忘れないうちにバイロイト祝祭のティケットも注文しておかなければいけない。今年も初日の安い席で充分である。「ローエングリン」はハムブルクの日本公演で出かけた記憶があるが、それ以後知らない。指揮はソヴィエトからのヴォルドマール・ネルソンで歌はペーター・ホフマンだったろうか?兎に角だらだらと長いオペラなので、初代音楽監督が振ったら余計に暑苦しそうである。先ず当たらないのでどちらでもよい。当たっても適当に日帰りなので全く問題がない。資料には何も書いていないが、ネットで調べるとアラーニャとハルテロスにツェッペンフェルトとマイヤーが絡むというものらしい。水曜日である。新制作以外には歌手の名前が載っていないのはなぜなのだろう。あまり関心がないので、どちらでもよいが。
LOHENGRIN NELSSON BAYREUTH 1982 part 1
興味が無くても関心をもって読んだ記事はランランのキャンセルの話しで、べルリンのフィルハーモニカ―との極東公演は券の払い戻しが行われたと聞いていたが、結局は四月までは全てキャンセルしたようで、それ以外にはカーネギーホールでの子供の左手を借りてのコンサートと、今週末のミュンヘンの医学部でのプライヴェートコンサートでお目見えするらしい。つまり来年四月のベルリンとミュンヘンでのリサイタルをキャンセルしたことが話題になっている。
左腕を痛めたのは右手も左手も同じようにトレーニングしてきたのだろうからスポーツ選手と同じで痛めたのだろうが、最後のフィルハーモニカ―との極東公演もキャンセルしたので完全に痛めたのだろうかと思った。想像するにやはり最後の公演ということなどが影響を与えたようにしか思えない。まさか次期音楽監督にあれだけ貶されていて、それでも共演するなんていうことは今後とも無いだろう。
もしかすると、左手の事情などがあるのでそれを口実に引退するのではないだろうか。自分自身も、あれだけチャンスを貰っておきながら、音楽が何時まで経っても奏でられていないことぐらいは気が付いているだろう。なにも満州人には無理だなどとは言わないが、代わりに滑り込む下品なシナ女性にしてもあまり変わりないことである。それでもその先には巨大な市場があるので何とかしようと、それで食っているマネージメントの連中には、シャラポアなどと同じように何とか売り物を用意しておかなければいけない八百屋の大根や蕪のような代物なのだ。
新たな市場や聴衆ということをベルリンの新任のチェッチュマン女史が語っている。具体的には分からないのだが、ペトレンコ新任と共に、先ずはレパートリー、国内外の新たな公演地や市場、そして紹介へと2019年以降のプロジェクトが動いているようだ。勿論個人的に期待するのはバーデンバーデンの復活祭での充実と、そのスーパーオパー上演形態の可能性の追求である。
同時に聴衆の高齢化と若返りとして現在のエデュケーションプロジェクトをさらに推進させるとともに、デジタルコンサートとSNSなどとの連携も考えているようである。フォーラムとしていて、キリル・ペトレンコと聴衆の繋がりを試みているようで、恐らくインターアクティヴとまではいかないでも、彼女自身がそこに係って来るような心積もりもあるようだ。今回の極東公演でのSNSの情報量をみれば、それほど難しく考えるまでも無く、劇場が取ったような形式で充分な効果があったので、その程度のポータルサイトの準備ではじめられるに違いない。恐らく今回の成果を参考にしていると想像する。
参照:
Intendantin der Philharmoniker vermisst junges Publikum, Matthias Wulff, BerlinerMorgenpost vom 15.10.2017
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
アクセスをインタープリート 2016-02-08 | 文化一般
形而上の音を奏でる文化 2007-12-21 | マスメディア批評
LOHENGRIN NELSSON BAYREUTH 1982 part 1
興味が無くても関心をもって読んだ記事はランランのキャンセルの話しで、べルリンのフィルハーモニカ―との極東公演は券の払い戻しが行われたと聞いていたが、結局は四月までは全てキャンセルしたようで、それ以外にはカーネギーホールでの子供の左手を借りてのコンサートと、今週末のミュンヘンの医学部でのプライヴェートコンサートでお目見えするらしい。つまり来年四月のベルリンとミュンヘンでのリサイタルをキャンセルしたことが話題になっている。
左腕を痛めたのは右手も左手も同じようにトレーニングしてきたのだろうからスポーツ選手と同じで痛めたのだろうが、最後のフィルハーモニカ―との極東公演もキャンセルしたので完全に痛めたのだろうかと思った。想像するにやはり最後の公演ということなどが影響を与えたようにしか思えない。まさか次期音楽監督にあれだけ貶されていて、それでも共演するなんていうことは今後とも無いだろう。
もしかすると、左手の事情などがあるのでそれを口実に引退するのではないだろうか。自分自身も、あれだけチャンスを貰っておきながら、音楽が何時まで経っても奏でられていないことぐらいは気が付いているだろう。なにも満州人には無理だなどとは言わないが、代わりに滑り込む下品なシナ女性にしてもあまり変わりないことである。それでもその先には巨大な市場があるので何とかしようと、それで食っているマネージメントの連中には、シャラポアなどと同じように何とか売り物を用意しておかなければいけない八百屋の大根や蕪のような代物なのだ。
新たな市場や聴衆ということをベルリンの新任のチェッチュマン女史が語っている。具体的には分からないのだが、ペトレンコ新任と共に、先ずはレパートリー、国内外の新たな公演地や市場、そして紹介へと2019年以降のプロジェクトが動いているようだ。勿論個人的に期待するのはバーデンバーデンの復活祭での充実と、そのスーパーオパー上演形態の可能性の追求である。
同時に聴衆の高齢化と若返りとして現在のエデュケーションプロジェクトをさらに推進させるとともに、デジタルコンサートとSNSなどとの連携も考えているようである。フォーラムとしていて、キリル・ペトレンコと聴衆の繋がりを試みているようで、恐らくインターアクティヴとまではいかないでも、彼女自身がそこに係って来るような心積もりもあるようだ。今回の極東公演でのSNSの情報量をみれば、それほど難しく考えるまでも無く、劇場が取ったような形式で充分な効果があったので、その程度のポータルサイトの準備ではじめられるに違いない。恐らく今回の成果を参考にしていると想像する。
参照:
Intendantin der Philharmoniker vermisst junges Publikum, Matthias Wulff, BerlinerMorgenpost vom 15.10.2017
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
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