昨年の欧州ツアーから極東ツアー、そして来年のニューヨークツアーへと繋がることになる。
月末のメルクーア紙は、ベルリナーモルゲンポストが報じたようにそこでのインタヴューをもとに、国立管弦楽団の四度目の「今年のオーケストラ受賞」と今後の抱負について伝える。楽団はペトレンコ音楽監督のお陰で今後ヴィーンやドレスデンやベルリンに並ぶだけの自信を語っており、自主的なプログラム構成などを模索しているようだ。これも他の楽団などと同じく、マスメディア離れした自立とマーケティングへの試みである。そして、次期監督として、これまでの成果を継続するべく、管弦楽団として更に成長していきたいということで、ボストン交響楽団音楽監督アドリス・ネルソンズが第一希望らしい。併任のゲヴァントハウスで上手く行かないようならば、オペラ歌手の奥さんのことも考えればミュンヘンに来るだろう。しかし現実的には、コンサート指揮を見込んでパパーノとユロウスキーの二人の指揮者と交渉中ということのようである。
SNSなどの手段の恩恵のみに限らず、やはり人々は少しづつでも学んできているに違いない。全てが商業化されて、そうした価値観しか通用しなくなったかに思えたのだが、やはりそうはならない。芸術文化において明らかにそうした反響が認識されたとき、人々の世界感は間違いなくそれに続くようにして変わって来る。
参照:
DER BARITON MATTHIAS GOERNE, 06.10.2017 von Sylvia Schreiber (BR-Klassik)
Die Eisenbahner vom Bayerischen Staatsorchester, Markus Thiel (Merkur.de)
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評
身震いするほどの武者震い 2017-09-27 | 音
嘗てから特に東京の音楽会場では、所謂音楽教育を受けた人々と、今でいうクラシックオタクの人達によって、上の言葉で言えばとてもクローズで硬直した聴衆がその特徴だった。なるほど世界の大都市でその比率からして恐らく最も音楽の高等教育を受けた専門家の割合が多い都市だったが、それ故に、また制作メディアとの比較という方法で、技術的間違い探しの様な聴習慣がある聴衆だったのだ。言葉を変えると、教育は受けていても教養が無いのが東京の聴衆だったかもしれない。同時に今でも話題になっている知ったかぶりのオタクによる拍手のファールなどに見られる聴衆層がそれを特徴つけていたのだった。
今回の日本公演は色々な意味から文化的な評価をしてよいと思う。なによりも上に述べられているような、要するに教養のある人々が、そうした首都の文化を支えているということを確認したということである ― 中産階級の破壊とはといっても信頼できる良識人の存在である。それは、ミュンヘン側からすると前回のフクシマ寡に伴う大キャンセル問題もあって、神経質になっていたことは想像出来るので、聴衆の反応を殊の外注意しなければいけなかったということでもある。更に、今回の関心の的でもあったキリル・ペトレンコの特殊な立場である。
この天才指揮者も2015年にサイモン・ラトルの後継者として漸く世界的脚光を浴びることになったのだが、その特徴は日本ではCD等の録音が殆んど無い音楽家として知られており、これは業界から見ると商業メディアが関与しないつまりその広告費や活動費が一切使われないタレントとなる。それ故に日本側の招聘元を除くと、劇場の広報がその予算から最大限の活動をしたとみている。それに我々もSNSを使って各々協力したのであった。要するにBMWなどが直接関与した台北とは異なり、ミュンヘン側からすると飽く迄も非商業的な活動であったのだ。つまり今回の公演での日本の聴衆の反応はそのもの商業的なイメージ作りの影響を殆んど受けていないということでもある。
上述のように日本の聴衆の反応を分析することが様々な意味合いで興味深いのはその点である。キリル・ペトレンコが今現在までメディア契約をせずにこうして世界的に注目を浴びるということは、業界的な視座を越て革命的なことであり、この指揮者が純粋に芸術的な枠を超えて途轍もない破壊力を示したことになる。このことに関しては、昨年の欧州ツアーから極東ツアー、そして来年のニューヨークツアーへと繋がることになる。
月末のメルクーア紙は、ベルリナーモルゲンポストが報じたようにそこでのインタヴューをもとに、国立管弦楽団の四度目の「今年のオーケストラ受賞」と今後の抱負について伝える。楽団はペトレンコ音楽監督のお陰で今後ヴィーンやドレスデンやベルリンに並ぶだけの自信を語っており、自主的なプログラム構成などを模索しているようだ。これも他の楽団などと同じく、マスメディア離れした自立とマーケティングへの試みである。そして、次期監督として、これまでの成果を継続するべく、管弦楽団として更に成長していきたいということで、ボストン交響楽団音楽監督アドリス・ネルソンズが第一希望らしい。併任のゲヴァントハウスで上手く行かないようならば、オペラ歌手の奥さんのことも考えればミュンヘンに来るだろう。しかし現実的には、コンサート指揮を見込んでパパーノとユロウスキーの二人の指揮者と交渉中ということのようである。
SNSなどの手段の恩恵のみに限らず、やはり人々は少しづつでも学んできているに違いない。全てが商業化されて、そうした価値観しか通用しなくなったかに思えたのだが、やはりそうはならない。芸術文化において明らかにそうした反響が認識されたとき、人々の世界感は間違いなくそれに続くようにして変わって来る。
参照:
DER BARITON MATTHIAS GOERNE, 06.10.2017 von Sylvia Schreiber (BR-Klassik)
Die Eisenbahner vom Bayerischen Staatsorchester, Markus Thiel (Merkur.de)
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評
身震いするほどの武者震い 2017-09-27 | 音