ミュンヘンの「ローエングリン」の指揮からロート氏が下りた。漸くかという感じである。幸か不幸か、同時上演の「ヘンゼルとグレーテル」も18日に最終公演が終わっていて、代わりにティテュ―ス・エンゲルが入らない。バイロイトではなくダルムシュタットでカールオルフ作「寺子屋」を初演指揮したトリンクスが振る。ずっとバックアップに入っていたのかどうかは知らないが無難な人選であろう。シュトッツガルトの音楽監督マイスターが振るような軽めのヴァ―クナーが振れる者は誰が入ってもロート指揮よりは安定するかもしれない。
初日のストリーミングを見ていての感想とバルコンから近くで指揮管弦楽を観ながら、真っ直ぐの位置で歌手の声を聴いていても、その印象は殆ど変わらなかった。それで先ずは、ダイナミックスレンジは思っていたように上に伸びていたが、しかしピアノはそれ程丁寧な仕事ではなかった。
ロート指揮が目指していたのは自身で読み込んだそのヴァ―クナーの響きであって、中期の作品では下手するとごうごうと鳴るだけの如何にも二三流の小屋の音になる所が流石にオペラの殿堂ではそうはならないのだが、BR放送の批評の様に全く意味のない音響となっていた。
ご本人は尊敬するフランス人のピエール・ブーレーズ指揮の様な成功を望んでいたのだろうが、やはりはそこ迄精緻に指揮を出来る人とはなにもかも違う。タイトルロールを歌うフォークトは風邪で降りてしまったようなのだが代わりに入ったテノールは立っているだけ笑いを誘うデブでしかなかった。それ以前に悪役の代わりに入っていた喜劇の上手いガントナーが主役の座を受け持った。また当初キャスティングされていたマルリス・ペーターセンに代わって入っていたオーストラムも声が出るだけでそれ以上では全くなかった。ロシア語でのグレゴーリアンに代わったステヒナ程度の代役。声はあってもそこ迄の音楽表現の可能な程度の歌手ではない。
それで何が明らかになったかというと、ガントナー自体は手慣れた歌手であって更に飛び入りしたので好きな様に歌わせて貰っていた。芝居も抜群で、歌唱もきっちりと纏めてくる。何よりもこの人からのみ真面な独語歌唱が会場に響いた。他のバスの北欧のカーレスというバスではお話しにならない。その点はメゾ転向へと動いているカムぺの歌はそれなりの説得力はあった。若いショイエンの歌も研修生上がり程度だった。
つまり、如何に指揮者がいい加減なアーティキュレーションで振っているかであって、ガントナーの歌を潰す程では勿論ないのだが、どうしても従属的につけていくことだけになる。そもそもその指揮が歌につけているというよりも楽団が幾らでも出来るというに過ぎない。抜群の座付き管弦楽団で、歴史的ではないかと思われる水準になってきている。来年もほぼ同じ面子で二回程オペルンフェストシュピーレで上演されるが、それ以上のモノとはならないであろう。
流石にリベラルなミュンヘンでも一幕演奏終了と同時にブーも聴こえた。指揮に対するものだと初日のそれからも感じた。2014年にペトレンコがバイロイトで指揮した時にも下手なイントネーションではブーを飛ばしてやろうと思っていたが、そうはならなかったのだった。ヴァ―クナーは叙唱があろうがなかろうが語りが重要になるので、真面な指揮が出来ない人が振るととんでもないことになる。(続く)
参照:
眠くなる「ローエングリン」 2022-12-17 | 雑感
待ってました!日本一!成田屋! 2010-02-07 | 文化一般
初日のストリーミングを見ていての感想とバルコンから近くで指揮管弦楽を観ながら、真っ直ぐの位置で歌手の声を聴いていても、その印象は殆ど変わらなかった。それで先ずは、ダイナミックスレンジは思っていたように上に伸びていたが、しかしピアノはそれ程丁寧な仕事ではなかった。
ロート指揮が目指していたのは自身で読み込んだそのヴァ―クナーの響きであって、中期の作品では下手するとごうごうと鳴るだけの如何にも二三流の小屋の音になる所が流石にオペラの殿堂ではそうはならないのだが、BR放送の批評の様に全く意味のない音響となっていた。
ご本人は尊敬するフランス人のピエール・ブーレーズ指揮の様な成功を望んでいたのだろうが、やはりはそこ迄精緻に指揮を出来る人とはなにもかも違う。タイトルロールを歌うフォークトは風邪で降りてしまったようなのだが代わりに入ったテノールは立っているだけ笑いを誘うデブでしかなかった。それ以前に悪役の代わりに入っていた喜劇の上手いガントナーが主役の座を受け持った。また当初キャスティングされていたマルリス・ペーターセンに代わって入っていたオーストラムも声が出るだけでそれ以上では全くなかった。ロシア語でのグレゴーリアンに代わったステヒナ程度の代役。声はあってもそこ迄の音楽表現の可能な程度の歌手ではない。
それで何が明らかになったかというと、ガントナー自体は手慣れた歌手であって更に飛び入りしたので好きな様に歌わせて貰っていた。芝居も抜群で、歌唱もきっちりと纏めてくる。何よりもこの人からのみ真面な独語歌唱が会場に響いた。他のバスの北欧のカーレスというバスではお話しにならない。その点はメゾ転向へと動いているカムぺの歌はそれなりの説得力はあった。若いショイエンの歌も研修生上がり程度だった。
つまり、如何に指揮者がいい加減なアーティキュレーションで振っているかであって、ガントナーの歌を潰す程では勿論ないのだが、どうしても従属的につけていくことだけになる。そもそもその指揮が歌につけているというよりも楽団が幾らでも出来るというに過ぎない。抜群の座付き管弦楽団で、歴史的ではないかと思われる水準になってきている。来年もほぼ同じ面子で二回程オペルンフェストシュピーレで上演されるが、それ以上のモノとはならないであろう。
流石にリベラルなミュンヘンでも一幕演奏終了と同時にブーも聴こえた。指揮に対するものだと初日のそれからも感じた。2014年にペトレンコがバイロイトで指揮した時にも下手なイントネーションではブーを飛ばしてやろうと思っていたが、そうはならなかったのだった。ヴァ―クナーは叙唱があろうがなかろうが語りが重要になるので、真面な指揮が出来ない人が振るととんでもないことになる。(続く)
参照:
眠くなる「ローエングリン」 2022-12-17 | 雑感
待ってました!日本一!成田屋! 2010-02-07 | 文化一般