Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「ポジティヴな難民」の意味

2019-10-23 | マスメディア批評
キリル・ペトレンコが音楽雑誌「レコード芸術」て組まれたようだ。そしてメディア市場で金を生み出す指揮者達が並んでリストアップされているようである。そしてその内容の一部を知って魂消た。

キリル・ペトレンコを称して「ドイツ国民にとってポジティヴな難民」としているらしい。これは少なくとも連邦共和国ではAfDとしてレッテル張りするに十分な言動である。恐らく話者は、難民も移民も何もかもよく分かっていないと思われる。高尚な音楽芸術を語る者も無知なのは致し方ないとしても、ポジティヴ、ネガティヴと容易に人をレッテル張りすることが前代未聞である。何かを書いて糊代としている者ならば最早芸術について語るべきではない、そのような言動を活字化するような雑誌や出版社はお話しにならない。精々嫌韓本を出版していればよろしい。

彼らが主な糊を凌ぐ市場が所謂近代西洋音楽と言う分野であって、その基本には啓蒙思想がある。このような野蛮な発言は相いれない。

そもそもペトレンコを「難民」とカテゴライズしているようだが、通常は政治的なものに関しては「亡命」であって、難民に指定されるのは戦災などから命や財産を守るための逃げてくる人々の事を指す。ここ暫く問題になっているのは戦災難民の体をとりながらよりよい生活を求めて豊かな国へと「不法移民」をしてくる所謂経済難民とされる二種類しかない。つまり難民とされるからにはそこの群にカテゴライズされて、その中から社会的に経済的に役に立つ者をポジティヴと言いたいのだろう。

ドイツ連邦共和国は、刻々の移民政策に当たって、経済的な利を旨として来ていて、当然のことながら優秀で即戦力になるような人材を歓迎して来ていて、そして今もそれは変わらない。その移民政策の中での社会的に経済的にポジティヴ、ネガティヴと言うのは正当な言葉使いである。「移民」という事では、ペトレンコ家族も私も同じなのである。

しかし、これを社会政治問題となっている「難民」とするとそれは全く意味が異なってくる。オペラぐらいが分かる人間ならば先頃のフランクフルトにおける「マノンレスコー」の演出を見ればよい、好悪の判断などではないところに劇場空間が広がる。そもそもペトレンコが語ったシーズンオープニングにおける「第九のヒューマニズム」は、ポジティヴ・ネガティヴを包有して尚且つ止揚されることによってなされるものであって、必ずしも楽聖の日本国憲法九条にも繋がるパシフィズムや理想主義にのみ存在するものではない。無論、連邦共和国首相メルケルの政策によって左右されるものでもない。

前記した近代西洋の精神こそが、そうした精神的な営みにあってこそハイカルチャーと呼ばれるもので、そうした原点が分からずに音楽だとかなんだとかのたまうのは止めたまえ。時間の無駄である。社会の害毒でしかない。そうした輩に限って、二十世紀期後半以降の芸術などは分からないのは当然であり、要するにサブカルチャーもハイカルチャーも奴らのライフカルチャーにおける衣裳でしかないとなる。

日本におけるハイカルチャーの取り込みもご多聞に漏れずエリート層への働きかけから、こうした複製芸術の商業的な市場原理へと零れ落ちて、そして原点を失った。嘗てならばどんなに能力の無い音楽評論家でもこのような野蛮な言動はしなかった。それは話し手が本当に楽聖の精神とか何とかを汲み取ろうとして、可能な限り視聴者や読者に伝えようとしていたからに違いない。それはなにかと言うと、彼らは学歴とかとは関係なくやはり自らはエリートだと自覚していたからだと思う。

政治的にもまともではないこうしたAfD的言動が芸術畠などで為されるのは許されない。それどころか無頓着であることも不誠実の範疇を逸脱している。先日読んだネット記事にも書いてあったように、若い指揮者が優秀な大管弦楽を振る機会を与えられて、成功から大きな編成のマーラーなどを曲を振り、スター顔をしていても、ある年齢から古典曲を振る必要に迫られても到底解決できないままいい歳になって行くという文章があった。その時には演奏技術的なことしか思いもよらなかったが、実は西洋近代音楽の原点をそもそも修めていなかったからではないかと感じた。どんなに難しいことを語っていようが、お門違いになるという事である。



参照:
限り無しに恨み尽くす 2019-09-03 | 女
脳裏に浮かぶ強制収容所 2016-10-11 | 歴史・時事
コメント (2)
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