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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

皇帝のモハメッド批判

2006-09-16 | 文化一般
レーゲンスブルク大学での教皇の講演発言がイスラム世界で問題となっているらしい。今回のドイツ訪問でのメッセージは、カトリック教会を欧州のものとして他の世界と切り離した考えに基づく、ミサでの発言や言動が基本となっているようである。ヴァチカンの新方針と言うか、旧世界に根を下ろした宗教として、その文化の核として欧州と心身ともに一体化するのが目的であろう。

さて問題の発言は、理性と信仰の対話の中で、ミュンスターのコウリー教授の著したビザンチンの皇帝エマニュエル二世とペルシャ人との対話内容に啓発されたとして語られる。

つまり1391年、アンカラにある冬の館でキリスト教とイスラム教が対比される。そしてコンスタンチノーブルで聖書とコーランの全域に渡って、神の姿と人の姿が、また新旧のテスタメントとコーランの掟が対話の中で交換されていく。

その中の七話にて皇帝は聖戦ジハードを話題とする。皇帝はもちろんスーレには信仰は強制ではないように記されていると承知していたが、その当時はモハメッドも力なく圧迫されていたころのことである。皇帝は、書の所有や非信仰者に対する扱いの細部を受け入れることなく、驚くほど毅然とした態度で「信仰と暴力」の中心的疑問に立ち向かったと言う。

「モハメッドが一体何を齎したか示してみなさい。そこにはただ非人間的で邪悪なものを見出すだけだ。それは、彼が剣にかけて説教をして創設した信仰なのである。」。

ここで皇帝は、暴力による布教の不毛を説いている。もちろん現教皇がこれを語るときは、十字軍運動などの婉曲的な自己批判でもあるのだろうが、主旨は全く別な所にある。信仰の理性を説くことがここでの主題であって、その基礎に先ずギリシャのロゴスを置く。

つまり、キリスト教の基礎にギリシャのロゴスを置くと同時に、その後の脱ヘレニズムの経過を説いている。16世紀の宗教改革における脱ヘレニズムを、そして19世紀20世紀の脱ヘレニズムを示す。

「神に対して耳を持たない、宗教をサブカルチュアーとする理性は、文化の対話には役立たない。」―

「そこで私が指し示そうと試みているのは、現代の自然科学的理性が、そこに有するプラトニズム的要素そのものが疑問を呈していると言う、その方法論的可能性を証明する事なのである。」

そして、最後に再び、西洋が自らの理性の翻意に苦しめられており、それがただ大きな被害を齎らすこと、更なる理性への勇気と、偉大なもへの非拒絶、そうしたものが信仰に必要な神学を現代の議論に持ち出すプログラムなのであるとする。

「理性の延長線上に、この偉大なロゴスに、文化の対話として他者を導こう。」として、異文化との対話として解釈できる。モハメッド批判は上手に皇帝の発言の引用となっていて、これはヴァチカンの言葉ではない。これは幾らイスラム世界で批判されても謝りようが無い。

実は、結論の前に敢えて、一節を挿入して強調している。それは、現在三度目の脱ヘレニズム化が進んでいるとする見解と、マルチカルチャー時代に、人はギリシャ文化との合成を異文化へのキリスト者の最初の教化とする考えについてである。

「この背景には、新約聖書のメッセージそのままに、各々が教化されるのを避けると言うような権利があるとする考えがある。この考え方は、決して全くの誤りではない。ただ、いささか大雑把過ぎて正確ではないだけなのである。新約聖書はギリシャ語で書かれていて、旧約聖書にて熟しているギリシャ精神を有しているのは当然なのである。古代教会がなり行く過程において必ずしも全ての文化に当てはまるものを抱合して行った訳ではない。」。

また、プラトニズムスやカーテニアニズムスと経験論間の合成のなかでの技術的成果を現代の理性として手短にまとめ、一方においては言う所の内的な合理性が物質の数学的構造を前提としていて、そうした形態を扱いやすくしているので、カントが信仰を実践理性に閉じ込めて、現実全体に理性を定義したとする。

こうして語られる内容は、決してイスラム社会に向けられたものでも古い神学的解釈でもなくて、今日の文化・文明論であると共にむしろ政治的な意図を多く含んでいる。



参照:テヘランからの恋文 [ 文学・思想 ] / 2006-09-15
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テヘランからの恋文

2006-09-15 | 文学・思想
イラン共和国大統領アマディネシャド氏が連邦共和国首相メルケル女史に熱いラヴレターを書いた。それが公表されている。同じようにブッシュ大統領に書いた宗教的内容のものとは違い、ドイツとイランの敗者による共闘を目指している。

イランの若手の指導層は、非常に優秀で危険と言う印象を植え付けられているが、実際イスラム革命からの時の流れで純粋培養された知識人たちに違いない。この手紙を読むだけでも、その洗練された強い文化が感じられる。

イラン国民を代表して今年七月に認められた文章は、ドイツと女性首相への賛辞に始まる。面白いのは、二重否定法を使った修辞法である。若しドイツが学術・哲学・文学・芸術・政治において偉大なる発展をしておらず、また国際関係の中で重要で肯定的な役目を果たし、平和の推進者でなかったとしたら、こうして手紙を認めることは無かったであろうと書き出す。こうした言い回しはイランの文化なのだろうか?

人格の尊厳の保持と人権の屈辱と障害の阻止という事では、全ての信仰者に共通した責務が存在していないであろう。なぜならば、われわれ全ては全能の神の創造物であり、その一人一人に尊厳があると言うのに、権限を持った社会が他の社会の権利を強奪して、進歩と完成への歩む権利を締め出し、コントロールして屈辱する権利などある筈がないからだ。

我々の民族にそれぞれに相違する圧力が加わっていなければまた平和維持への基本として正義と人類の公平を共通の義務とする我々でなければ、こうして手紙を認めなかったとして、書き出しを終える。

さて、ここで一つの文化的疑問が投げかけられる。何年間もこのことを考え続けてきたと言う。どうして、歴史的に学問、芸術、文学、哲学、政治の様々な分野で物心両方で人類の発展に文化の形成に寄与してきた一部の民族が、その歴史的な業績を自負することもその民族枠の中で建設的に重要な使命を果たすことも許されないのだろうか。

その後、第二次世界大戦の戦勝国、特に英米を我々に対抗させて、ドイツの戦後の苦難を挙げて、両国の同様な立場を強調する。物議をかもしたホロコーストの陰謀説は争わないとしてもとしながらもそれに触れて、現在のイスラエルの侵攻やシオニズム批判を繰り広げる。当然のことながらシオニズム支持者の実態とイラクにおけるその地下資源目的の行動を、冷戦後の戦勝国の傲慢と拡張政策の攻撃的な拡大として十把一絡げにして切り捨てる。

イスラムを代表して、ドイツの国連での常任理事化への支持をちらつかせたりと政治上手も見せるが、全体として文化論として読むと面白い。受け取った者がこれを何処まで読み取るかは大変疑問であるが、ホワイトハウスへ宛てたものよりは随分と理解される点が多かったのではないだろうか。

この大統領のドイツ社会の現状への認識の確かさと、思想的な読み取りは十分に示されていて、昨日取り上げたヴァチカンの表明としてのベネディクト十六世のメッセージにも呼応している。イラン革命に代表されるような、そしてここで述べられているような姿勢は、尊重されなければならないからである。

そもそも、宗教が現代社会の表舞台に出て来るのはおかしいのだが、こうした若手の知識層が共和国憲法の遵守の推進役として政治の実権を握るようになることで、大統領の上に聳え立つ宗教界の重鎮との役割分担が明確になってくるのだろうか。

イスラム法下での人権問題は、欧州からすると最大の争点となる。死刑や公開死刑の廃止、少年法での鞭打ちや、宗教的屈辱への極刑など、決して受け入れることが出来ないものが存在して、その共和制の枠組みを超えている領域が存在する。

少なくとも現在のホワイトハウスの声明の子供騙しの様な、大衆高学歴社会向けのプロパガンダとは異なり、米国のそれを貧弱な文化とすればペルシャのそれは強い文化に違いない。

技術屋出身で原理主義的武力活動をしていた大統領が、テヘラン時代にマクドナルドを閉鎖したり、ベッカムのポスターを禁止したと言うのはお笑いであるが、そうしたポピュリスト的政治姿勢を強い文化の上に重ねて強いメッセージとして行くのは見事である。

だからペルシャが再びパーレビ時世のように、歴史が続く限り、文化的退化とも言える米文化追従は今後ともありえない。すると、現在ホワイトハウスの標的ともされているテヘランは、今後どのような政治的判断をしていくのかが注目される。



参照:皇帝のモハメッド批判 [ 文化一般 ] / 2006-09-16
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合理主義に慄く第三世界

2006-09-14 | 生活
週末の教皇ベネディクト十六世のミュンヘンでのミサやそれに関しての報道を引用して簡単に触れておく。

TV中継なども観ていないので、その状況は分らないが予想されたよりも少ない人出であったという。

骨子として、「もう我々は神を聞く事が出来ない、余りにも多くの他の周波数が耳元で鳴っている。」として、「神に対して難聴」とするのがなかなか示唆に溢れている。

我々の生活圏が脅かされていて、「社会の問題、お互いの責務と正義の支配、世界の愛は、神のテーマをもって結ばれている。」とする。

ドイツの教会を称えて、その救済姿勢による大きな広がりを見せる社会活動は、特にアフリカの、アジアの神父達から報告を受けて知る所のものであるとした。しかし、そのドイツ教会の信仰の問題には殆ど注意を授けなかったと伝える。

「アフリカやアジアの民族は、言えば我々の技術的能力をまたは経済を賛美しているのであって、同時に全神を人々の視野から別け放つある種の合理主義というものに、またその彼らの文化に押し付けようとするその最高の合理と見るものに、驚き慄いている。」-

「彼らはキリスト教の信仰に自らのアイデンティー喪失を恐れるのではなくて、法的自由としての神への冒涜や軽視、また研究の将来的成功に最終的な倫理としてそれを利用することを恐れているのである。」。

「ベネディクトは更に続けて、他の神への畏敬を寛容すべきであり、尊重すべきでありとして、世界は一つの神を必要として、 彼 の 神 聖 を授ける」と報じる。

「我々が信仰告白するとき、その神は、暴力に苦を対抗させるものであり、悪やその権力に対して克服と終焉として哀れみを授けるものである。」と語り、現代社会における歴史的に培われた伝統の重視とキリスト教的価値観への忠誠を誓ったとある。

同日臨席したケーラードイツ連邦共和国大統領は、国内で大きな勢力となって来ている教会合同への願いを伝えたのに対し、心から助力するが五百年の歴史を事務的な一書きで消すことは出来ないと反論したとある。特にインターコムニオンと言われる合同の晩餐はローマは認めないとして、ドイツの現状を真っ向から否定している。

先日、結構長い付き合いをしているヴァイマールからの東ドイツ人とポーランド南部出身の奥さんと話していると、妊娠中期といいながら既に洗礼の準備に大童である。他のポーランド人妻を持つ英国人も同じように溢す。伝統と言うか宗教と言うか、神道の七五三のようなものだけれど生活の中に組み込まれて形式化していて本質が見えなくなっていることも多そうである。



参照:
皇帝のモハメッド批判 [ 文化一般 ] / 2006-09-16
テヘランからの恋文 [ 文学・思想 ] / 2006-09-15
世俗の権力構造と自治 [ 歴史・時事 ] / 2006-08-09
新興地の無い普遍性 [ 生活 ] / 2006-09-09
あの時のイヴェント [ 歴史・時事 ] / 2006-09-12
影の無い憂き世の酒歌 [ 音 ] / 2006-09-08
豊かな闇に羽ばたく想像 [ 文化一般 ] / 2006-08-20
今日のメモ (たるブログ)
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腕は壁の方へと靡く

2006-09-13 | 試飲百景
グランクリュとかプリミエクリュは、ドイツワインの今後を占う新たなカテゴリーである。ドイツ語でこれをグローセス・ゲヴェックスとかエルステス・ゲヴェックスとかと言う。フランスのそれのように地所が秀逸なことを示すが、根拠となるのはバイエルンやプロシアの徴税のための収穫率に応じた19世紀の土地単位辺りの収穫ランキングに準じている。

つまり、現代においてはそのような伝統的に収穫を望める地所で、いかに収穫量を減らして、質の高いワインを収穫できるかが狙い目となる。

春の試飲会でオーナーと昨今の状況についてお話したが、同醸造所のラインナップにはその手のワインが無かったので、もちろん遠慮して口にはしなかった。小規模生産でドイツ最優秀と誉れ高い醸造所の質に拘る高級リースリングのイメージを今後も如何に維持して高めていくか、他人事ながら内心気になっていた。

そして今回、初めてそこのグランクリュワインがお披露目と相成った。先ずは、それを試してみて安心した。そのワインの傾向は他のカビネット類と同じであるが、期間が経てば大変興味あるワインに熟成するだろう気配があった。

反対に、2005年のリースリングはエキスが凝縮しているため、熟成するのに時間が掛かっている。春に試飲したキャビネットの軽めの地所からのワインは今やっと飲めるような感じである。期待して狙っているワインは、醸造親方に尋ねると、まだ半年ぐらいは開いてこないだろうと洩らした。

こうした遅咲きのリースリングは一般的に長持ちをして大きな成長が期待できる。一般客相手の商売としては大変効率の悪い方法かもしれないが、業者は喜んで買い付けるだろう。比較的廉めの値段設定から偉大なワインが期待出来るときは、買い付け人の腕の見せ所である。

一時間前に予約も無しで入場させてもらい、オーナーや醸造親方に「素人には先行投資は辛い」とか歯に衣着せぬ言いようをして、結局最後まで居座ってしまう。よくお見かけするその世界の御仁にも紹介されて、他の事に気を取られながら水を飲もうとすると、初めてのことにグラスを落としてしまう。妙齢のご婦人がすばやくやってきてちりとりと箒ですかさず掃除してくれる。

2005年産 ブロイメル イン デン マウエルン 
アルコール13.5%、残糖6.28g/l、残酸7.2g/l、収穫50hl/ha

そしてグローセス・ゲヴェックスのブルガーガルテン内の場所について、様々な可能性から検討して特にそこをグランクリュに選んだと詳しく教えて貰う。清楚な表情に思わず見とれ、指し示す腕に誤ってふれて、あら失敬などといいながら、いそいそと辞去する。

業者がこれを全て買い取る事から本日限りの予約購入しか出来ないので、とりあえずたったの三本だけに先行投資をする。早速、帰りにその地所を見学する。名の通り一段と上がったその土地の土手となる壁が在るのだ。カメラを持って近々再び撮影に行こう。
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あの時のイヴェント

2006-09-12 | 歴史・時事
アラブのオイルマネーの米国市場からの撤退が言われている。その傾向は変わらず、新興アジア証券市場だけでなく、欧州の市場に、特にダイムラー・クライスラーやフェラーリー社に流れて来ていて、先日来の上昇傾向がそのように説明されている。

米国における沿岸諸国の投資は、相対的に低下して来ているドルの権威だけでなく、米国が今やそれらの投資に依存する形になっていると、九月十一日以降のマクロな流れを経済新聞は解説している。

歴史的にターニングポイントを与えたと言う割れる大事件は、政治経済的な米国の地盤沈下を証明しているらしい。CIAの秘密監獄の違法性のみならず、イラク侵攻の二本柱であった、大量破壊兵器の所持とイラクとアルカイダの関係の双方とも否定された現時点で、そのでっちあげの「悪の連合軍」の責任に対するなんらかの政治的決着がなされてもよいのではなかろうか。

丁度五年前は、全く今日のように晩夏のあたたかな天気であったと覚えている。コルマーにやってきている遠縁の米国人二世を朝早くから迎えに行った。朝食後の九時ごろにホテルに着いたと記憶している。そこから、シュヴァルツヴァルトへと車で向かった。

ドイツの国境では双眼鏡とカーヴィン銃を構えた物々しい警備で渋滞していた。観光を終えて、友人のホテルへ立ち寄って初めて、ニューヨークのニュースを知った。ラジオを付けると続々と経過がひっきりなしに流れていた。

あの日は、象徴的と言うよりもイヴェントそのものであったと言うのがここに来ての見解のようだ。それにしても午後14時20分に起きた事件の既に4時間以上前のフランス国境警備隊の特別警戒態勢は、あの事件の発生を予知していた。多くのユダヤ人が休暇をとっていたと言われるように。いつも何も知らない者が犠牲になり、手厚く哀れみを授かる。
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ラインの穏やかな中庭

2006-09-11 | 試飲百景
さて当日先ず伺ったのは、十年ほど前に初めて試飲してその後ご無沙汰していた名門の醸造所である。

二三年前に、レストランでここのワインに再会してどうしても試してみたくなった。幸いにも新たに開設されたヴィノテクが土曜日の午後でも開いていて願いが叶った。もう一軒のあまり期待の出来ない醸造所に近いので、ここで先ず品定めをしてしまおうと言う魂胆だ。

さて、初めて試飲の相手をして貰う女性に昔のことなどを伝えると、そのときに色々と教えてくれた醸造親方は大分前に引退していると、何処かで聞いた情報を改めて確認した。当時の親方は人あたりが優しく、その丸みと同時に弱さのようなものがここのワインの特徴であった。そこで若い親方が引き継いだワインを試す。

まだ一軒回らなければいけないので、辛口リースリングだけに絞る。

先ずは、2005年産エルトヴィレのゾンネンベルクを主としたオルツ・リースリング・キャビネットである。これは、新鮮味があって且つここのワインらしい丸みと味がある。砂利砂地と言うから特別な味はないがシャンペンのようなスパイシーさが良い。

二本目は、2005年産ハッテンハイマー・ヌスブルンネン・キャビネットでフルーティーさが特徴であるが、プファルツのものに比べてラインガウのものはこの点では勝らない。どうしても特徴が薄い。価格は大変魅力ある。

次に、2005年産のラウエンターラー・バイケン・シュペートレーゼを試す。バイケンは以前もここで購入した覚えがあったが、飲んでみてそれを幾らか髣髴させる。スレートの土壌にミネラルの要素が強く、微妙な味にもクリアーさが失われていないのが気に入った。2005年は糖比重からシュペートレーゼしか出来なかったが、2004年はカビネットであった。それを試すと、なかなか軽身と新鮮さが丸みを帯びて調和していて、甲乙を付けがたい。特に前者を水のようだと言うので誤解を招きそうになるが、水のように染透るニュートラルな味なのだ。まだまだワインとして開いていないので半年先ほどが楽しみである。それに比べると後者は、酸や糖が比較的元気良く拮抗している。

四本目は、グラン・クリュの2005年ハッテンハイマー・マンベルクである。ラインガウのグランクリュとして、石灰質の砂地から、非常にデリケートなワインが出来ている。問題は価格と、ワインが開き出すのに何年も待たないといけない事である。これほどに試飲で柔らかく調和しているグランクリュも少ない。どのような花園に咲き乱れるか、大分最高級のリースリングの醍醐味を期待出来そうである。この地所は、嘗てプファルツ・ツヴァイブルッケンのルートヴィッヒの所有であった。

過去に何回か訪れた名門醸造所であるが、久しぶりに邸内を歩くと懐かしい。ライン川の風が建物に遮られて、穏やかな雰囲気がここのワインの特徴でもある。ラインガウのリースリングと言うと力強さとその鉱物の様な存在感が素晴らしいのでドイツ最高のリースリングと呼ばれるに相応しい。その地所が貴族の所有なのでゲーテなどが、昔から感動して飲んだ。そうした俗物の賞賛だけで、護衛に護られてパパラッチが直接取巻くような事がなければ、事件も起きないのだろうが。
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良いワインには良い料理

2006-09-10 | 試飲百景
ラインガウの超一流醸造所二軒を訪ねた。その一軒は、毎年四週末連続で試飲会催されてっていて、つまみが出されることから毎年盛況である。しかし、今年は初日の人出は少なかったと、内部の者から聞き及んだ。それでも第二週は晩夏らしいあたたかな日に人出は比較的良かった。

つまみの種類は、サーモンの燻製、小海老カクテル、小ソーセージとジャガイモサラダ、パイ、豚のタタールとデザート類と以前と比べると大分質が落ちた。有料の試飲会でないので誰も文句を言う者はいないが、ここに変化が現れてきている。

ワインの重要な役割として、食事の相伴がある。だからこそこうした企画に価値がある。いつか、ここで料理を大切にするワイン愛好家のご夫人が、「折角の料理には、それ相当のワインでないと残念だ。」と語っていたのを再び思い出した。

つまり、材料費をかけて、手間隙かけた料理が、安物のワインで流しこまれることがあると悲しいと言うことである。だから少々の高めでも良いワインを準備していたいという奥さんの気持ちであった。

「良いワインは、良い料理を必要とする。」と言う十分条件は一般的に成立しないが、辛口のリースリングワインに限るとき、これが成立するだろう。

そして、そこで感じたことがそれを補う定義であった。「良くないワインは、良くない料理で良い。」が成立して、それなりに満足感を与えてくれる。さて、ここで「良くないワインは高価ではいけない。」と言う大命題につき当たる。

市場原理は障害がない限り働き、ワイン愛好家の審美眼はメディアなどの錯覚には影響されるが最終的には落ち着くところに落ち着く。裸の王様は、いずれは風邪をひく。

今回は初めて、半辛口に殆ど口を付けなかったばかりか、アウスレーゼなどの砂糖水を遠慮した。お年寄りのご婦人だけが重要なカロリー源としているようだった。

購入の様子を見ていると、持ち帰る瓶の数が圧倒的に少なくなっている。もともと、価格に信頼を寄せて購入する者は試飲会等に態々足を運ぶ筈がない。
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新興地の無い普遍性

2006-09-09 | 生活
昨晩、聞いた話によると隣町に、ハイデルベルクから日本の研究者が、町の経済的活動とワイン農業との関連を時制の軸を四半世紀・半世紀・一世紀として捉えた調査に来ていたと言うことだった。

経済活動と地域社会に関する研究と理解した。町自体はカトリックの共同体で、七割を越える住民が町以外の経済に若しくは副業に依存していると言うような現状が研究対象になるのだろう。都市圏との距離感とかは、その町は衛星都市としての機能が殆ど感じられないのであまり重要ではないだろう。外部からの都市生活者は、カトリック共同体に住むことはあまり多く無く、そのような新興住宅地も数少ない。

その様な事情が、カトリック共同体は貧しくと言うイメージの原因となっている。勿論、遠く日本からの研究者が興味があるのは民俗学的な考察では無く、この五千人足らずの共同体と日本の地方の過疎地域との比較であろうと容易に想像できる。

更に推測を進めると、ドイツ語圏ではカトリックの共同体もしくはユダヤ共同体と言うのは、普遍性や戒律の象徴であって、日本の過疎との相違は大きい。しかし、明治政府による西欧使節団は間違いなくこうした共同体モデルも参考にしたに違いない。

そこで出来上がったプロシアを手本とする強力な中央集権システムの中で、地方のまでに浸透する 規 範 としてのそれらに留意した。それは、その明治システムの歪から生まれる不条理の描かれる新劇舞台その通りではないだろうか。

そして今改めて、同じような視点から比べて見ると、その双方の共同体の違いは甚だ大きく、ある友人の一言「ドイツの田舎と日本の田舎は全然違う。日本の田舎は貧しく、何も無い」に集約される。これは物理的な交通物流の便だけでなく、全ての道はローマに通じる時制によってもあまり変わらない普遍性と言うものが大きくそれらを分かつのかも知れない。

その隣町のプロテスタントのドイツで最も大きな村の対人意識の弊害を、昨晩耳にしたと書き添えておくのも忘れてはなるまい。
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影の無い憂き世の酒歌

2006-09-08 | 
グスタフ・マーラーの作曲の交響曲「大地の歌」は、人気交響曲である反面、その真意と言うか精神世界を理解するのは意外と難しい。その交響曲離れした形式や赤裸々な東洋趣味とセンチメンタリズムの混ざった創作世界が、音響効果を越えて理解するのを困難にしている。

中間楽章を、細密画のようにまたは山水画のように陶磁器を見るように、妙に感心したり、終楽章の切実な告別に芸術を見るのは容易い。ならば中国のそれのような芸術観が必要なのだろうか。

悲歌行

且孤死富金天悲悲一琴我君天悲聽主悲悲
須猿生貴玉雖來來杯鳴有有下來我人來來
一坐一百滿長乎乎不酒三數無不一有乎乎
盡啼度年堂地    啻樂尺斗人吟曲酒
杯墳人能應雖    千兩琴酒知還悲且
中上皆幾不久   鈞相   我不來莫    李
酒月有何守     金得   心笑吟斟    白


創作の契機とその作曲の環境を無闇に論じても仕方ないかもしれない。そもそもケルンテンのヴェルターゼーからここチロルのプスタータールのトブラッハに避暑地を変えたのは、娘マリア・アンナの死の思い出からの逃避にあるとされていて、実際作曲家は再び同地には戻らず、妻アルマが荷物を纏めに行っている。

終楽章「告別」の後半に対応する一楽章「憂き世の酒歌」の表現趣向が分かり難い。あるドイツバロック詩に示唆を受けて、かつトブラッハ周辺の環境を見ると、その意図するリアリズム表現が理解出来る。しかしそれは一般的にユーゲントシュティールやゼッツェンツョーンの芸術表現と比較されることが多い。また、東洋的なテキストの内容から、その意図するところが二元論的な陰陽の世界観へと集約されることが多い。

終楽章を夢半ばの生死隣合わせの世界とすると、それに対応する一楽章の生の快楽と「死も暗い」の表裏一体構造があまりにも容易過ぎると感じる。さて、問題のドイツ・バロック詩は、プロテスタントからカトリックへ改宗したシレシウスこと医師・詩人のヨハネス・シェフラー(1624-1677)のもので、次のようだ。

Die Rose ist ohne Warum.
Sie blühet, weil sie blühet.
Sie achtet nicht ihrer selbst,
fragt nicht, ob man sie siehet.

薔薇は理由もなく、咲いているから咲いている。
自らを顧みることもなく、
見えるだろうかとも気にかけない。

Angelus Silesius(1624-1677)

この詩の正統的解釈は分からないが、これはまさに実存の表現で、最後にその実体のオーラまでを否定している。存在あるのみである。薔薇の明確な輪郭と色彩が漆黒の宇宙を背景にして浮かび上がる。

マーラーのこの楽章には、上のように「生も暗く、死も暗い」としてモットーの光と闇が描かれている。だからこそその 影 が象徴するようなオーラと言うようなものが存在しない。そのガラス張りとも言えるリアルな和声と音響そのものが狙いなのだと気がつく。そうした影の無い傾向は、既に以前の交響曲にもあったが、アルプス以南の太陽や青い空に聳え立つドロミテの岩壁と同価値であり、またこの交響曲作家の一つの資質でもあったのだろう。

アルマ・マーラーの記録によると、トブラッハの農家の母屋の傍の苔むした土地に仕事場の離れが建っていて、そこで予定より早く一夏でこの曲を仕上げたとある。折りからの心臓病を圧して、山を歩き、水に潜る作曲家の健康を気遣っている。その反面、出来たばかりのホーヘタウヌス鉄道に乗ってザンクト・ギルゲンの男友達を訪ねて、年上の作曲家を悩ませる若妻振りが語られる。リヒャルト・シュトラウス夫妻の訪問を受けて、同行したガルミッシュパルテンキルヘンのご近所さんが、アルマの母親をマーラー夫人と勘違いして、シュトラウス夫人をいらいらさせたとある。

こうした一種のリアリズムは、ショスタコーヴィッチにも引き継がれたのでもあり、この後の二つの交響曲の理解に役立つのではないか。最後に再び繰り返せば、この光と闇の転回は、荘子の「胡蝶の夢」のように、決して反転してそのリアリティーを獲得するようなものではなくて、上述の薔薇のように虚空に存在する事象なのである。東洋趣味の音楽に惑わされてはいけない。だからベトゲのドイツ語訳こそテキストとして相応しい。



参照:
「大地の歌」について(Musikant/komponist)
第9交響曲について(Musikant/komponist)
永遠を生きるために [ 音 ] / 2005-05-16
民族差別と同化 [ 文化一般 ] / 2006-09-05
石灰岩の大地の歌 [ テクニック ] / 2006-09-03
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何一つ出来る事は無い

2006-09-07 | 雑感
ここ三年ほど親しくしている友人が六週間ほど前に交通事故に巻き込まれた。その知らせを受けたのは、事故後一週間ほど経っての五週間前のドロミテの山小屋であった。

今回のドロミテ滞在前にも気になっていたので、山小屋でその後の経過を訊ねてみると、少しながら様子が知れた。四週間ほど前には既にICUから普通病棟に移されていたので、様態は安定していると思っていた。その後の経過が知りたかった。

その事故当日、二つほど隣の町へと、日曜の朝早くもう一人の仲間と自転車で、我々との待ち合わせ場所へと向かっていた。そして乗用車に撥ねられた。激しく首を捩じられたという。詳細は、同行していて無事だった者に直接聞かなければ分からない。

本人は、家庭も無く一人者であると今回初めて知る。六十歳を越えている。彼は、病院への見舞いを一切断わっている。しかし、栄養の摂取を拒絶しているとは知らなかった。

我々には何一つ出来る事は無いと言うが、本当にそうだろうか。落ち着いて考えてみる。本人の性格を知らないでもない。彼なら吐き捨てるように言うだろう、「エーイ、役立たない体などどうでもしてくれ。」と。

身体の麻痺と回復の可能性もしくは容態の不調が、先行きの希望を奪っているのだろう。医学的見地は定かでない。しかし、オランダならいざ知らずドイツにおいて、尊厳死と認められるのは極限られている。

医師やカンセラーなどが様々に試みているのだろうが、本人の生への意欲が大切であると思うと心配である。花の冠を贈ってみよう。嘗て使った事のあるネットでの配送システムである。黄色の薔薇とアイリスの入った冠が緑の葉で囲まれているのが良さそうだ。

250文字のカードを添える事が出来る。近いうちに皆で囲める事を願っていると書く。なにか少しでも役に立てばと祈る気持ちである。
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イタリア人より始末が悪い

2006-09-06 | 料理
仲間の一人がスターターのほうれん草の団子に、パンを特別注文した。団子にソースが付いているので、それをパンで拭う。山小屋の娘の女将さんに「イタリア人より始末が悪い。」と言われる。しかし、北ドロミテのボーツェン地域はドイツ文化の素晴らしい部分を継いでいて、そのクンメル入りの黒パンは最高級のものであった。

だから、パンの注文は理解出来た。御蔭で、注文したご本人の前には、次の晩もデザートに 特 別 に パンの籠が運ばれた。受託の権利がないと言われながらも、そのパンにデザートのチョコレートムースを付けて試してみる。

南チロルの特産でウサギの耳を意味するハーゼネェルシへェンがデザートに賄われた。四角い形の耳で、中にはジャムが薄く詰まっている。また他日はそれに似たデザートとして、恐らくゲルムと言われるビール酵母を使ったクラッペンタイプの菓子が出される。

トウモロコシが谷の彼方此方に栽培されていて、実りの時を向かえている。ここでは、南のポレンタに代わって、もろこしで作ったパスタが料理に付け合わされる。

ペストソースもイタリア風豚肉に出される。ペストソースにホースラディッシュが入っているようだ。

食事全般に関して言えば、一月前のトリエンテ地域の山小屋におけるプリモにたっぷりとパスタが出て、それが嫌ならアンチパスタも選択出来て、セコンドも贅沢に二種類から選択出来たのに比べると、今回は大分質も量も落ちる。それはそのまま、そこが九割方イタリア語を話すトリエント地域であったと言うように、イタリアの食道楽とドイツの質素さの違いである。メニューの選択が不可能なだけでなく、ここではメインの味付けもニンニク味を効かしているだけで、大満足とは言えなかった。



参照:王様の耳は豚の耳 [ 料理 ] / 2005-08-03
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民族差別と同化

2006-09-05 | 文化一般
オーストリアを車で通過するとき、ラジオはイェルク・ハイダーの道路標識闘争を盛んに伝えていた。アルプス共和国では十年来問題となっているようだ。ドイツ語とスロヴェニア語の二重表示が、後者の少数民族を抱えるケルンテンでは採用されている。これは、オーストリアの憲法で保障されている少数民族としてのスロヴェニア・クロアチア人保護に則っているらしい。多数と少数の鬩ぎ合いと法の条項の網目を上手に政治的に利用するのが、民族主義的ポピュリストである。末梢の条文を扱う連中の如何に浅ましい行為かを如実に伝えている。

少数民族が国家の枠組みを超えて生活している様子は、北イタリアにも多く見られるようである。その地域でのドイツ語についての記事を読むと、政治的・経済的な線引きだけでは誤解を招く、少数民族文化が存在する事が分かる。そしてそれらは、現在使われているような現代ドイツ語でなくてエッチュ語などと呼ばれる古いドイツ語を残していると言うのである。文豪ゲーテは、残念ながらこれらに気が付くことなく、俗物らしく暢気にさらに南へと旅を続けている。それらの点在地域はピエモンテからケルンテン・スロヴェニア国境にまで広がる。

それらとは別にチロルは、政治歴史的に独自のドイツ語文化圏であることは良く知られている。そしてその地域は、オーストリアとイタリアの双方に含まれている。後者の住人は、イタリア語の教育を受けているので、バイリンガルである。道路標識もトブラッハならドッビアコとも書かれていて判り易い。南ドロミテのトリエント地域に比べると、ドイツ文化色が支配的と言いながらも、ボルツァーノ地域は、決してモノトーンにならずに独自の文化を保持している。

イタリアとオーストリアの憲法や其々の少数民族を比較する事などは出来ないが、EUの枠の中で如何に地域性を持ちえるかが課題であるとすれば、チロルやトレンティーノやドロミテの多様性は欧州の粋でもある。政治よりも歴史的入植地域文化が先ず存在すると言う意味で、これらの地域文化には特に深く配慮したい。

民族差別を避けるための条文が、その本来の趣旨である他者の尊重と言う本旨を離れて、逆に政治的に利用される。こうした自己喪失を恐れる民族主義者は、個人的IDが未発達なためコンプレックスを持っており、政治家はそれを利用する。自他の区別が困難なので、自らが信ずる多数民族グループに自らをも同化しようとするのが、これら民族主義者の特徴である。母国などと言う言葉が既に哀れで嘆かわしい。
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チロル東西南北

2006-09-04 | 生活
北西チロルは今日も小雨が散っていた。水曜日の午前中にその谷へと入ったところ、大雨が降っており、山の上は30CM以上の積雪だった。宿泊予定の山小屋からの情報では、向こう暫らくは雪が消えそうにもないということで、落ち会ったばかりの全十名は五台乗用車に分乗して南東チロルへと移動する事にした。

予想通り、ブレンナー峠を越えると別天地のように快晴で、新雪らしきものも頂上に薄く見えるぐらいである。しかし、何よりもの問題は大人数の宿泊であった。結局、ドロミテのコルチナダンベッチオとトブラッハ間の谷間上部の小屋に寝場所を見つける事が出来た。

直線距離にして、二百キロほども無い狭い地域で、これほどに大きな気候や文化の違いを見せるのが欧州の最も素晴らしいところである。晴天の毎日をドロミテの岩壁に囲まれて、二千メートルの高所で過ごせたのは幸せであった。

七月に南ドロミテで過ごしてから、夏の終わりに再び北ドロミテで過ごすことが出来るとは思ってもいなかった。七月の炎天下とは異なり、朝は氷点下となった日も午後には二十度を遥かに超えても、随分と快適な日々であった。

同地も本日薄曇であったが、それでも北東へ戻ってくると空の明るさが大分と違うことに気が付く。
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石灰岩の大地の歌

2006-09-03 | テクニック
ワインの目隠しテストをさせられた。メルローの赤ワインと違うものがあると主張したので、其々試したら同じ物であった。錯覚に陥ることがあるのは分かっているのだが、同じ銘柄でも味が違うと感じる事は更に多い。実際、瓶によっては炭酸が多かったりする。これは、製造のばらつきだけでなくて搬送や保存の間に生じる相違であったり、温度などの給仕の仕方によっても質が変わる事はありえる。

さて、クライミングで使用した新しいシューズは非常に快適であった。靴下を履くと足との摩擦が無くなって、余計に足入れが良すぎてがぶがぶしてくる。裸足になった方がフィット感が遥かに高い。但し、この靴でただたんに平地に直立しているのは意外に難しい。

古い山靴ガリビエールのスーパーガイドを今回荷揚げ歩行用に初めて使ったが、意外に軽くて荒地でも綺麗にバランスがとれて良かった。靴べろの当たる場所や親指、小指等に肉刺ができるようだが、テーピングをする事で防げそうである。靴下やテーピングの使い方で靴の使い勝手は大分変わる。

古いラフマ社の伸ばせばシュラフザックとなるリュックザックを荷揚げ用に使ったが、前回と違い肩への食い込みが少なかった。肩紐や腰紐へのパッドや改良が可能ならばまだ使えそうである。何よりも容量が拡張されるシステムとそのバランスは優れている。

盛夏と比べると行動中に必要な水も愕然とするほど少なく、深夜に摂取する水も僅かばかりとなる。呼吸が楽なのは前回の高度順応の成果が残っているのか、低めの気温なのかは定かでない。しかし、高温は体力を消耗させ、運動能力を落とした事は証明された。ドライフルーツの林檎とパイナプッルとも良かったが、喉飴も重宝する。狭い足場での喉飴は、リラックスには良い。

足場作りと継続した登攀の時間の無駄を省くのが今後の課題である。現代新用具別の決定的使用法が未定であったので、これを決定する事で躊躇無く足場での作業が出来る事になろう。ここ三十年ほどの用具や技術の変化を現場で確認して、それを収斂させていかなければいけない。

ドロミテなどの石灰質の摂理と大岩壁での安全で迅速な登攀行程は、長い懸垂下降の行程を含めて、ルーティン化した作業にならないと達成できない。改めて細かな作業の練磨に務めるべきだ。

反対に、登攀技術は室内などでも上達するので向上は容易い。しかし少なくともドロミテの技術難易度表示は一般に予想される水増しが無く、傾斜が強く六級はそのもの困難である。オーバーハングでも大きな手掛かりは期待出来ないかもしれない。

ドロミテの岩場に踏み痕や手掛かりの磨耗がないのが新鮮である。処女壁のように形跡の薄い岩壁が存在して、砂時計に古い縄が掛かっているのにアルピニズム文化を感じる。

アルプスの「壁の時代」以降の特徴の体験のみならず、個人的にも一種のトラウマから解放された気がする。これを心理的な側面と言っても良いが、アルプスの「鉄の時代」以降のアルピニズムの流れとそれ以降の室内でのフリークライミングの流れを体験していると、本質的な岩(大地)との接点を築く方法が探せる。

作曲家グスタフ・マーラーがここで、「大地の歌」を創作したのは、ただの偶然なのか、それともその理由付けはただのこじつけの錯覚なのか?



参照:影の無い憂き世の酒歌 [ 音 ] / 2006-09-08
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1953年のクラシック

2006-09-02 | アウトドーア・環境
前夜は、白ワインとペストソースで盛り上がる。翌日のザイルパートナーや順番が決まり、尚且つ他のパーティーに先行されてはいけないと言うことで、遅れずに岩峰の取り付きへと向かう事が確認される。そうした幾らかの緊張感が酔い心地にさらに心地良い。充分にアルコールも入り温度も高く、我々の小屋の戸口は開け放たれたままの就寝となる。寝転がっての馬鹿な笑いが何処までも山肌に響いただろう。子供の遠足の様に何でもない事が無性に可笑しい。

長閑な朝にごそごそと起き出して準備を始める。朝食も充分に摂り、急ぎ足で取り付きへと向かう。北壁なので若干暗く、あまり乾いた感じはしないが、実際に登り始めると湿り気も無く快適である。課題に集中して行く時の緊張感がなんとも快い。

各々の者が其々に異なる経験しか持っていないので、なにを経験したかも各々によって其々違う。色々と経験を駆使して柔軟に対応して行くが、核心部のルート選定と空中への突出感は瞠目すべき体験である。少年期のようにアドレナミンの突出は感じないが、集中力の高まりはなんとも嬉しく素晴らしい。

1953年に初登攀されたと言うのは驚きである。なぜならばそれほどに困難でもなく、それまで取り残されていたのが不思議だからである。この山域自体が幾らか小振りとはいえそれまで見捨てられていた筈はないのだが、他に1980年代に拓かれたルートもあるので驚きである。あまりに遅く拓かれたクラッシックなルート取りは今後とも印象に残るだろう。結局、引き続き登る予定の岩峰の登攀は断念されたが、各々は計り知れぬ経験を積み、掻き集める事が出来たであろう。

午後は、各々更に小さな岩壁を登り、プログラムは終了する。流石に夕食は、地下倉から運ばれた白ワインが次から次へとが空けられて、〆て10リッター程飲まれる。お互いに反省点などをチクル。今後の課題と出来るだろう。各々自身が最も分かるべきものでもある。若いパートナーが、登りきる早々、「何も言ってくれない」と怒っていたが、そうか不安だったのか。しかしこのチクリで、何よりも自分で見て体験したもの、その醍醐味を理解してくれただろう。習うより、慣れろ、真似ろ、盗め、考えろである。

こうして、二食付宿代の34ユーロの四泊分136ユーロに、当日の昼飯とワイン二リッターを加えて、168ユーロとなる。170ユーロを支払うと財布に残りは20ユーロとなった。
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