樵作業は終わったらしい。先週末以来で緑のベンチまで走れた。短い距離だがそれでも高度差があるので足の調子が誤魔化せない。走り始めは重症だった左足が具合が悪く力が入らなかった。右足で蹴った。すると完璧に感じたが、どこかで指が痛みだした。その時は左足が正常化していた。両足が悪くなれば走れないが何とか変わり変わりに治る。
先週末に走った時には無理な姿勢で膝に来ていた。それが今回は全くなかった。速度は若干上がり気味だがまだまだで、寒さで怪我をしない様にしたい。全快のワイン地所に続いてパンツを履いたまま走った。林道の脇にひん曲がったようなあまり立派でもない木が幾らか横倒しに置いてあった。
クレディットカードがまだ通らない。銀行も担当者に繋がらないので、圧力を引き続き与えなければいけない。しかし来年支払いの宿などは他のカードを使って予約したりして、出物があるうちに押さえておいた。
「ローエングリン」を指揮するロート氏が地元の評論家ティーレ氏のインタヴューに答えている。質問も内容もなのだが答えていることが如何にも馬鹿らしい。そして劇場が小さなヴィデオセクエンスを出して、そこでラウムクランクを語っている。その内容がペラペラで既に言及した様に、ヴァ―クナーへの道をバッハを対抗軸に置きながら、ベートーヴェン、ヴェーバー、シューマンを通してとして、そこからリゲティからの関連を発言。ストラスブルク出身のオルガン弾きの息子で、フランス人ならばこうした非論理的な議論は慣れない外国語を話しても起きるのはおかしい。
ラウムクランク以前に音楽の場を語っていた指揮者であるが、益々その見識を疑わすに十分だ。ペトレンコらと同年配なのだがこうした矛盾のある論理的でない話ばかりしていると、SWRの前任者クレンツィスと変わらないことになる。
以前は、「カラヤンやティーレマン指揮のリヒャルトシュトラウスは風呂場の鼻歌」と語っていたが、なぜかこの人はその音楽的なエッセンスまでは語らない。ハースの四分音のピアノ協奏曲などに関しても楽譜の表紙に書いてある様なことは語ってもその序文までには至らない。
語学力に拘わらず明らかなアイデアがあれば幾らでもその核を上手に話せれる筈なのだが、全然駄目なのである。口が巧い必要はないのだが、いい指揮者は考えながらでもいいことを発言する。誰にでも分かる言葉である必要もないが、分かる人には具体的に分かるだけの言葉がこの指揮者にはない。
キリル・ペトレンコが新しい道を拓いていたからその伝統ある楽団でも未だ更についてきてくれるという意味合いの事を語っている。こうしたところに、自身の楽団でやっているように、まるで自身が新しいことをやっているというような勘違いが感じられるのだがどうだろう。ドイツ語の表現力が羨ましいと合唱団に語ったというが、それが自身のものとなっていなくて、ああした大舞台でヴァ―クナーを振ろうという気が知れない ― 引き受けるか熟考したとは語っているが。50歳を過ぎた実力派としてはその発する言葉があまりにも軽い様に思う。さて土曜日の初日がどうなるか。
参照:
„Ich liebe Deutsch“: François-Xavier Roth, Markus Thiel, Merkur.de vom 1.12.2022
みんなみんな狼だか 2022-12-01 | 文化一般
三大氏神下しへの可能性 2022-10-19 | 文化一般
先週末に走った時には無理な姿勢で膝に来ていた。それが今回は全くなかった。速度は若干上がり気味だがまだまだで、寒さで怪我をしない様にしたい。全快のワイン地所に続いてパンツを履いたまま走った。林道の脇にひん曲がったようなあまり立派でもない木が幾らか横倒しに置いてあった。
クレディットカードがまだ通らない。銀行も担当者に繋がらないので、圧力を引き続き与えなければいけない。しかし来年支払いの宿などは他のカードを使って予約したりして、出物があるうちに押さえておいた。
「ローエングリン」を指揮するロート氏が地元の評論家ティーレ氏のインタヴューに答えている。質問も内容もなのだが答えていることが如何にも馬鹿らしい。そして劇場が小さなヴィデオセクエンスを出して、そこでラウムクランクを語っている。その内容がペラペラで既に言及した様に、ヴァ―クナーへの道をバッハを対抗軸に置きながら、ベートーヴェン、ヴェーバー、シューマンを通してとして、そこからリゲティからの関連を発言。ストラスブルク出身のオルガン弾きの息子で、フランス人ならばこうした非論理的な議論は慣れない外国語を話しても起きるのはおかしい。
ラウムクランク以前に音楽の場を語っていた指揮者であるが、益々その見識を疑わすに十分だ。ペトレンコらと同年配なのだがこうした矛盾のある論理的でない話ばかりしていると、SWRの前任者クレンツィスと変わらないことになる。
以前は、「カラヤンやティーレマン指揮のリヒャルトシュトラウスは風呂場の鼻歌」と語っていたが、なぜかこの人はその音楽的なエッセンスまでは語らない。ハースの四分音のピアノ協奏曲などに関しても楽譜の表紙に書いてある様なことは語ってもその序文までには至らない。
語学力に拘わらず明らかなアイデアがあれば幾らでもその核を上手に話せれる筈なのだが、全然駄目なのである。口が巧い必要はないのだが、いい指揮者は考えながらでもいいことを発言する。誰にでも分かる言葉である必要もないが、分かる人には具体的に分かるだけの言葉がこの指揮者にはない。
キリル・ペトレンコが新しい道を拓いていたからその伝統ある楽団でも未だ更についてきてくれるという意味合いの事を語っている。こうしたところに、自身の楽団でやっているように、まるで自身が新しいことをやっているというような勘違いが感じられるのだがどうだろう。ドイツ語の表現力が羨ましいと合唱団に語ったというが、それが自身のものとなっていなくて、ああした大舞台でヴァ―クナーを振ろうという気が知れない ― 引き受けるか熟考したとは語っているが。50歳を過ぎた実力派としてはその発する言葉があまりにも軽い様に思う。さて土曜日の初日がどうなるか。
参照:
„Ich liebe Deutsch“: François-Xavier Roth, Markus Thiel, Merkur.de vom 1.12.2022
みんなみんな狼だか 2022-12-01 | 文化一般
三大氏神下しへの可能性 2022-10-19 | 文化一般