Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

アルペンスキー競技の乖離

2004-12-18 | アウトドーア・環境
恒例のスキーサーカスが今年も欧州各地を回わる。雪不足ゆえ、直前の開催地の変更なども十分に考えられる。何れにせよここ数年のカービンスキー技術の成熟でますますアクロバット化している印象がある。特に女子選手の死亡が相次ぐ傾向は、続いており危惧される。週末三日間の競技の生中継は、最新のスキー技術を伝える。それらの凍った滝のような滑降のコースを辿ったり、スラロームのコースを滑ったりすると、生で競技を観ているときよりも一般スキーヤーとの技術レベルの違いを如実に感じることが出来る。名選手を輩出する村の十歳未満の少年少女チームと遭遇して其の滑りのスピードと安定感に驚愕したことがある。そうして更に十年間修練続けても、このサーカスの一員になるのは極一部の世界のエリートなのである。その結果として不慮の事故で若い命を落とすとなるとなんとも痛ましい。

スキー用具メーカーの見世物興行としての競技の性格は今後も変わらないであろう。しかし余りに一般から遠く離れ去った競技の世界とは別に、スキーの歴史を遡ってレトロ感覚で滑りを楽しむ人も増えてきた。エレガントなテレマークスキーの競技も復活した。革靴に背広を着て滑るのも楽しいだろう。従来のシールをつける山スキーに加え、最新のフリーライダースキーを使って深雪とは限らずオフピステを楽しむ自然回帰派や冒険派も増えてきている。そこはスノーボーダーとの共通領域でもある。更に谷へ向かって雪化粧した林の中を降りていくと、ノルディックスキーヤーと出会う。

木で作ったカービンスキーも発売されている。特に竹の其れは、限定発売で好事家向けに通常の五本分程の価格で提供される。滑りは、軟雪では良いが硬雪では柔らか過ぎるらしい。他数社からレトロタイプの板が選べる。商品の量産品からの差別化やスキーの多様化がこのような市場を生んでいる。同時に競技スキーとの乖離が加速しているという証明でもある。
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スイスの蒼い空の下で

2004-12-17 | 歴史・時事


初スキーをした。例年より一月ほど遅れた。理由は雪不足である。海抜2000メートルまでの景観は、春か秋かと見間違うほどに地表や枯れた草木が顔を出している。懸垂氷河も雪が乗っていないのでその構造が手に取るように分かる。其の氷河も年々温暖化で小さくなっているというが、思いのほかコンパクトな印象を与える。ここ中央スイスの屋根の上から眺めるとこの国土の全方位が見渡せる。白く輝く峰から黒く凍りつく峰へと屏風が幾重にも立ちはだかる。その間には幾多の谷が其々の営みの特色を深く刻み込んでいる。

海抜3000メートル上の世界から金融の町チューリッヒへ向かうと、一転霧中に上下感を喪失するかのように無重量感の深淵に落ち込んでしまう。ナショナルバンクの一角で思いがけず霧の実態の片鱗を垣間見る。スイスの銀行の口座の秘密は夙に有名で今更繰り返すことはあるまい。直接民主性を強く残すこの民主主義のメッカでは、外国からの圧力もあり真面目に何時も議論されている問題である。そして経済的基盤を維持するためにこの政策は引き続き固辞される。此処の国の法律に直接抵触しない限りは秘密厳守である。こうして国際テロリストの資金から、公的資金の流用、脱税した資金までありとあらゆる全世界で違法な黒い金が此処に蓄えられる。そして金融商品においては此処の国では殆んど詐欺罪というものは成立しないらしい。不用意に商品を購入したものが制裁される。つまりどのような手立てであろうがいったん此処へ振り込まれた資金は、然るべき外国からの権利請求者に容易に返還されない仕組みになっている。さらに富裕層の誘致のために特別税制が引かれ積極的な集金体制が整っている。

氷河から町へと降りるとき地元の少年スキーレースチームのお母さんとゴンドラに乗り合わせた。子供たちだけのゴンドラから追放されたお母さんから、季節違いの気候やスキーチームのことなど土地情報が聞けた。さらに最近厳しくなった交通法規違反罰則の事に話が及ぶと、「其の高額な罰則金は確かにやり過ぎだが、外国の運転手を含めて余りに無配慮な運転手がいるので致し方ない。」という二律背反する意見が呉越同舟するように中立な視点からの容認が示される。此処の民主主義の議論の仕方を垣間見せる。そして最近目に付くスイスのスキー場での大人のヘルメット着用について訊ねてみる。「着用が特に積極的に勧められているわけではないが、最近増加の無配慮なスキーヤーやボーダーの起こす事故に対抗した防衛処置で着用は間違いなく増える傾向にある。」と明快な防衛意識を物語る。

貧しさゆえ、傭兵として敵同士として殺傷の経験もあるスイス人の思考方法や政策は歴史の中で培われて容易には変化しない。世界の金融のブラックホールは今後も其の暗く底知れぬ淵を開き続ける。隣国の政治資金運用のスキャンダルだけでなく、発展途上国援助からのマネーロンダリングなどの多くは受注などの其の企業の国際商業活動と表裏一体をなしている。其れへの対策は、受注における国際経済競争の中での重要なルールの一つでもある。マネーロンダリングは決して公的資金の流用の問題だけでなく、こうした脱税という公的資金の着服である事だけは肝に銘じなければ為らない。ブラックホールの場所はハッキリしているので其処への金の流れを監視する義務は外界にあり其れを怠ることは許されない。
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スイススキー事情

2004-12-16 | アウトドーア・環境
2004 02/08&10 編集

スイスは言語地域毎にそれぞれの隣国境界地域と文化を分かつ。葡萄の種も同じく、その分多様である。各地域共通の特徴は、急傾斜地で収穫されるため量が少ない事、労働集約型で海外での競争力は皆無である事。因って、ドイツの赤ワイン以上に海外へ出荷される事はない。値段や保護政策を度外視すれば、質は一様に高く、機会があれば賞味する価値あり。一般消費品の白ワイン・フェンダンなどは、アフタースキーのフォンデュの食間や登山後の冷えた喉越しが忘れられなくなる。赤もシオンの谷のガメやドールに限らずジュラ山系のノイシャテルやテッシンのワインは国境の外の地域のそれを越えた品質だ。

ファンダン/Fendant

レマン湖からビール湖、ヴァリス地方にかけて植生するシャセラ種という葡萄から出来る。特にレマン湖からシオンまでの谷のものがファンダンとして有名。きゅっと冷やして盃大のショットグラスで口中に投げ込むのが痛快。ぐっと暖まった部屋ではじめると食欲も増進。アプレスキーの始まりだ。

アプレスキー

スキーといえば、イエーガテー/Jaegerteeとグリューヴァイン/Gluehwein。前者は赤ワインとジュースと果実系シュナップスに砂糖とニッキとグローブを加え紅茶で割ったもの、後者は前者の原形でお茶の代わりにお湯を、シュナップスの代わりに柑橘類の皮を添える。これで下山準備完了。それでも体温が上がらなければ、シュナップス。一汗かいた後は、やはりビール。それも炭酸の多く入ったヴァイツェンビーアのクリスタルに限る。アフタースポーツの0.5Lグラス二杯、一リットルの消費は当たり前だ。
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フィガロの耳寄りな話

2004-12-15 | 


ワイン街道筋の髪結い床へ行きました。そこでは流石に地方紙に載るか載らないかの耳寄りの話が何時も聞けます。しかしここのところは、「皆、冬眠している。」ということで特に目新しいことはなかったようです。

普通、耳寄りといえば情報です。耳年増と云えば少し意味は違いますが、その伝えられる情報で自らが体験していないことを恰も経験者のように語るのが若年寄の特徴です。其の若年寄も何時か知らぬうちに耳の感度が落ちてきます。生理学的な観察です。眼鏡屋さんなどは、お客さんが年齢四十歳を過ぎていたら先ず老眼を疑うといいます。それと同じように耳も老化が進んでいます。仲間内で試してみますと、高音の高次倍音成分より上の領域では年齢差が顕著です。20BIT録音CDの視聴でも本当に差異が出ます。個人差や職業差も大きいですが年齢が上がれば、高い音の領域の「浮遊する響き」が聞こえなくなります。視力ほど日常生活に支障を帰さないので一般には問題となりませんが、音を聞く職業の方は自覚が必要です。ご本人が気がつくことは殆んどありません。

昔日の床屋さんと違い現在の床屋さんは、髭をあたる事が禁止されています。昔日のフィガロが疣・出来物取りの医療行為擬きから、挙句は便利屋までした時代とは違います。現在のフィガロは、耳の中も剃らないので多くの欧州人は耳から長い毛をふさふさと食み出させる事となります。自分でお手入れをする男性はどれぐらいいるのでしょうか。例えば大音楽家先生は、東京公演・講演の際にそこの床屋さんで耳の穴を穿らせて見るのも良いのではないでしょうか。そこではまだ可能と思います。きっと若い人に聞こえている音が少しは聞こえるようになるでしょう。

老化とは、機能の低下だけを云うのではなくて、それに気がつかずに長年の経験と其の低下した感覚のずれを修正できずに間違った見解に至ることを云うのですね。衰えを自覚して、間違いを認めることは、どんなに勇気の要ることでしょう。それでも経験豊富な老人は、何とか大きく道を逸れずに進んで行けるだけの知恵を持っています。それでは、体験の欠ける若年寄達は大丈夫なのでしょうか。そして私たちは、耳寄りな話にはいつも虚心坦懐に耳を傾けたいと思います。
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ドイツワイン三昧 第二話

2004-12-14 | ワイン
2004年1月編集

名前
ブュッルクリン・ヴォルフ

場所
ヴァッヘンハイム

特記
現在の醸造親方は、代々当家に勤め四世代目である。ワイン栽培に適さないとされていた砂地の土壌で偉大な業績をあげる。ローマ人が栽培をはじめた粘土質の土壌を含めた独有数の名ワイン畑から産するワインは、近代的且つ伝統的醸造技術と合わせて独ワインの基準を示す。

履行日時
2003年11月22日

試飲ワイン
2001年ヴァッヘンハイマー・レッヒベヒェルのリースリング辛口、
2002年ヴァッヘンハイマー・レッヒベヒェルのリースリング辛口、
2002年ヴァッヘンハイマー・ゲリュンペルのリースリング辛口、
2001年ヴァッヘンハイマー・ゲリュンペルは売り切れ。

感想
2001年のリースリングは、軽やかに湧き出る香りに内容の豊富さを予測出来る。口内での広がりも南国のミックスフルーツを彷彿させる甘酸っぱさが新鮮。酸も高く糖も辛口なのだが、りんご酸の比率が全体の印象を高めるようだ。後口は、2002年を含む通常のレッヒベヒェルと違いさわやかで糖の残留感が全く無い。有名なゲリュンペルの横に位置するこの畑こそが当家の独占なのだが、通常は辛口愛好家達に上の理由で忘れ去れている。それが2001年の場合、通常では得られない繊細な清涼感にまで達している。2002年のゲリュンペルは、以前に採算度外視で試みられた「長期醸造」の傾向に仕上げられた。酵母の匂いなどが気になる愛好家がいるかもしれないがその分丸みがあり支持も得られよう。

総論
上の傾向はモーゼルなどのワインでも同様なので、それをもって2001年ヴィンテージとして理解していただきたい。2001年のゲリュンペルを試飲できなかったのは因って至極残念である。辛口で純粋種の強く、繊細の極が想像出来るのだ。それに代わり2002年では全く違う傾向に仕上げられたのは、この醸造親方の実力を示す。両砂地土壌は、養分が下へと流されるためボディー感よりも不純感の無いシャンパーニュのような清潔感と沸き上がる香りが特徴である。辛口でも5、6年は色褪せしない底力はいつもながら驚きである。
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我楽多のリースリング

2004-12-13 | ワイン
高級リースリングワインを開ける。2002年の辛口なので、人間ならば成人したところと云えるだろうか。名門出の育ちの良さとその身に着けた躾と物腰が其の年齢よりも遥かに成熟を感じさせる。色と云い、香りと云い決して侮れない。其の色は、フィルンのアウスレーゼのような銀杏の黄色の様に鈍く輝く。その香りは、衣服に這う生活臭の下に仄かなフェロモンが漂う様に奥深い。酵母の使い方に特徴があると以前に書いたが、それぞれが強く主張する各々の味の要素を均衡させる巧みに感心させられる。それは、四代に亘り同じワイン醸造蔵に仕えた、この職人の家系の秘儀とは云えないだろうか。独立せずに永く歴代で奉公するという封建時代でもない今日、極々稀な例だろう。

これは、毎日部屋から望める有名な斜面ゲリュンペル(我楽多)から収穫されたワインとしては決して過去十年間の上位を狙えない。しかし砂岩質の本来はワイン栽培に適さないこの斜面の果実から粋を集めて醸造されたワインは、ラインガウなどのより条件の整った一級の斜面のワインと十分に比較できるだけの個性を有する。ワイン蔵を今週にでも見学する約束を四代目の片腕のマイスターとした。現在は、地下蔵で醸造中の樽の澱抜きをしているらしい。見学自体は全然珍しくはないが、何かの秘儀を目の辺りに出来るかもしれないという密かな期待に、小学校の遠足のように今から興奮している。
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私に適ったガラテアちゃん

2004-12-12 | 


ギリシャ神話は、登場人物の名前だけで煩わしいがさらに其の多くが正体不明でなかなかそのお互いの人間模様?にまで理解は及ばない。そこで多くのルネッサンス以降の文学や芸術作品を通して少しでも神々に近づくことが出来る。それでも、羊飼いなど我々に親しみやすい存在はやはり人気がある。

しかし読者によっては神々の視点を対象化すること無しに自分のそれと同化することもある。二十世紀のモリエールと評されたバーナード・ショウのコメディー「ピグマリオン」もしくはミュージカル「マイ・フェアー・レディー」のヒギンズ教授への同化はこの典型的な例だろう。キプロス王ピグマリオンは理想の女性をガラテアと名付けて象牙像に具象化した。このコメディーでは、ガラテアこと花売り娘リザを思い通り教育するピグマリオンがこの言語学教授となる。識者には余り評判の良くない二度目の映画化のオードリー・ヘップバーンなどを思い出しつつ粗筋を読んで、今更ながらこの原文を早速注文した。何れにせよ聞けばコックニーとキングスイングリッシュの違いは分かっても、読んでも其の風刺の面白さまで十分に分からないだろう。

自分では気がつかなかったのだが、欧州言語を日常語として使うようになってから、口元が美しくなったといわれ、歯科衛生士さんにまで顎の形をお褒め頂いくようになった。知らぬ間に、以前は未発達だった口元の括約筋が明らかに発達していたのである。ケンブリッジで学んだ中産階級出身のある英国女性が教えてくれた事がある。彼女は、上流階級喋りのためにと口を横へ引いて実演をして見せてくれた。英国における英語は、今でも階級そのものであるようだ。

ヒギンズ教授は、花売り娘を上流階級の令嬢に仕立てまんまと賭けに勝った。彼の学識と経験を総動員して、其の理性と智恵で持って目標を達成した。しかし彼自身は、決して彼の象牙の塔からは一歩も踏み出すことが出来ない。独身男のエゴイズムとしての共感も多い反面、ここに描かれたエゴイズムは90年以上経った今も、我々男たちにも我々の社会にも同様に、多くを能弁に物語る。バーナード・ショウは、1925年度のノーベル文学賞を獲得している。

ギリシャ神話の方では、完璧な美に輝く象牙のガラテアは、アフロディーテによって生命を与えられる。主のピグマリオンは帰宅すると、何時もの場所に正しく鎮座しているはずの愛する象牙の像が歩き回っていて驚いて跪いてしまう。今度はガラテアが彼を起こし上げる。後に二人は結ばれ子宝に恵まれ、ピグマリオンは長生きをしたという。ピグマリオンがアフロディーテに本当に願ったものは決してそのもの生けるガラテアではなかったという。
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ケープタウンの白ワイン

2004-12-11 | ワイン


今日の料理ワインは、南アフリカ共和国ケープタウン近くの白ワインである。チェニン・ブランという代表的な葡萄種である。2.99ユーロはキッチン用としての上限に近いが、ここドイツワイン街道では白ワインは赤ワインよりも随分と高価である。地元のワインを保護するために配慮されているのかもしれない。欧州とは反対側の緯度に位置するアフリカ大陸先端の樫の森に包まれるこの地域のワインは定評がある。しかし決して安くないので余り試す機会はない。

さてこのワインは辛口に作られているが、その葡萄種の個性はシャドネーのシャブリなどに共通する強いアロマが支配しているようである。はっかのような味が最後に残るのは良いが、其の前の蜂蜜の灰汁のような人工甘味料のような味が不愉快である。酸・アルコールとのバランスが取れていたならばきっと素晴らしいのだろう。

この味に英国の白ワインを重ね合わせる事も出来るが、ワイナリーを経営するのはオランダ系移民も多いと想像する。アパルトヘイト(人種隔離政策)時代のことを思い出した。その当時から彼の地は、欧州を越えるエレガントな文化風土を保持していて有名だった。しかし政治的情勢は混迷していた。諸外国がアパルトヘイト廃絶に向けて制裁に踏み切っていた時期である。そんなときに南半球のこの地から航空書簡を受け取った。何気なしに裏返して見ると、封が一度開けられて再び閉められた痕跡に気がついた。検閲というものを初めて目の辺りにした。全く政治的な発言をしない女性からのものだったので尚の事恐ろしいと思った。

その後時代は急激に大きく移り変わり、マンデラ氏が現役のころそこからの医学者にマンハイムのドイツ語学校で出会った。大統領を尊敬している同部族の彼はある日こんなことを言った。「パスポートを絶えず携帯しているけど失くしたらどうしよう。」。それに対して「僕はいつも運転免許書だけでパスは持っていないけれど、」と答えると、彼は「君、それは直ぐに逮捕されるけど、大丈夫?」と親身に心配してくれた。

その後、老後を南半球の極楽で過ごすために彼の地へと旅たった定年退職者や、同地で店を開いている英国系の人や数多くの人から現地の様子を伝え聞いた。それでも検閲の驚愕やあの医学者の不安が余りにも強く印象に残っている。未だに機会はないが、いつか是非訪れてみたいと思っている。
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グローバリズムの領域侵犯の危険

2004-12-10 | 歴史・時事


ドイツの製品テスト機関が創立40年を迎えた。この組織は、消費者保護を目的に中立的なテスターとして1964年に連邦議会で承認された。雑誌の発売等による自主生計は絶えず試みられたが未だ嘗て其の目標には到達していない。それどころか近年、公的資金の援助削減により広告収入による自立を求められたが、辛うじて緑の党の後押しで中立性を保つことが出来た。商品を自力で購買するなどの政策に経済的な困難が伴うことは容易に理解できる。

そうして今この組織は製品のテストから大きく踏み出して、製品の製造過程から発売までの生産者の社会的義務を査定していく方向にある。たとえば極東での繊維製品の製造過程の審査が挙げられる。綿花などの原材料生産時の自然環境への配慮から製造工程の公害、生産労働者の健康や労働条件にまで踏み込んでいく事になる。十分な資金の獲得のために他の欧州諸国の組織と連携する。この問題は此処十年ほどマスコミで頻繁に取り上げられるようになった。毛皮への非難が噴出し一般社会問題化したあたりがそもそも始まりであったのだろう。其の反面、社会的優良製品を推進する大手販売会社が現在経営危機に陥っていることでその優良商品の流通や需要が疑問視される。

消費者が生産者をそして遠くの生産環境までをコントロールすることが目標となる。政治学的に見ると、発展途上国へのソフト面での援助ということになるのだろう。特に西欧社会主義の学究分野ではこの思想は不変で根強い。この問題が政治のみならず文化の領域に大きく関わってくる。これはグローバリズムとローカリズムと云う欧州共同体の自らの課題でもある。
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麻痺に遠のく外界

2004-12-09 | その他アルコール


エルベ川が北海へと流れ込む小さな港町である。襟巻きをして厚いコートを着て、宮殿とは名ばかりの赤レンガの公民館へと通じる小道を入って行った。この町の小さなクリスマス市が開かれている。お馴染みの屋台や遊具が、薄くそいだ木肌を引き詰めた地面に所狭しと並ぶ。サウナのようなこのアロマが此処彼処へと放射している。公民館のレストランが玄関横の半地下に付随している。既に其の時、辺りに微かに漂っていたのは、そこのシェフが勧める屋台売りのサーモンフィレグリルの煙であった。それを注文して、ポケットから財布を出して焼き上がるのを待つ。漸くしてこれを受け取って、使い捨ての皿に乗せて止まり木へと運ぶ。出来る限り冷えないうちにサーモンピンクのそれをつつき始める。正面で親父が注ぎながら飲む美味そうなアルト・ビーアを見つけて、それを注文する。「持って行くから、ゆっくり食べてよ。」と親父がわざわざビールを運んで来てくれる。この上面発酵のアルト・ビーアは、初めて飲むこの地方のブランドだ。黒ビール独特の嫌な黒飴味がなく、その薄い色の様に殆んどケェリュチュ・ビーアの感覚に近い。それだけにこのアルト・ビーアの香ばしさは格別だ。正面玄関の階段の上ではスピーカーから音楽が鳴り、中の催し物のために人が頻繁に出入りしている。暫く様子を伺っていると、人々の表情や話し声がどこか遠くへと実体感を失っていく。建物や情景は映画のシーンのような視覚連想を誘いながらも明白な像を結んでいる。言葉を交わした親父や娘も親密感をもって間近に接している。しかしだんだんと僅か数メートル先を行く人々の存在感も薄れていく。氷点下で凍える時や冷房の麻痺感覚にも似て、厚着で皮膚感覚が鈍る。他の感覚にも軽い麻痺が起こり、外界がますます遠退いていく。



参照:
市長ズミット博士の港から [ 歴史・時事 ] / 2004-12-07
北海の冬の干潟 [ アウトドーア・環境 ] / 2004-12-08
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北海の冬の干潟

2004-12-08 | アウトドーア・環境
大きなホテルの物寂れた駐車スペースで車を離れる。20メートル程先の浜へと真っ直ぐに視界が開けると、潮風が西風に乗って吹き付けてくる。それは飛沫が舞い上がったかと思うほどに塩が強く凝縮している。引き潮の干潟は遥かに続いて、海水は遠く見えない。塩水の浮き出る扇形に広がる砂地は、折からの雲の隙間に指す光線をぎざぎざに跳ね返す。熊手で掻いたような波の凋衰の爪痕が、無限のパターンを作っている。生息に好都合な貝や蟹やふなむし類は鳥の攻撃に備えて身を隠す。チュチュウチュと音がするので其の存在が確認できるという。再び道路へと戻り、錆が所々浮かぶ閉鎖中のホテルを回り込むと、若いペアーが靴を履き替えている。ブレーメンから来たらしい。ゴム長靴は持っているが、引き潮の時間は過ぎたので今日は沖には出ないという。沖の島に着いてから満ち潮になったなら帰りに馬車を使うしかないらしい。シーズンオフの閑静な浜を楽しむということだ。



参照:
市長ズミット博士の港から [ 歴史・時事 ] / 2004-12-07
麻痺に遠のく外界 [ その他アルコール ] / 2004-12-09
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市長ズミット博士の港から

2004-12-07 | 歴史・時事
ズミットは、低地ドイツ語でシュミット氏と同じ名前のようだ。書いてあるようにそのまま発音することもあれば名前の一般化をして後のように発音することもあるようだ。この濁った響きも低地ドイツ語の特徴かもしれない。勿論この名前は、オランダを越えてスミスなどの英語名に近づく。近隣の文化圏にも地理的に近い。しかしこの辺の住人は思いのほか小柄で、それどころか金髪碧眼のスカンジナ風の特徴を持つ人を殆んど見かけない。

午前中、ホテルの朝食前に町をふらついた。思いかけず近くに帆船や展示船を並べた港湾があり、そこに潜水艦を見つけた。第二次世界大戦末期に最後の潜水艦が日本へと向けて旅立った。注文されたウランを乗せて、原爆開発中の日本帝国陸軍に届けるためであった。途中ナチスドイツは全面降伏をすることになり、潜水艦も降伏して全てサンフランシスコへと厳重に護送された。それがそのまま広島原爆になったということである。

河岸へ向かう途上何人かの高年齢者に話しかけてみる。先の大戦の潜水艦基地の話になると急に口が塞がる。「見学できるけど、私はこんなものは恐ろしくて嫌だね。」と一人の年配の婦人は、潜水艦を指差す。産業構造の変化で慢性の造船不況を抱えたこの地域は、今も25%の失業率という。先の大戦で教会の尖塔以外は灰となったこの北の町の濁った響きが耳に残った。



参照:
北海の冬の干潟 [ アウトドーア・環境 ] / 2004-12-08
麻痺に遠のく外界 [ その他アルコール ] / 2004-12-09
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聖ニコラウスとサンタクロース

2004-12-06 | 
今日は、聖ニコラウスの日である。東方教会などでは最も重要な聖人らしい。しかしニコラウスとサンタクロースの関係が甚だややこしい。共通しているのは、子供たちにご褒美を持ってきてくれることのようだ。前者の歴史的資料も錯綜している。後者の出所はハッキリしない。

前者の服装は、白か黒の裾の長い法衣にその帽子。大抵は沢山の施し物を袋一杯に背に担いだお供を連れている。手には悪さをした子供たちを打つ鞭を持っているかどうかもハッキリしない。子供たちは、靴を出してご褒美を待つという場合もある。ただし現状ではあまり大きな望みはなく、もしかするとナッツとかチョコレートなどの小物が頂ける。

後者の服装も、英米や北欧説の赤の派手な衣装から、黒色の法衣まであるようだ。オランダ人が米国に伝えたとなるとサンタクロースは聖ニコラウス本人となるが、セイント・クリスマス説もある。この場合、聖ニコラウスのお供が粗三週間の期間を置いて再び登場することになる。そして手には鞭を持ち悪い子供たちを戒める。良い子たちは、吊ったソックスの中に願いをした贈り物を受け取ることが出来る。しかしキリストの子供として勧進帳なくしてご褒美を受け取ることもある。これは新教のルターが、聖人ニコラウスを邪魔にした恩恵のようである。

この二人の関係は、調べるほどますます分からなくなる。後者のフィンランド説が最もスッキリしていて支持を得た所以である。しかし英米の煙突進入の説を採ると、サンタクロースは赤のマントでなく白のマントが黒くなったと考える方が理に適う。
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ハーブティーのミックス

2004-12-04 | 料理
ライキョウのハーブティーとぺパーミントティーを混ぜると随分と親しみやすくなる。前者だけでは詰らない味で、後者だけでははっか味しかしないからだ。これは、この夏北チロルのオッツタールで一週間過ごした時に同行者の一人から教わった。彼は、東西分断直後に西側へ抜けたというザクセン人である。一般にザクセン人からは、イデオロギーを超えてある種の主義主張の匂いがすることが多い。カスパー・D・フリードリッヒのロマンチックな目が描いたゼクシシェ・シュヴァイツ(ザクセンのスイス)の岩山に立つ霧の上の放浪人の絵は余りに有名だ。そこで今でも行われている裸足のフリークライミングなども自然が生んだ習慣とは一概に云えない。言葉の訛りだけでなく、そこの文化的・歴史的気候風土は著しく違う。さて我らがザクセン人は、一行の最年長で菜食主義者である。アルコールもコーヒー、紅茶類も飲まない。だからハーブティーは各種ミックスを楽しむ。朝食にはシリアルを食べ、我々が酒と肉を貪るのを尻目に夕食もヌードル等で済ます。それでも我隊において最も健脚とあって可愛げがない。流石に最終日は疲れを覗かせ安心したが、食事の質と量の入力を考えると出力の違いに唖然とさせられる。年齢もあるが痩せず肥らずの中肉中背が燃焼効率の良さを物語っていた。

そして今男性専門医の書物を開くと、肉食の効率について書いてある。栄養素から見た議論は承知のことだが、そこに挙げられる効率良い接収量は思いのほか小さい。蛋白源として週一度の脂肪分の少ない肉で十分という。もちろん脂肪は魚などの不飽和のものを勧める。BSE騒動で牛肉を控えていた時期は、やはり全体の食肉の消費を抑えていたが其の当時の水準でもまだ多すぎることになる。しかし食肉を抑えて変化に富んだ食生活をすることは意外に難しい。

水分の補給についての記載は、さらに現実と離れる。コーヒー、紅茶の効率の悪さに触れている。そしてミネラル水よりも水道の水を勧める。結局ハーブティーの消費量を増やすとなると、種類と変化を楽しみたい。其の解決策として上のミックスがある。この地元プファルツの医者からは、作為的な主張を全く見出すことは出来ない。しかし結果として、またしてもザクセンの菜食主義者に従うかと思うと、大人に話しかけられた児童のような表情を残した彼の甲高くも少し押し殺した笑いが目に浮かぶのである。
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デューラーの兎とボイスの兎

2004-12-03 | 文化一般
2004 08/11 編集

ヨゼフ・ボイスの兎を上手く使ったのが映画監督シュリンゲンジフの「ヴァーグナー・パルシファル」の新演出だ。ボイスの「金の兎と太陽」はちょくちょくと方々で目にする。東洋やインカにおける「月の兎」を髣髴させる。更に有名なのは、60年代アナーキストグループ「フルクサス」当時に、死んだ兎を抱えての「この兎に絵を説明する」というパフォ-マンスのようだ。4月にここの「野兎/Der Feldhase」の項に記したが、兎には中世から伝統的にイースターやクリスマスでの「繁殖」、「臆病」などのイメージがある。しかし検めてデューラーの1502年の署名の入った「兎」を見ると、一般的なイメージといわれているものとも若干違う。詳細に描かれた兎は、そこでは外界を捉える内なる世界を有している。

ボイスがデューラーをどのように捉えたかは知らないが、今回の演出でこの兎は頻繁に登場する。毛皮の衣装になったり、ある時は舞台上の意匠で、更に写真であったり動画であったりする。どれも即物的に示される、大写しの毛肌に黒点をハエのように走らせたり、大写しで波打つ毛並みをズームアウトしていくなどして、「この兎の存在」を利用する。この兎によって観念連想と統一を得るのみならず、更に多くの素材を投入する。ここで前々日に偶々ふれた相撲廻し様な腰蓑姿のヴューデューの原母性イメージの半裸体も、ミクロスコープで覗いた細胞状のミニマルパターンの動き同様、生物系の素材として分類できる。それらは舞台と映像の双方で登場する。人間の映像も生物系とは別途に加わる。荒地の映像と北欧の漁村風景のような自然描写の素材も使用される。音楽的な素材に比べ多すぎる視覚素材は、演出家本人が今後音楽に依存しない映像作品化も発言しているので合点がいく。

映画においても最近は、本歌取りやパロディー描写が更に増えたと言う。なるほど半世紀前に比較すると元となる本歌も増えている。其の元の映像自体がパロディーである可能性も高い。兎ならず鼠算式に増える。生物界同様、文化も増殖して淘汰されるというのか。ステレオタイプの表現の増大は、更に小分けされたパターンを生み、ミニマル化して、最後にはヴードュー教の恰も全身が麻痺し幻覚を見るような呪術のように働く。情報量の過多と麻痺である。反対にそれぞれの連関を出来る限り断ち切り素材を厳選することで、非連続を生み出すことが出来る。今回の宇宙ロケット打ち上げ射精ギャグが、昨年からの「オランダ人」演出での「エルム街のフレディーの指」とは一味違う効果を挙げれたのかは甚だ疑問である。それでも情報構築による大きな広がりと即物的な視線によって、映像による劇場世界の構築には十分成功した。デューラーの兎の形而上の内側から形而下の外側への、非連続の空間を上へ下へのトランスポーションの欠如が、何よりも惜しまれた。



参照:伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
コメント (19)
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