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BLOGという新しいシステムをコムニケーション媒体として使っている。新しいものは何時でも戸惑いと疑心をもって受け止められる。コミュニケーションとなると尚更である。社会の最大公約数的な考え方がその活用に大きく反映する。
昨日50年前にバーデン・バーデンで逝去した指揮者フルトヴェングラーの記念の会が当地で開かれた。20世紀初頭にキャリアを積み大管弦楽団文化の円熟期を導いた。既に多くの重要な伝統ある組織に君臨していた大指揮者は、ナチスに第三帝国の音楽的象徴として作曲家指揮者のR.シュトラウスとともに奉り立てられる。しかし其の存在自体が第三帝国を支えた彼らは、若い世代の才能が第三帝国でキャリアを積みナチスに協力しそれを利用したのとは事情が違う。特にフルトヴェングラーの場合は、友人ヒンデミットのオペラの上演中止や追放を巡って、またはユダヤ人音楽家の迫害に対して公に抗議をした。そのような抵抗に関わらず文化的に微妙な問題を残した。それは、彼を遅くまで第三帝国に留まらした理由として「大管弦楽団の伝統の保護」と「文化的同一性を保持する聴衆の存在」を挙げた事である。特に後者は、戦後の非ナチ化裁判でも問われた文化的問題であると容易に想像できる。
同じ伝統や文化を共有してきた社会が、因習なり慣習を持ちそれが明文化されていなくともそれによって日常的生活が滞りなく捗るような事例は多い。典型的な例が挨拶の仕方かもしれない。もちろん個人差もあるが、異文化との出会いでその差異が問題となることも少なくない。冒頭に挙げた例では、新たなシステムの白地図の上に徐々に定まっていくものである。大海に放り込まれた人は泳ぎ方を自分で会得する。そしてそこでも使用される言語の母体となる社会が持つそれが、大なり小なり反映される。英語でも其々の社会の仕様によってボーダーレスとは成らないと推測する。
再び其々の文化が持つ独自の記号、もしくはコンセンサスを考えると、それは言語という媒体だけでなく、視覚、聴覚、臭覚と全ての感覚によって伝えられる。前ドイツ連邦共和国大統領が在任中発言した唯一つ印象的な表現がある。それを適当に意訳して再構築すると、「同じ建物の中で、ある階ではザウワークラウトを燻らし、ある階ではラム肉をグリルして、ある部屋ではカリーを炒め、また他の部屋では大蒜を匂わせ、醤油をチーズを....とその匂いを許容することが共存共生である。」というような大変文化的な発言があった。決して慣れているか否かだけなくて、其の匂いの元凶から楽しい食事を想像出来るかどうかの相違であり、非常に分かりやすい。上述の芸術の理解という場合、其の共通の記号は複雑に組み合わされる反面、その抽象的な記号は数学・自然科学のように一気に民族や文化のボーダーを超える。
それでは何故、この大指揮者は文化的ボーダーに拘ったのか。それは彼が生涯天職と思い込んでいた彼の作曲から明白である。彼の公の人生同様に、全てを彼の明白な個人的な芸術的ヴィジョンに捧げた。それを伝統と云えば聞こえは良いが、具体的なヴィジョンや因習となった規範は、独善を生むのではないか。其の自家薬籠中の全ては知らぬ間に滞りなく進行する。フルトヴェングラー家の出所であろうシュヴァルツヴァルトの町フルトヴァンゲンで、周りの喧騒にはビクとも反応せずに、羊の毛を音も無く綿々と紡いでいく白髪の老婆の姿が浮かぶ。
参照:
地霊のような環境の力 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-04-28
名指揮者の晩年の肉声 [ 音 ] / 2006-05-17