夜中にちょこちょこと起きた。朝が厳しい。更に雨が降っているとなると身体馴らしも出来なかった。その前の統一の日の記念再放送もしっかり聴いてしまった。8月23日のベルリンのフィルハーモニーでのオープンコンサートの中継録音である。生中継で観聴きした印象と変わらない。ルル組曲の方はルツェルンの演奏の方が遥かに優れていたが、第九は緊張感もあってよかった。但し三楽章だけはルツェルンの方が遥かに良かった。生放送聴視時に特別に注文した通りで、稽古でしっかり直して来ていた。
やはりフルーティストのパウが語っていた様に今後十年間の金字塔となるような演奏であったことは間違いなく、自画自賛ではなく、よく細かなところまで音を合わせていた。非常に程度が高い。
程度が高いと言えば、夜中に録音しておいたカーネーギーホールからの中継で、インタヴューなどの中にヴェルサーメストが延長契約を全うすれば最も長い期間のシェフとなるようで、2017年という数字にそれが隠されているとは知らなかった。つまり今や伝説的な指揮者セルの任期を超えることになる。実際に演奏技術面だけでなく、音楽的に超えている面が多々あって、次の期間中の成果でセルではなくメストのクリーヴランドとして歴史化するのではなかろうか。初めに就任した時には斜陽の街として嘆いていたが、話しの様に緑化やらそれなりに成果も出てきているのだろう。
欧州からすれば今後も出来が良い時にツアーをしてくれて、同時に指揮者にはオペラ劇場で定期的に振って貰えればよいのではなかろうか?
オペラと言えば「トューランドット」の録音も並行して行った。夜中に二つもの生中継が同じニューヨークから届くのは珍しいことだが、どちらも捨てれなかった。まだ流してはいないが上手く録れているようだ。ネゼセガンのプッチーニは知らないのでとても興味がある。週末にでも流してみよう。歌心がどのように出ているだろうか?
歌心はいいのだが、ペトレンコ指揮「我が祖国」評として、やや真面目過ぎるというのがあったが、ロマンティックつまり国民楽派とか呼ばれる範疇で強調されるナショナリズムに付いて焦点を当てたのが南独新聞である。だからそこの夢、憧憬、民族性や風土などへと意識が広がる中で国境を超えるという趣旨である。スメタナの他の作曲家と同じくその原点をベートーヴェンに求めると、オランダ移民であるボンで生まれた楽聖は早くにヴィーンへと赴き、その音楽の故郷はそもそもインターナショナルなものであって、まさしくオムスク生まれのペトレンコが若くしてヴィーンに学んだことと重ね合わせている。
この一節は左翼系の自由主義新聞としては中々いい表現で、これを読むと、同時に連邦共和国で一時政治的な課題ともなっていた「ライトクルテューア」議論への一つの回答となっていることに読者は気が付く。当時対抗概念として挙がっていた「ムルティクルテューア」の多様性をも抱合する形での止揚となっている。スメタナ-ベートーヴェンと繋いで、些かコンサート批評としては飛躍した気もしないではないが、夏のオープニングにおける第九からの一貫した活動の把握としてはとてもいい。ネット記事は10月3日19時53分付けを記している。丁度バイエルン放送協会で第九が再放送される少し前である。一般紙が評をする場合はこの程度の意識が無ければ駄目である。
参照:
Der Ernste, Reinhard J. Brembeck, Süddeutsche Zeitung vom 3.10.2019
思索の向かうところ 2019-09-19 | 文学・思想
adagio molto e cantabile 2019-09-06 | 音
やはりフルーティストのパウが語っていた様に今後十年間の金字塔となるような演奏であったことは間違いなく、自画自賛ではなく、よく細かなところまで音を合わせていた。非常に程度が高い。
程度が高いと言えば、夜中に録音しておいたカーネーギーホールからの中継で、インタヴューなどの中にヴェルサーメストが延長契約を全うすれば最も長い期間のシェフとなるようで、2017年という数字にそれが隠されているとは知らなかった。つまり今や伝説的な指揮者セルの任期を超えることになる。実際に演奏技術面だけでなく、音楽的に超えている面が多々あって、次の期間中の成果でセルではなくメストのクリーヴランドとして歴史化するのではなかろうか。初めに就任した時には斜陽の街として嘆いていたが、話しの様に緑化やらそれなりに成果も出てきているのだろう。
欧州からすれば今後も出来が良い時にツアーをしてくれて、同時に指揮者にはオペラ劇場で定期的に振って貰えればよいのではなかろうか?
オペラと言えば「トューランドット」の録音も並行して行った。夜中に二つもの生中継が同じニューヨークから届くのは珍しいことだが、どちらも捨てれなかった。まだ流してはいないが上手く録れているようだ。ネゼセガンのプッチーニは知らないのでとても興味がある。週末にでも流してみよう。歌心がどのように出ているだろうか?
歌心はいいのだが、ペトレンコ指揮「我が祖国」評として、やや真面目過ぎるというのがあったが、ロマンティックつまり国民楽派とか呼ばれる範疇で強調されるナショナリズムに付いて焦点を当てたのが南独新聞である。だからそこの夢、憧憬、民族性や風土などへと意識が広がる中で国境を超えるという趣旨である。スメタナの他の作曲家と同じくその原点をベートーヴェンに求めると、オランダ移民であるボンで生まれた楽聖は早くにヴィーンへと赴き、その音楽の故郷はそもそもインターナショナルなものであって、まさしくオムスク生まれのペトレンコが若くしてヴィーンに学んだことと重ね合わせている。
この一節は左翼系の自由主義新聞としては中々いい表現で、これを読むと、同時に連邦共和国で一時政治的な課題ともなっていた「ライトクルテューア」議論への一つの回答となっていることに読者は気が付く。当時対抗概念として挙がっていた「ムルティクルテューア」の多様性をも抱合する形での止揚となっている。スメタナ-ベートーヴェンと繋いで、些かコンサート批評としては飛躍した気もしないではないが、夏のオープニングにおける第九からの一貫した活動の把握としてはとてもいい。ネット記事は10月3日19時53分付けを記している。丁度バイエルン放送協会で第九が再放送される少し前である。一般紙が評をする場合はこの程度の意識が無ければ駄目である。
参照:
Der Ernste, Reinhard J. Brembeck, Süddeutsche Zeitung vom 3.10.2019
思索の向かうところ 2019-09-19 | 文学・思想
adagio molto e cantabile 2019-09-06 | 音