Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

11歳クララに教えて貰う

2022-12-15 | マスメディア批評
「ヘンゼルとグレーテル」の楽譜を初めてみた。否抑々全曲をも共に聴いたことがなかった。起承のところだけの印象では、有名なプロローグからややもすると映画音楽へと傾いてしまうところもあるのだが、二人の民謡風の掛け合いや母親のモノローグも短い間に場面を作っている。演出にもよるのだろうが、音楽的につまり全体のフォームとして、続く父親との景との流れがどうなるか。要するに芸術的に云々というのも演出と音楽の運び方で程度が決まってしまうという事だ。勿論子供たち又は家族がそれを体験してどのような芸術的感興を引き起こすか、やはり演出も重要だ。

11歳の女の子クララがそこで何を感じたか。この制作が初日を迎えたころに訪れたミュンヘンの女の子の感想が為になる。

(引用始まり)舞台は音楽にとてもあってたと思う。歌も皆よく歌ってた。でも時々よく理解できなかった。あまりにドラマティックであったり、楽団が喧し過ぎたからだったと思う。テキストが少し難しいところもあって、例えばグレーテルはとてもよく分かるけど、お母さんはその反対。

問題は、よく理解できないと、考えが行ったり来たりしてしまって、次の情景を考えたりしてい仕舞う事。だから一幕の終わりはとても緊張感があって、魔女を思い浮かべたりしたけど、退屈なんてことはなかった。

(引用中断)まさしく、オペラとしては父親と森へと子供を追いやってしまう母親の会話、それから、実際にそして魔女の序奏となるのだが、ここまで来てようやくファンタジーから形而上の面へとの繋がりである。(引用再開)

一幕の終わりの情景は、きっと現実ではなくて眠りに就いている二人の夢物語だと思う。そうでなければ可笑しなマスクをしたコックが食事を用意してくれて、二人も違う服装でいるのが話しが合わなくなるから。そしてこの服装はそこだけだから、つまりこの景は夢でしかありえない。そして魔女の景になるとまた現実に戻るの。

魔女はとても面白かったが、よく分からなかったが、とてもよく演じていた。それが男性であったことは特別に珍しとも思わなかった。男でもどうでもどちらでもいい。

でも不思議だったのは、全てが室内で進んでいて、森の中に机や箪笥や洗面台、これはよく分からなかった。タンスの中から子供が落ちて着たり、一本の手とか足とかを冷蔵庫にぶら下がたりして、ここは少し恐ろしい。

お母さんは、インターネットから、三幕から説明とかを印字して呉れて、魔女は最後に食べられてしまうことは教えてくれたけど、楽しみにしたおきたかったから、それ以上は話さなかった。(引用続く)

この子の御詳解で、この制作のお膳立てのようなものは見えてきた。気になるのはやはり冒頭からのホルン四重奏などの、所謂ドイツの森のそれが九月の「魔弾の射手」と同じくどのように解決されているかがこちらはとても気になってくるのである。



参照:
In den Abgründen des Familienlebens, Markus Thiel Merkur.de vom 26.3.2013
回答が出される週末 2022-12-14 | 生活
光背を負うたその芸術 2022-12-11 | 暦
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする