Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

四拍子を振れない指揮者

2019-10-14 | 
ヴィーンからの生中継を聴いた。先日から色々とネット上で囁かれていたブルックナー交響曲八番を楽友協会黄金のホールから中継するというものだ。この後にツアーに出て、日本でも11月に演奏されるという事で、注意深く聴いた。録音をするまでのことは無いと思ったので、ハース版の総譜を前に、一度はコーヒーを淹れに、一度は家庭ごみを捨てに立った。後者は二楽章のスケルツォ繰り返しの時に行った。

メモは取っていないが最初から気になったのはアーティキュレーションで、フレーズなどは弾き慣れているフィルハーモニカーに任せてあって、コンツェルトマイスターも指揮者なので適当だったが、全く指示できないのが分かった。指揮の技術上の問題だと思うが、特に強起の動機などはどうしてもその前が端折る形になっている。弱起なら目立たないのだろうが、ブルックナーの場合はそうなると音楽づくりが出来ないことになる。

元祖ことティーレマン指揮では後にも先にも一回だけ十八番としている第五交響曲を生で体験したのだが、その時の印象と全く変わらなかった。寧ろ五番の方がロマンティックに歌おうとする意思が見えていてシューマンの交響曲のようになっていたが、ここでは三楽章の第二主題においてもしっかりと歌い込めず、折角の聴かせ所を如何にも管弦楽団任せというのが分かり易かった。反対に若しくはそれ故に楽譜の八割以上のダイナミックスを無視していて、そういう場合は決まって数小節に亘ってのデュナーミックか何かで覆い隠してしまっている。要するに楽想が変わって行くところをどうやって繋ぐかだけに注意力が注がれている。

そうした大まかな楽曲把握から、全体像やブルックナーの意思が露わになってくるのならばよいが、まるでそれに関しては我関せずである。全く何が言いたいのか分からない。「ハース版に決断」とか放送が言うが、こんな演奏をするぐらいなら思い切ってシャルク版でもなんでもハーク版でもティーレマン版でもなんでもいいから採用した方がポストモダーン、修正主義風で格好がいい。それが出来ないから脳足りん、ノーリタンの時代錯誤者なのである。

三楽章の第一主題部も間が保てなくてスイングしていたので、ネゼセガン指揮フィラデルフィア管弦楽団の同曲の演奏を思い出したが、決してそこまでは悪くはなかったと記憶する。録音でもう一度確認した。確かに直さなければいけないところは結構あったのだが、複雑なところになって丁寧に演奏していると自ずからブルックナーの音楽が沸き上がる。元祖の指揮には聞こえない静けさであり、落ち着きである。典型的なのが四分休符やゲネラルパウゼで、ネゼセガン指揮ではしっかり数えられていて、内面的な宇宙の拍動となっているのが、元祖の指揮では端折ってしまって刻まれない。それゆえに最後の沈黙が取って付けたようにしか思われない。細やかに音符を拾って行けば行くほどブルックナーの内面な歌が聴こえてくる。音楽とはそうしたものであってはったりではない。

11月に日本公演をするというのだが、普通のオタクには受けても、ブルックナーオタクの版とか何とかに言及する人には非難されるものでしかない。あれだけ何もかも記譜を無視すれば、版云々どころの話しではない。放送で「暗譜で指揮した」というアナウンスから、それはそうでしょうと言葉を返した。少なくとも楽譜を前に標準的な視力があればああゆう風にはならない。一体なんだ、あの終わった後の沈黙は、只のバカボンではないか、それとも日本の聴衆を騙すための練習か?楽友協会ホールには多くの日本人かサクラが詰めかけていて、その程度の低さを露わにしていた。そもそも四拍子のセクエンツをしっかりと振れない人がコンサートで指揮をするなど以ての外だ。はっきりさせておくが、ブロムシュテット爺やハイティンク指揮のブルックナーなどには到底及ばないということだ。



参照:
脳足りん、ノーリターン 2019-10-02 | 雑感
指揮者無しが上手く行く 2019-09-29 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする