Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

デューラーの兎とボイスの兎

2004-12-03 | 文化一般
2004 08/11 編集

ヨゼフ・ボイスの兎を上手く使ったのが映画監督シュリンゲンジフの「ヴァーグナー・パルシファル」の新演出だ。ボイスの「金の兎と太陽」はちょくちょくと方々で目にする。東洋やインカにおける「月の兎」を髣髴させる。更に有名なのは、60年代アナーキストグループ「フルクサス」当時に、死んだ兎を抱えての「この兎に絵を説明する」というパフォ-マンスのようだ。4月にここの「野兎/Der Feldhase」の項に記したが、兎には中世から伝統的にイースターやクリスマスでの「繁殖」、「臆病」などのイメージがある。しかし検めてデューラーの1502年の署名の入った「兎」を見ると、一般的なイメージといわれているものとも若干違う。詳細に描かれた兎は、そこでは外界を捉える内なる世界を有している。

ボイスがデューラーをどのように捉えたかは知らないが、今回の演出でこの兎は頻繁に登場する。毛皮の衣装になったり、ある時は舞台上の意匠で、更に写真であったり動画であったりする。どれも即物的に示される、大写しの毛肌に黒点をハエのように走らせたり、大写しで波打つ毛並みをズームアウトしていくなどして、「この兎の存在」を利用する。この兎によって観念連想と統一を得るのみならず、更に多くの素材を投入する。ここで前々日に偶々ふれた相撲廻し様な腰蓑姿のヴューデューの原母性イメージの半裸体も、ミクロスコープで覗いた細胞状のミニマルパターンの動き同様、生物系の素材として分類できる。それらは舞台と映像の双方で登場する。人間の映像も生物系とは別途に加わる。荒地の映像と北欧の漁村風景のような自然描写の素材も使用される。音楽的な素材に比べ多すぎる視覚素材は、演出家本人が今後音楽に依存しない映像作品化も発言しているので合点がいく。

映画においても最近は、本歌取りやパロディー描写が更に増えたと言う。なるほど半世紀前に比較すると元となる本歌も増えている。其の元の映像自体がパロディーである可能性も高い。兎ならず鼠算式に増える。生物界同様、文化も増殖して淘汰されるというのか。ステレオタイプの表現の増大は、更に小分けされたパターンを生み、ミニマル化して、最後にはヴードュー教の恰も全身が麻痺し幻覚を見るような呪術のように働く。情報量の過多と麻痺である。反対にそれぞれの連関を出来る限り断ち切り素材を厳選することで、非連続を生み出すことが出来る。今回の宇宙ロケット打ち上げ射精ギャグが、昨年からの「オランダ人」演出での「エルム街のフレディーの指」とは一味違う効果を挙げれたのかは甚だ疑問である。それでも情報構築による大きな広がりと即物的な視線によって、映像による劇場世界の構築には十分成功した。デューラーの兎の形而上の内側から形而下の外側への、非連続の空間を上へ下へのトランスポーションの欠如が、何よりも惜しまれた。



参照:伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
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伝統という古着と素材の肌触り

2004-12-03 | 文化一般
2004 08/07 編集

第一報したように、毎年夏の期間バイロイトのヴァーグナー・フェスティヴァルでは、作曲家の舞台作品が理想的な形態で上演されている。劇場愛好家のドイツ人にとっては巡礼のような意味合いを持ち、第三帝国下ではナチスに積極的に利用された。民族的源泉の顕示は、この舞台作曲家が持っていた本質である。民族的な素材ほど親しみやすくもあれば陳腐なことさえあるが、其れを高度に芸術化した事が最大の功績であろう。同劇場のために完成された作品「パルシファル」の今年の上演は、作曲家本人指導による1882年の初演から数えて8回目の演出となる。翌年には死を迎える老芸術家の仕事として、ルゥートヴィッヒ二世の援助の下、「舞台神聖劇」として完成した。別の言葉で言うならば、楽匠はドイツ民族の源泉へと戻りつつ「聖を通した世俗界の認知」をこの作品で主題とする。元来、キリスト教化する以前のアジアを根源とする古代社会を形成したアーリア人ということで仏教の要素も意識している。

詳細は避けるが、今回の映画監督による演出もヴードュー教のアフリカ難民キャンプを舞台に原社会を提示して、文明化される以前の人類の根源的な姿を通して実存認知へと導く。アフリカ黒人文明を屈辱したと批判もあったようである。しかしここで抽象化されたのは宗教と世俗であって、西洋史観からの通俗イメージを利用しただけである。キリスト教の聖金曜日や贖罪、聖杯の概念の束縛から解放して教化前へと遡る。演出家が「いきとし生けるものは全て死に、文化も全て滅びる」とプレス会見で語ったらしいが、楽匠も通俗ゆえに効果があり何れ使い古されるであろう素材も意識して使った。そうする事で国王を作曲家の創造世界の虜にして、挙句は死へと追いやる膨大な後援を引き出し、同時代の聴衆にも影響を与えた。創作力の枯渇を指摘されることも多い作品でもあるが、実際に革命で若き日に投獄され亡命した作曲家が、様々な実験研磨の結果、それらの成果を踏まえて「認知」を捜し求め到達した境地であり結果であることには違いない。

毎回のように「キリスト教化する以前の伝説への憧憬と陶酔」を期待して集まる一部の保守的な巡礼者は、その通俗効果を切り捨てて正真正銘ドイツ的に民族の本質へ迫られるとかえって拒否を示すことになる。一般に保守的というのは、自己や所属集合への自己認識の「懇求」を放棄した閉塞する思考形態を指すのだろう。美化した伝説に全てを追いやり虚像を追い駆ける姿勢は、「野蛮な過去」を恐れる民族コンプレックスそのものである。むしろ実際にはありえない「非文明」に対峙することによって、人類の苦悩と希望を現代文明の狂気と実存の認識へと導くことが出来る。伝統という直前の世代から引き継いだ古着のようなものは、使えるように再生出来るかどうかが問われる。仕立て直した「意匠」から、其の素材の本質を見出し肌触りを感ずることが出来る。祝祭初日ではないので、一時間に渡る二回の休憩時には車のところに帰り持参した食料を簡単に貪るものが多い。ゲルマン人の伝統的な生活感覚でもある。



参照:デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
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