Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

名伯楽が残していくもの

2022-12-19 | 
ミュンヘンから帰宅したの日曜日の23時過ぎ、途上摂氏零下六度ぐらいまでしか遭遇しなかった。しかし帰宅しても零下二度ぐらいだった。手っ取り早くお土産のテリーヌを一切れ食して、また咽喉が厳しくなってきたので投薬して就寝。疲れも薬の効能もあってか比較的熟睡した。ほぼ六時間おきのロクソニン二錠になっている。

タブレットを見ていると、ベルリナーフィルハーモニカー日本公演の情報と共に、ヴィーンの湯浅氏の逝去が伝えられていた。個人的な知己はないものの間接的に「熱心な人」として認識頂いていたので、急逝の報に驚いた。

朝日新聞でも訃報が伝えられてようにキリル・ペトレンコに斎藤流の手解きを教授した名伯楽であった。以前は知らないが、ペトレンコが頂点にまで駆け上がったことから、多くの指揮者が自らのプロフィールにYuasaの名前を大きく書くようになっている。しかし、ペトレンコ程にそれを糧としている指揮者もいないだろう。

丁度それは斎藤のもとに集まった多くの日本の指揮者の中であそこまで上りつめたのは小澤しかいなかったのと似ていて、どのような教えもそれをものにするのは本当の天才しかいないという事だ。

ペトレンコが今の様な指揮の技術がなくても実力は示せたには違いないが、到底今の様なキャリアを歩むこともなく、多くの実力派の中で時間を掛けて切磋琢磨していたかもしれない。

その意味では、日曜日のマティネーを振ったケント・ナガノはいい音楽を作っていた。なるほどリヒャルト・シュトラウスの「町人貴族」の組曲などでは当然のバロックの舞曲感覚とかその踊りの特徴のリズム感覚が足りない。勿論その間が和声の色合いにもなる。それが何処迄求められるかが問いかけで、今回もしかすると初めて聴いたかもしれないミュンヒナーフィルハーモニカーがどう表現するかが判断しどころだった。

その点、急遽ピアノの搬入を休憩時間行って、後半に演奏されたグリークの協奏曲で取り分けその交響楽団の伝統を垣間見せた。決してゴリゴリ鳴らすような過去の印象よりもチェリビダッケの薫陶を感じさせるアンサンブルの妙を聴かせていた。

地元放送局の交響楽団を評価する向きは未だに大きく、チェリビダッケ以降のそれがベルリンの同寮に続く伝統的な第二の交響楽団であることを多くの人が忘れているのだが、その個々の技術的な荒さはあるもののピッチも安定していて、明らかに放送交響楽団とは音楽芸術的な格が違った。

「町人貴族」も小編成乍、素晴らしい音色を出していて、特に木管との弦、または金管との絡み合いなど、まさしく作曲家が示したかった音楽がそこにあった。そして聴衆の多くは聴きどころに耳を傾けていて、ベルリンの聴衆よりもやはり程度が高いと感じた。その意味からは、イザールフィルハーモニーはそれほど耳を澄まさせる音響の会場ではあるのだが、同時に予想していたように反射が薄く、コントラバスなどの存在感には薄く、それ程の音楽芸術的なスタイルの伝統化はされていない。(続く



参照:
指揮者の職人的技量 2022-02-05 | 文化一般
禍難の時を踏み越えて 2022-03-31 | アウトドーア・環境
コメント (4)
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