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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

政治的核反応の連鎖

2006-10-17 | 歴史・時事
朝鮮民主主義人民共和国の核爆弾実験の威嚇行為は、核反応の連鎖のように次々に様々な影響を引き起こしているようである。特に日本の核軍備への思惑は、その中でも最も大きな反応である。実はこの思惑が、其々の立場でBLOGなどで真剣に検討されているのを知って正直驚いた。

ネットで見るFAZ読者の「日本の核装備」への支持は、僅か4パーセントに満たないが政治的軍事的選択肢として存在するのは当然のことであろう。東京政府は、核不拡散条約の遵守から、既に核軍備論議を否定したと言うのは納得出来るが、核保有国が増えて戦略核が拡散する状況からすると現実は逆行しているようである。

更に日本の有名無実の骨抜き非核三原則を主張するのは詭弁のようにしか映らない。東京政府は、これを徹底させるつもりなどは甚だ無く、策略の論拠としてこれを用いているようだ。戦国武士の潔さどころか腰の引けた江戸侍の醜い姿を曝している。その結果、現在の工業先進国で核弾頭から最も離れて生活しているのは、米国人かロシア人ではないかと思われる。

こうした現状であるからこそ、広島・長崎の原爆被災を人類の将来のために生かして行くことは出来ないのだろうか?

潜在的な中華人民共和国と日本国との葛藤の中で、核保有は多大な意味を持つ。そして前者の経済的発展から前者の覇権主義が顕著化している現在、また今回のように政治的均衡が流動化した現在、その政治的ダイナミックスを生かして行く好機でもある。

核保有の可否議論をタブー視しない方が良いと思われる。その具体的可能性を検討して、初めてその是非を示すことは戦略的にも重要であろう。こうした自由で民主主義的な議論は、核保有国である資格でもあり、同時に対極にある非核並びにABC兵器の排除に指導的役割を果たす資格でもあるように思える。

さて、読者アンケートを続けると、ピヨンヤンへの軍事攻撃が必要と見るのが25%に上っていて、今後はなお一層の制裁処置と含めて北京政府との駆け引きとなるのであろう。北京政府は、今回極東の覇者としての権威を失墜する事になって赤恥を掻いた。今までピョンヤンに政治介入出来なかった様々な事情が浮き彫りにされる。

ピョンヤンを認めるというのも10%あって、これは戦略核による力の均衡を推奨しているような意見ともなるかもしれない。交渉を更に集中強化して行えと言うのが23%を越えている。

今回の事件は極東の政治を活発にして、中華人民共和国が燃やす同地域での覇権の野望に対抗する日本国との 冷 戦 関係に油を注いだかのようにも思える。
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貴腐葡萄の摘み取り

2006-10-16 | ワイン
摘み取り風景をヴィデオ撮影させて貰った。使えそうなものを切り取って、引っくり返して後ろ側までを調べて、正常ならば籠に入れ、危なそうなものを手早く切り取って地面に捨て、残りを籠に掘り込む。一瞬の目診は、経験が要りそうである。根気のいる仕事である。

オーナーの発言を思い出す。「質の良い人手があるので、比較的価格を抑えることが出来ている。」とは、もちろんポーランドからの経験と信用のある人手を集めていると言うことでもあるのだろう。確かにここに停まっているポーランド・ナンバーの車は比較的高級車が多い。支払いよりも安定した雇用関係があるのだろうか。

見学記
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貴腐香るグランクリュ

2006-10-15 | ワイン
ワインを取りに行くついでに、グランクリュ・ワインの摘み取りをお邪魔する。一度、お客さん向けの摘み取りを楽しんだことがあるが、貴腐ワインになったトップランクワインの摘み取りを見学したのは初めてである。

10月14日現在で、既に三週の間に日常消費ワインやキャビネットクラスの摘み取りは終えていて、貴腐ワインの摘み取り作業に入っている。後八日もすると完了のようである。ドイツでも一級の醸造所であるため、熟練者によって手摘みで作業は行われている。

規模が大きくないので、トラクター二台で摘み取り籠を運ぶだけの小規模の摘み取りである。気温が低いこともあるが、それほど頻繁な運び込みはされず、寧ろ買物籠の大きさの入れ物が新鮮な葡萄の健康を保障しているようであった。ワイン蔵の方では、戸口を開けて早速のプレスを待ち構えている。

貴腐の生えたワインは、リースリング種本来の緑色の果皮から赤紫がかった葡萄色に変わっている。未だに緑色の未成熟の果実は残して、貴腐以外のがついたり果皮が薄く腐り状態になっているものは小気味良く地面に捨てられて行く。貴腐は、糖や酸や窒素を栄養源とすると同時に皮を水分が蒸発し易いようにする。乾し葡萄状態になると、内容物は凝縮して行き、糖とアロマ成分が強化される。

本年は、糖比重はそこそこに達しているが、夏の雨のため未成熟な葡萄が貴腐にならずにワインとしては収穫出来る量が限られるらしい。つまり、正しい凝縮作用が起こらずに、果皮が崩れたりしている様子である。

また貴腐の生える前の通常のワインやカビネットクラスは、健康でも糖価は低そうである。となると昨年度に比べ、高級品は質量共に、通常消費品は質が今一つとなるのだろう。自然食品であるから仕方ない。

ここで感心するのは、収穫量を減らす剪定は当然のことながら、狙いの房は膝元に集められ風通しなどが綺麗に図られている手の入れようである。手間暇をかけて少量高品質を問うドイツ最上位の醸造所に位置するだけの事はある。ワイン愛好家としては、早めに本年度産のワインの質を査定して、昨年度産のワインの購入計画を立てないといけない。

夕方のワイン畑には、二人のドイツ人の下、いつものように出稼ぎ者のポーランド語が響き渡っていた。緑色に残された葡萄も置いておけば糖価は上がるらしい。これが氷結するまで置いておけばアイスヴァインとなる。しかし、上の事情から本年度はシュペートレーゼで摘み取り終了である。
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福音師の鬼征伐

2006-10-14 | 文学・思想
承前)今日、最も世界が注目するのは、中華人民共和国の対外政策であり、本来共産主義によって解決されるべき民族問題は、伝統的な「華夷」の意識に収束しているとする。だからこそ、その対抗軸として「黄禍」の言葉の源泉と事情背景をプロシアにみる。

1878年のパリ万博を境にして、欧州では極東趣味のみならず日本趣味が沸騰した。絵画においても、文学、音楽等においてもその数多の例は事欠かない。もちろん、人的交流も盛んになっているのは、特に日本側から見ても当然のことであった。

その多大な影響は、主に何処にどの様に見られるか?ただドイツ語圏における新異文化の受容は、比較的素朴な形で行われているような印象がある。どうもそれは、反対方向のベクトルである大日本帝国初期のプロイセンの司法システムの導入、そして軍事的手本となった文化の輸入やその関心所に依拠するように見られる。そして、そうした懸け離れた文化圏同士の関係が、様々な分野で時を隔てて変遷して行くとともに、自らの植民地における利権絡みとなり現実的な脅威となって行く。

それに遡ること1900年春には、列強の睨み合う清帝国において、反西洋・反キリスト教を掲げた中国の秘密結社「ボクサー団」が一揆(義和団の乱)を興し、多くの北京の在外公館は包囲されキリスト者は殺害される。プロシアから派遣されたキリスト福音師が殺害されたことで、六万から九万人規模の国際軍(英インド、ロシア、日本、米、独、仏、墺太利、伊太利)が組織されプロシア将軍が指揮を取った。その中に処刑・おしおきグループが組織されて、村々を虐奪して焼き放つ虐殺行為が繰り返される。その指導的役割を果たしたプロシア軍への送辞が冒頭のドイツ皇帝の演説であった。

こうした、ビスマルクのなし遂げた強化された軍事力を背景に、拡張的植民地主義を推し進める皇帝ヴィルヘルムに、人種差別的ナショナリズムの色彩を与えたのが英国生まれのヒューストン・スチュワート・チェンバーレインであった。

彼は、熱烈なヴァーグナー狂で、皇帝の友人となって人種主義を耳元で吹き込む。その反ユダヤ思想は、後の英国首相チャーチルやアルベルト・シュヴァイツァー博士にまで愛読された。文通を介して後に著書を認めたコジマ・ヴァーグナーのその娘エヴァーと婚姻して、1908年以降バイロイトのヴァーンフリート邸の人となる。

ナチスが台頭する前の1923年10月1日、34歳のヒットラーは、作曲家リヒャルト・ヴァーグナーの聖地バイロイトを訪問する。訪問を受けてヴァーグナーの息子ジークフリートの妻であるヴィニフレート・ヴァーグナーと意気投合する。1930年にはその旦那でリストの孫になるジークフリートは死亡して、英国生まれの嫁は遺志をついで音楽祭の運営を司る。

第三帝国総統は、再びチェンバーレインの死後ここを訪れて、「彼はナチョナル・ソチアリズムが振るう剣を打った。」と絶賛している。こうして彼は、ドイツ帝国から第三帝国までヴァイマール期を挟んで一貫してアーリア人種の優越性と、ユダヤ人排斥を主張した。人種主義の福音師と呼ばれる。植民地主義は、人種主義や民族の浄化を名目として推進される。

ビスマルクの更迭からヒットラーの勃興までの時代は、様々な立場から若しくは発言形態にて、その状況を詳しく窺うことが出来る。これを1930年代から1940年代の皇国日本の「使命論」と対比するのは丸山真男であるが、実際には双方向へのベクトルが場合によれば相殺されつつ働いていた。

そして山県有朋の定めた主権線と利権線の発言を受けて、「権力政治に、権力政治としての認識があり、国家利害が国家利害の問題として自覚されている限り、そこには同時にそうした権力行使なりの 限 界 の意識が伴っている。これに反して、権力行使がそのまま、道徳や倫理の実現であるかのように、道徳的言辞で語られれば語られるほど、そうした 限 界 の自覚はうすれて行く。」として、前者には本質的に限界があるとしている。

1871年(明治四年)に福沢諭吉が子供向けに記した「ひびのおしへ」から引用して終わりとしたい。

「桃太郎がおにがしまにゆきしは宝をとりに行くといえり。けしからぬ事ならずや。たからはおにのだいじにしてしまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。ぬしのあるたからをわけもなくとり行くとは、桃太郎はぬすびとともいうべきわるものなり。もしまたそのおにがいつたいわるものにて、よのなかのさまたげをなせし事あらば、桃太郎のゆうきにて、これを凝らしむるははなはだよき事なれども、たからをとりてうちへかえり、おぢいさんとおばあさんにあげたとは、ただよくのための仕事にて、卑劣せんばんなり」。(終わり)



参照:
革命的包容政策の危機 [ 文化一般 ] / 2006-10-11
ポストモダンの貸借対照表 [ 歴史・時事 ] / 2005-09-02
世界の災いと慈善活動 [ 文学・思想 ] / 2005-11-29
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理性を超える人種主義

2006-10-13 | 文学・思想
承前)先ず、西洋の「黄禍」への不安な状況が、日本の攘夷論と神国論が重なり合って行く様相を間接的に形作ったという例である。彼の美濃部達吉の天皇機関説を攻撃した上杉慎吉の場合を、こうして発言者側には大意はなくとも受け取り側には多大な影響があった例として、イアン・ブルマは挙げる。

上杉慎吉はもともとキリスト者の憲法学者で、国民主権には至らないまでも後に学ぶユダヤ系ゲオルク・イエリックの国家法人説を採っていたが、プロイセンの管理学校に学んで1919年帰国するや否や、「家臣は天皇陛下の御意思と御心を知るのみです。天皇陛下に全てを捧げます。陛下の御心にあるとき、初めて無我自然に精神的清楚に至ることが出来るのです。」と大きく転向している。

この背景には、現在でも遊学帰りにありがちな「やっぱり家が一番」の心情が見え隠れするが、上にあるような事情から被差別意識が隠蔽されていると考えられる。特に当時の欧州におけるユダヤ人社会の現実を如実に身をもって感じて居たとするならば、この転向はある程度理解可能となる。話者は、こうしていつの間にか狂信的な皇国の僕となり果てている。

次いでながら、丸山真男は、― 国家システムに働いた国家理性(国際社会における国家行動の準則)について著した ― 自らの中国語翻訳された論文の読者に対して補足説明をしている。フリードリッヒ・マイネッケの主張する国家理性は非西洋諸国にも有効だが、中国の権謀術数と言われるマキャヴェリズムとは些か違い、主権国家の平等とそれを根拠とする国際秩序を配慮する必要があると釘を刺している。

つまり、この新たな西洋概念のために、清朝末期には伝統的な道徳文化レヴェルに留まっていた「華夷」の考え方は読み替えられて、権力政治的変質をしていると言う福沢諭吉らの考え方を追確認している。

そして、攘夷思想こそが日本の儒学者であっても国学者であっても、そのまま開国日本では読みかえられて下敷きにされたと結論付けられて、それがまた近代日本の外交政策の基礎になった様子を示している。これはまさに、上の遊学帰りの学者が体験した転向の思考であって、もし上述のような欧州での環境の変化に原因があるとするならばすこぶる興味深い。

またこうした転向若しくはその過程が、八紘一宇の哲学の基礎を成しているのは自明である。しかし、時を遡る1890年の帝国議会で軍閥の山県有朋が主権線と利権線と二種を挙げて軍拡を主張している。つまり、中国大陸や朝鮮半島等で繰り広げられた大日本帝国の侵略行為は、もともと西欧列強の駆逐とアジアの民の解放ではなくて、明らかに西欧列強に一泡吹かせて自らがそれに入り込み、成り代わると言うような魂胆であった。

そうした西洋化の植民地主義を越えて、「近代西洋の超克」を隠れ蓑とする 聖 戦 が繰り広げられることになるのは、まだまだ後のことである。それを布告するかのように1937年の文部省のお達しに「神の血を引く絶え間ない天皇の下に、生活と商工を歩む、西洋人から別け隔てる特異性が日本人であり、大和心は清く、西洋文化の精神の不浄に対して汚点が無い。」とした人種・血統主義が強調される。

そう言えば、どこぞのポピュリストがフランス人相手に溜め込んだルサンチマンをフランス語に対して発散させるのにも数年以上の時が経っていたような気がする。(続く
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「黄禍」の真意

2006-10-12 | 文学・思想
イスラム・西洋問題から、ユダヤ・西洋問題を挟んで、中国・西洋問題に至ったが、ここで「黄禍」と言われる人種問題に行き当たる。この言葉は、欧州圏では米国に比べて殆ど使われないが、その源泉は1900年7月プロイセン皇帝ヴィルヘルム二世が、ブレマーハーフェンにて、自慢の海軍を前にした演説にあるようだ。

大変面白いのは、「武器を取れ、そして今後千年間は中国人がドイツ人を横目で嫉ましそうに見ることのないようにしてやれ。」の節ではないだろうか。シアトルのイチロウ選手が韓国人に対して同じようなことを言ったとして問題になったと読んだ覚えがある。

ドイツ語圏では、これはアンチセミティズムと言うユダヤ人人種差別の言葉に比べ殆ど今では話題にならない用語で、もともと米国のように伝統的に中華人の移民が多くない欧州では、十分な社会的プロパガンダとなっていなかったとされる。これを欧州で本格的に使い出したのは日清・日露戦争の大日本帝国の勝利に欧州が震撼したときとされる。プロシアからロシアのツァーに届けられた仏陀の描かれたカリカルチャーが有名な様である。

現在では中共包囲網への隠れたスローガンであったり、ここ暫くでは台湾のベンキューと言う会社のミュンヘンにある元ジーメンス携帯電話工場の閉鎖通告のときに思いつく言葉であろうか。これは、1980年代の日本企業の米国での買占め騒動にいくらか相当する。「黄禍」の人種主義的な言葉使いは悪いが、その真意は現在でも通用する。

それは、なぜなのか?その説明に当たる部分を政治学者の故丸山真男氏の著書から引用する。

「ヨーロッパにおいては神聖ローマ帝国に具象されたキリスト教的世界共同体の解体のなかから、近代の主権的国民国家が生誕した。したがって、そこでは諸国家を包括する一つの国際社会の存在ということが自明の事実であり…ところが…日本はこのような国際社会からではなくして、むしろそのなかへ引き入れられることによって、近代国家としてスタートを切った。…そうした国際社会に対して自己を閉ざされた統一体として自覚することを意味した。…このパラドックスに、…悲劇の素が横たわっていた。…中国がこの状況に逆説的性格を真に自覚したのは日本よりずっと後だった。」

この見解に即して実証と反証の例をみて行く。(続く


写真はヴァイマール共和制末期のドイツ帝国のポスター。国民経済状況が逼迫した1930年代前半と思われる。



参照:国際法における共謀罪 [ 歴史・時事 ] / 2006-05-23
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革命的包容政策の危機

2006-10-11 | 文化一般
承前)攻撃は最大の守りと、朝鮮民主主義人民共和国からミサイルが飛んでくる前に先制攻撃をすると言う勇ましい革命家的な意見がある。その一方中華人民共和国は、この独裁国家を包容して、恰もヤクザの「家の元気な若い奴」のように政治的に利用する積りが、いつのまにか部分核の危機に曝されている。しかし、朝鮮半島の非核化を掲げる北京中央政府にとっては、自国の辺境で小規模の核爆弾なら暴発しても構わないぐらいにしか考えていないであろう。

北京政府は、イスラム社会と西洋社会と現在の世界文化の三極体制の一角を担っている。マルク・ジーモンスが北京から伝える共産党の文化政策に関する記事は面白かった。周知のように社会主義体制の文化政策は重要であり、一党独裁社会ではプロパガンタに使われ、正しい世界観や人生観を人民に示す。文化大革命については触れないが、そこから今消費社会へと変貌している中国にとっては、文化政策の理論付けは重要である。

そして新五カ年計画では、文化産業の市場秩序とマーケティングが大きな柱になっていると言う。つまり、文化と言うのは全て文化産業の市場原理に基づいていく事を明言している。筆者に言わせると、北京政府は東西の壁崩壊以後の世界の文化動向をよく研究した結果だろうとする。

こうして目指すものが、以前は検閲と戦っていたような監督ツァン・イモウ、チェン・カイゲ、ツァン・ユーアンなどに中国映画制作を奨励して、外国からの文化輸入超過を削減していくと同時に市場原理を利用してエンターティメント化で文化芸術の毒抜きを図ることにあるらしい。

もちろん昨今問題となった中国版TV「スター誕生・スーパーガールス」のような視聴過熱を避ける手立ても企てられる。つまり共産党は、社会秩序を護るために安定したコントロールをしていけば良い。こうした現象は米国型のマスメディアの市場形態である。西洋では表現の自由を一義として公序良俗と安寧秩序を護るが、市場は供給されるものに対して十分に ひ ね て いて醒めた受け止め方をする反応能力が存在する。

それは大衆の反応に限らず、表現者や知識階級においても変わらず、中国人はアドルノやホルクハイマーの思考へとは至らない。文化産業と言うのは、彼らフランクフルト学派にとって、いつも渇望されるようなものではなく、とりわけドイツ語圏では驕慢な後期資本主義の結晶として、決して美しい言葉とはならないのである。

伝統文化や共産主義文化の政治的ポップ化やレプリカ化については改めて考えるべきであるが、ここでは最初に述べたハリウッド映画やTVスポットなどの日常文化の衰退を対極に一瞥しておくとよいだろう。工業技術の進展に伴った文化である、DVD化コピーなどの文化消費財の経済価値の破壊やネットによるTV文化駆逐などは、現在年十パーセントの経済成長の見られる市場で中国共産党が想い描く、文化教育産業の発展の到着点を示している。

中国共産党の自由市場原理至上主義は、レーニン主義の下で段階的に進んでいるようにも見えるが、実際は先の到着点が既に見えている。そのように考えると、中国文化は形式上米国化して、その産業規模がある程度に達した時点で、そのときは米国文化の大きな転機は既に終えているように思われる。

何れにせよ文化産業の名の下に、米国のトロッキストを起源とするネオコンサヴァティヴと中国のマオイストのネオリベラリズムが、発展段階は異なっても最終的に同一の収束をするであろうことがこれで予想出来る。

一方欧州においては、文化の社会的価値という大義名分から、文化産業も他の産業同様の経済分野の一つとして計算されていて、嘗ては分野の混同や文化の自立の喪失に対抗するものとして論拠にあったものが、今や技術用語化して ― サブカルチャー化として良いか ― 取り入れられている。そして、こうした現象を不当なこととして扱う心情も失せて来ているかに見えると、この記事の筆者は表する。これが、欧州文化の現状であるとしても異議は無い。
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カウチポテトの侍

2006-10-10 | 文化一般
ラスト侍をTV鑑賞する。特別に観ようとは思わなかったが、この夏のイタリアでの様にこれついて話しかけられても困るので、偶然に番組を知った以上時間を割く。

ハリウッド映画も経済的に厳しいのか出演者への人件費が高すぎるのか、大分安上がりのチャチな制作になったものだと言うのが第一印象である。高名な映画監督のような美的な映像の出来上がりは求められなくとも、少なくともCGなどを使う限りは、子供だましのような幼稚な映像はやめて頂きたい。

映画館で観ていないとしても、最近はDVDで簡単に観る人が多いので、決して不公平な鑑賞方法ではないであろう。TV画面で一度だけ観ても、荒が目立つような映像は困りものである。演技指導も十分に出来ていないようである。

エンターテェイメントにとやかく文句をつけるのは野暮であるが、途中流れるマクドナルド他のCMを見ていると、思考停止の質の悪い二時間ばかりの時間をTVの前でカウチに座ってポテトチップでも食べて健康までを損ねる。

それにしても、上述のイタリア人に想像で適当に語ったように、戦うことを主題としていて、日本の自衛隊を印象づける飾りは不要で本格的な戦闘集団を持つべきとのタカ派的な主張が満ち溢れている。こうしたものが流される限りは影響も大きいので、十分な批評が必要であろう。若いイタリア人が、なぜ反暴力を訴えていたかのかが今初めて合点がいった。

映画の枠組みは、嘗てのヤクザ映画を踏襲していて、黒澤の戦闘シーンなどをも参考にしているようだ。エピソードや救出討ち入りのシーンなどは全く、高倉健が一暴れして賭場から抜け出す情景そのもので、歴史物としてはTV「将軍」の方が遥かに上手に出来ていた。そう言えばマイクル・ダグラスの「ブラック・レイン」の方が、ロケが多い割に擬似空間を上手く演出していて出来がよかった。ただ、戦闘シーンだけは無国籍で時代を超越していて、この映画のクライマックスを効果的に形作っている。

主演の渡辺謙は初めて観ると思うがなかなか良い。協演の演技の不味いトム・クルーズは、二十年前に列車待ちのハンブルク駅前の深夜映画館で観た「トップ・ガン」以来である。とても当時の見る影もない。

ハリウッド一流の脚本の構成で、世界中の誰にでもわかるような話の展開と興味の持たせ方は、制作者が観衆の理解度を値踏みしているようなところがあって嫌味である。しかし、画像が悪い、演技が悪い、台本も生半可であると、どうしても学芸会の映画化のようにしか見えないのは致し方ない。日本も含めて世界的に、優秀な映画も時々制作されているので、DVDで観るようなこのような映画を作っているのをみると、ハリウッドの映画産業は尻貧に違いない。

朝鮮民主主義人民共和国の核実験のニュースが世界に流された。平和利用の核開発からこうした脅迫的な示威行動まで長い時間をかけて虚偽の説明をしてきた外交戦略は、どうにも受け入れられない。核弾頭搭載はまだ準備していないといっても、今までの経緯から押さえの効かない政治体制のように見える。国家戦略と言うより、個人的な体制の維持に全てが傾けられている典型的な独裁国家であるようだ。(続く
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ボゼーナの胸中を覗く

2006-10-09 | 
一人のポーランド娘のことを、印象が新鮮なうちに記しておこう。年齢は判らない。心理的にあどけなさが残る分、実年齢よりも若く見えていると思う。

ドイツ語が不自由な彼女であるから、敢えて詮索せずに想像するのが好い。ヴァルシャワの近くの町からやって来ている。姉がいて、その旦那らしき人がいる。初めは口利き業の親仁かと思った。

名をボゼーナと云い、典型的なポーランドの名前のようである。名前の多くはキリスト教関連が多く、大抵はどの言葉でも多国籍語に訳されている。この名の他国名はないようである。

手伝って貰うようになって、三ヶ月以上経ったが、こちらの目論み通り時間内での作業効率が上がって来ている。少々言葉が出来ても減らず口しか利けない者に比べると遥かに優秀である。

こちらの教育的意思と思惑を理解して呉れるのが何よりも嬉しい。実際は、勘違いや思い込みのようなものもあって、そして何より意思の疎通の問題があって、なかなかすんなりとは行かないが、こうした不確かな意思のコミュニケートを最近は経験していなかったので面白い。

事務的に用件をこなせばよいといっても、マニュアルで済ませれるようなことではない。いい加減説明するのが面倒なことがあるが、こちらも以前に比べると大層気が長くなっている。そんな按配であるから、余裕をもって心理的なものまでを覗き込もうとする。

ドイツ語が不自由なことから来る不安感は、直に容易く見抜ける。その昔、語学学校に通っていたころは回りだけでなくて自分自身にもそのような心理状態にあったろう。自らの経験から、そうした不安な経験の無い通常の生活者よりも理解できる。

さらに、彼女の場合、想像される家庭環境や社会的環境から来る心理的な幼さがあって、これもとても珍しい。最近は何処の先進国でもこうした素朴な人間は少なくなっている。その昔、小学校時分の心理的に幼い児童を思い出す。

特にドイツプロテスタントの牙城では、教育程度に関わらず、みっちりと叩き込まれて人格形成がされているので、素朴とは正反対な啓蒙がなされている。それはそれで素晴らしいのだが、必ずしもそこに利点だけを認めないとしても、こうした自己の提示が弱い人格に応対すると、こちらが大変不安になる。美徳のような素朴さも必ずしも利点ではないのは真実である。
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在京ポーランド系ユダヤ

2006-10-08 | 雑感
先日来、東欧文化圏の特異性が気になっていた。大雑把に纏めると、重要な東欧文化圏は、ただ単にスラヴ文化圏でも、ユダヤ文化圏でも、ドイツ文化圏でもないと言うことであろう。それ故に、中欧のヴィーン文化などが普遍性を持つに至った経過がある。オーストリアの交響楽文化などもそれを代表している。そうした普遍性がなければ、高度な芸術形態や文化には発達しない。

ユダヤ人ゲットーやシナゴークの所在地とプロテスタントの発生・発展を垣間見るといくつもの不思議に出会う。この関係では数多の研究書が存在するのだろう。それは、その後の非構造主義的な見地からも、欧州内における数多の文化層を丁寧に拾い上げていくことに繋がる。ユダヤ文化は、骨肉の関係の宿敵に魔女裁判などで弾圧されながらも、欧州文化の一端を担いなおかつ宿敵の文化にも深く流れこんで世界に多大の影響を与えて来た。これは昨日のテーマ「イスラム教と共生できるか」という問いにも関連する。

東欧出身の東京で活躍した二人のユダヤ人音楽家が前後して話題となった。第三帝国によるユダヤ人駆逐の出来事と双方とも直接関係していて、ユダヤ人であろうとも敵国の外国人とは違い最後の一時期を除けば日本で活動出来た特別な事情が語られている。敵国米国企業が閉鎖に至った状況と大きく異なっているのが興味深い。それでも東京のドイツ外交部による妨害活動が盛んになったと言う。

クラウス・プリングスハイムはマーラーの弟子として話題になったが、トーマス・マンとの義弟関係だけでなく、プリングスハイム家の歴史も興味深い。ドイツ語圏であるシュレージン地方の鉄道網や炭鉱を開拓したユダヤ人成功者であり作曲家リヒャルト・ヴァーグナーパトロンであったルドルフ・プリングスハイムの孫で、父親の数学者アルフレッドもマンの「ファウスト博士」のモデルのようなの人物である。この父は、辺境や特異点の定義や解析ともなるボルツァーノ・ヴァイヤーシュトラウスの定理で御馴染みの分野で活躍した。ミュンヘンのアルチスシュトラーセの豪邸は、ブルーノ・ヴァルターが書くように当時の大社交場になっていたようで、同様なヴィーンのヴィットゲンシュタイン家のサロンの質はともかく規模をはるかに超えているようである。晩年にはナチに接収されてチューリッヒに逃げている。この辺りは、昨今「マン家の人々」で題材となって詳しいようだ。

さて、女性裁判官ヘドヴィック・ドームの娘とこの数学者の子供として生まれた、マン夫人カ-チャの双子の兄弟クラウスは、WIKIでは同名の養子の息子さんの著書で、夫婦関係は名義上で同性愛者だと記してある。同性愛や近親への性的コンプレックスや、その環境が、類を呼ぶのは分かるが面白い。当時の東京での若い恋人などの顔が浮かぶ。トーマス・マンの家族を描いた人気ドラマシリーズは、こうした下世話な話題が満載に違いない。

ヨゼフ・ローゼンストックと言う日本の新交響楽団のプリングスハイムの後任の指揮者もクラカウ出身のユダヤ系ポーランド人であった。先日ラジオで耳にしたのは、マンハイムの歌劇場の音楽監督でオペラ学校の教授であったときにカイザースラウテルンのブルーメンタール出身のユダヤ人女性歌手を育成したことである。

その歌手はヒルデ・マタウフと言い、ナチスに追われて、アルジェンチンに亡命後、そこで歌手人生を成功裡に終えた。彼女の恋人で医師のギュンステンは、ヘッセンのマールブルクに近い典型的なユダヤ人であるグラーデンバッハからナチスに追われて、カイザースラウテンで診療所を開いていた。しかしその後、患者にも横槍が入り、戸口にユダヤの星には描かれるようになる。1933年1月にはプファルツ劇場でヒルデ・マタウフの舞台ボイコット運動が起きるが、フィガロの結婚で地元紙は彼女を絶賛する。1934年には、二人の亡命先の英国で結婚するが、翌年夫はスイスをカイロへと移動中に客死する。一人帰国して1935年にカイザースラウテルンで長男が生まれている。翌年それを最後に南米へと向かう。そこで、オペラ歌手として大活躍して、1954年と1957年の二回欧州ツアーのため里帰りをして演奏会を開いている。2002年4月に92歳でアルゼンチンのマルデルパタで亡くなる。

ヨゼフ・ローゼンストックのプロフィール関連では、あまりクラカウでのユダヤ人のことなど触れていないが、ロシア統治下のポロドメなどユダヤ人排斥運動は、米国や西側への移住を進めたという。それでも職業の自由や居住の自由を持たないユダヤ社会の近代化も進み、一方ナチズムやシオニズムを生み出す準備をすることにもなる。
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止揚もない否定的弁証

2006-10-07 | 歴史・時事
承前)西洋の価値観との共生について、イスラム改革への提言として、先ずは人権について合意が出来るのではないかとする。なぜならばモハメッドは神ではなく、神の教えを告げる一人の人間だからとする。しかしそれ以外のアラブ半島の歴史的なコンテクストには触ることは出来ないとする。そして第二段階として、コーランがモハメッドの死後150年後に人間によって書かれたことを認めることを挙げる。そして三つ目に、女性の婚前交渉の認可が女性の自由を保障するとしている。

この第一段階は、民族の歴史としても文化としても認めやすいテーマであり、西洋としても最も重要と思われる。第二段階は、その書のオーソリティーが保てるものかと不思議に思われるが、法規や規約と考えると可能なのだろう。第三段階の処女性の放棄についてはなにか米国のジャンダー論を見るようでおかしな感じもする。なぜならばカトリック圏においても避妊が暗黙裡に行われ、人権が尊重される限り問題は起こらない。問題が起こったのはエイズによる感染である。

背教行為の実態やエジプトなどでのイスラムからの脱教の傾向がある反面、サウジアラビアなどの保守化は、グローバリズム下の傾向とする。つまり、ビン・ラーデンは来るべきときに現れたとする。反対に、旧僭主国は排撃されるが、彼らの去った国に民主主義の存在しないのは、ヘンリー・キッシンジャーのリアル・ポリティックが招いた災難であるとしている。それらの国では、専制君主の下、失業の民が宗教に曝されて、今後も多数決の民主主義は育たないと観る。

なるほど、彼女がオランダ人であるとすればこうしたリベラルな思考は納得出来るが、石油に頼らず、これらの地域と異なった形で交流するもしくは関係を断絶する方法があったもしくはあるのだろうか?民主主義の多数派の形勢と合議制ということでは、欧米以外で機能している地域はもともと無いのではないか。欧州内に住むムスレムは、フランスを含め経済的な事情があるとしても、今後共存して往く方法はあるのだろうか?

イスラム教の慎まなければいけない法シャリアについて、フランスのムスリム居住地域のスーパーでは豚肉の販売はされていなくて、ワインも売っていない。英国では、貯金箱の豚も不浄なものとして撤去されていると言う。つまり、ムスリムが多数を占めるにしたがって、こうした現象は増えていて、オランダでも議論されるようになっていると言う。

西洋において少数派として差別している限り、多数派の憐憫や同情が示されるのだが、そうした具体性を持たない対応は間違いであり、真実を見ることで大人にならなければいけないとする。先日のローマ教皇の発言に対して、暴力的な反応を諌めた改革派のラマダン氏にしても、片目を閉じて最終的には有耶無耶にしていると批判を加える。

まさしく、これが今や西欧のそれも最も自由な国オランダであって、それほどに自由ではないベルリンにおいては違う方向から議論されるのが現状である。先日のイドメネオ騒動では改めて、ドイツェオパー・ベルリンに人々が集まり、舞台にはドイツ・プロテスタント代表理事長ヴォルフガンク・フーバーなどが居並んだ。そして、この牧師は次のように滔々と語る。

「中止になったイドメネオについて話しましょう。」、

「それも芸術の自由ではなく、自由そのものについてです。」、

「イズミールでこうしたものを語るのではなくて、ドイツで今語るなどと言うことはありえないことなんですよ、それも一握りのイスラムの阿呆どもの不寛容と未開のお蔭だけではないのです。」、

「教皇が凱旋門の上に鎮座するでもなく、イスラムがその暴力を授けると。」、

「もちろんですよ。だれもがノイエンフェルツのイドメネオの終景に腹立てる権利はありますよね。キリストやブッタやムハマドやポセイドンの出番じゃなければ、まあ、例えば私服でですよね。」、

「支配人の彼女が権力中枢の圧力の下で中止を決定したならば、関係責任者に仕えたと言うことになりますわな。」、

「当然のことながら演出は直ぐに再演再開されるべきで、そうして自由と寛容と芸術と信仰を護るのです。」、

この日曜午前中の臨時 教 会 の大スターだったようで、一言一句に大喝采を浴びたと言う。このような浅はかで軽薄な舞台は、一日も早く潰した方が良い。プロテスタントは、モハメッドとの対峙と暴力で弁証法的接触を図るつもりなのだろうか?一体何を恐れているのだろう。

アヤーン・ヒルシ・アリ女史は、誤りを指摘する。西洋がイスラムに対して議論を持ちかけるとき、必ずや戦略としてのものであって、対話ではないとする。つまり、どうした効果があるのか、何を求めるのか、何が生まれるのかが絶えず計算されていると言う。これは、間違いであると明言している。そして、何らかの融合が為さられるには数代の世代交代の月日が必要になるとしている。


再演12月18日、29日に決定



参照:
歌劇の谷町、西東 [ 文化一般 ] / 2006-11-05
リベラリズムの暴力と無力 [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06
キッパ坊やとヒジャブ嬢ちゃん [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06
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和平に満ちた閉じた空間

2006-10-06 | 
イスラム評論家のアヤーン・ヒルシ・アリ女史が、厳戒警備の中フランクフルトのホテルでFAZのインタヴューに応じている。衝撃的な内容である。彼女はモガディシュ生まれのオランダ人で、現在米共和党のシンクタンクに従事している。

宗教としてのイスラム教と、ムスレムの信仰を別けて考えるべきとは、良く耳にする。だがムスリムの平和への誓いにほださえてはいけないと警告して、我々を驚愕させる。彼女は言う、西洋では真実を表明することが全ての前提となり、そこで初めて議論が成り立つが、アラブ・イスラム社会では非ムスリムに対して必ずしも正直である必要はないと言うものである。京都の街中で見聞きするような人間関係である。

ドイツ・ムスリム評議会の議長が日曜の TV討論会で、「ジハドなどは内輪の怖気心を克服する以外の何ものでもない。」と言おうが、若し正直ならば、「最終的には我々の宗教に従うだけで、和平などはどちらでも良い。」と言うに違いないとする。なぜならば、ジハドは先ず自身の葛藤であるのは事実としても、それを実践するために、日に五回の祈り、ラマダンの絶食、メッカへの巡礼があり、そしてその次の段階としてコーランに従う。そのコーランには、イスラムの教えに 従 う 限 り において和平があるとされるからである。

イスラム教においては、宗教と生活に差がないとされるが、全てはコーランとハディースに導かれる。この両書に導かれない全ての知は、ハラム(不浄)とされる。だからアラブ圏では学術書は殆ど訳されないと言う。つまり、啓蒙されたリベラル社会とイスラムは全然一致しない。若し一致と言うような思いがあるならば、それはムスリムとの対峙がなされているのではなくて、問題を霧の中に包んでごまかしているだけなのであるとする。

リベラル社会では、確りした論拠を持って議論をして、打ち負かされれば家へと帰り傷をなめるだけであるが、イスラムにおいては分かつ事無く相手を殺めるだけなのである。幸運にも全てのムスリムがこれに従っている訳ではないとする。しかし、預言者ムハマドに異議を唱えるならば、受容の余地はなく、敵意が向けられ脅しに恐々とすることになる。また、非モスリムがモスリムの同性愛者であるとき、ダーヴァと言う最初のお説教が課せられ、これを拒否すれば七つ目の義務であるジハドが効力を発すると言う。

これがイスラムの教えであると言うことなので、アルカイダの幹部が勧めるように、救われるにはイスラム教に皆で改宗するしかないようだ。つまり、共産党がその暴力革命を旨とするように、イスラム教は暴力による解決を善しとしているので、西欧で同様な警備上の監視がなされる根拠となっている。イスラム教は、信教の自由で護られているだけに過ぎない。

だから、学生が神の教えを真剣に学び、自らそれを両書に求めていくと、西欧のイスラム改革者の美的な言葉以上にビン・ラーデンの行いを求めていくことになる。つまり、多くの支持者がいて、ムスリムならは誰もがビン・ラーデンを理解出来ると言う。

ただ、ムスリムの彼への支持者が多数でないのは、信仰が足りないだけで、だからこそイスラムは教えを変えなければいけないと導かれる。そのために最も欠けているのは、ムハメッドの跡継ぎが殺されたため、預言者としての後継者の人物であり、また理論的な構築だと言う。

イスラムが余りに大きく、伝統的な宗教であるからこそ、我々はこれを聞くと驚くが、良く考えれば、何処の文化圏にもある極右とか極左とか呼ばれる狂信的なグループの原理主義でもある。謂わば、閉じた思考体系の中で真実を突き詰めようとすればするほど袋小路に嵌まって行く思考態度である。これは、宗教やイデオロギーに限らない。むしろ現代では分業化された自然科学的思考にこれが生じやすい。何かに絶対服従の神風野郎たちの精神は、張り詰めて高揚した状態なのであろう。なぜならば、閉じたと思える世界ほどユークリッド空間のように調和が取れて完璧で美しいものは存在しないからである。(続く
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交響詩「彼岸の入り」

2006-10-05 | 
トブラッハでショスタコーヴィッチの第五交響曲が演奏される前に、マーラーの交響曲第二番の第一楽章と知られている交響詩「お彼岸」が演奏されている。この楽章が取り出されて提示されて、1891年10月にマインツのショット社へと送った交響詩としての事実を示すグスタフ・マーラーの手紙が紹介されると共に、交響曲の一楽章として構想された可能性も完全に払拭出来ないとプログラムに述べられる。

こうした形での発表への意思があっただろう事と、ハンブルクへと赴任してから「トリスタンとイゾルデ」の初演者でブラームスを補助したハンス・フォンビュローに聞かせた事が確認される。しかしこの名指揮者の講評は熾烈で、「この聞いているものが音楽としても、それなら私には全く理解出来ない。」と言われる。ブラームスは、マーラーを指して矛盾に満ちた言い方で「革命家の王様」と呼んだ。

この挫折が交響曲の完成に時間が掛かった理由と言われているが、ビュロー自身のハンブルクでの葬祭に際して聞いたクロプシュトックの復活賛歌に感動したマーラーは、「雷に打たれたように襲われた。己の精神に、全ては明晰に明確になった。」と言った逸話は余りにも有名である。

マーラーの綴ったプログラムも有名でしばしば引用されるが、こうした信用に価する催し物のプログラムに載っているので、これを訳してみる。この楽曲のプログラムらしきものは、もともと公表されるべきものではなかったというのも知っておくべきであろう。「幾つかの外面的で、全く表面的なこと」として、1896年にマックス・マルシャルクに私信として書き送っている。

「一楽章を 彼 岸 と名づけました。あなたが知りたいと思われるであろうこの対象は、私のニ長調交響曲で埋葬した英雄なのです。…私たちは、愛する人間の墓前に佇んでいます。彼の人生や戦いや苦悩は、最後にもう一度だけ私たちの心の目の前を通り過ぎて行くのです。私たちの日常の戸惑い、地に伏せたもの全ては、蓋のように掻き落とされるのです。そうした刹那が、日常の行いに麻痺して、そうしたものをいつも聞き逃している私たちの心に、恐ろしい声になって襲い掛かるのです。-そして、この人生とは、死とは、何かと言うことなのです。それは永遠を与えてくれるのでしょうか?これは皆不毛の夢なのでしょうか、それともこの人生は、死は、なにか意味を持っているのでしょうか?生きるためには、私たちはこの問いに答えなければなりません。」。

「彼岸」の基となった連鎖戯曲は、ポーランドのロマン詩人アダム・ミツキェヴィチ(1798-1855)による「DZIADY / DIE AHNENFEIER / 葬礼」と呼ばれるもので、キリスト教以前のスラブ・バルト人の春と秋に年二度やってくる伝統的な死者のお彼岸を言うのである。ボヘミア出身のユダヤ人マーラーにとっては、非西欧的でキリスト教を逸脱するこうした文化は特に興味のある素材であったことが想像できる。そうした素材の引用には、旧約聖書における復活の日の意味よりも、彼らを取り巻く環境である土地に根ざした生活観が強く反映している。旧約聖書的な宗教観の反映よりも世俗的な心情が多く語られるのはこうした文化的背景があるからに違いない。またそのポーランド語をドイツ語に訳したマーラーの友人であるジークフリード・リピナーもドイツ語を喋るポーランドのユダヤ人であり、まさにボヘミア出身のマーラーなどと出身文化圏は相似をなしている。

「葬礼」を仏教用語の「彼岸」と読みかえると、はるかにこの曲の主題のあり方がことごとくシックリとして来て、他の交響曲の葬送行進曲との峻別が認定される。何よりも、こうすることでヴィーン古典派からロマン主義音楽を越えての西欧交響曲音楽の伝統としっかりと糸で結ばれる。その点からすると米国のユダヤ人指揮者バーンスタインのあまりに箴言に富んだ解釈や、ユダヤ系指揮者の部分解説的な解釈が誤りであるのが判る。同様に、この交響曲全体への見通しが俄然明るくなる。

ただ、交響詩から交響曲の完成へと向けて一楽章の総譜が既に存在していたとしても、プローべごとに手を加えられていったとトーマス・マンの義理の兄であるクラウス・プリングスハイムが証言している通り、多くの改訂箇所が存在している。またこの交響曲が、前教皇パウロ二世のお気に入りであったと言うのが面白い。当然のことながら原作の、あの世とこの世が地続きとなり、素朴な規範が描かれ、シラーの群盗のような無神論が登場するこの戯曲を楽しんでいたに違いない。
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アンチのイデオロギー化

2006-10-04 | 
今夏のトブラッハマーラー週間のプログラムを、内容紹介として送って貰ったので、中身を丹念に読んでいる。

この音楽祭の半身である国際マーラー協会の研究発表の場として、生誕百年のショスタコーヴィッチを含む「マーラーとロシア音楽」と、生誕250年の「マーラーとモーツァルト」が本年度の二つの大きなテーマの柱となっていて赤い糸で結ばれる。

その二つ目の柱は、アッティラ・チャンパイ氏が率いる講演の目次などを読むと、マーラーの弟子ヴァルターの「ドン・ジョバンニ演奏」、マーラー演奏家ミトロプーロスの「モーツァルト解釈」が題目となっている。想像するに、グスタフ・マーラーの指揮者としてのモーツァルト解釈や、手を入れたモーツァルトの楽譜が間接的に示されそうな様子である。1942年のニューヨークのメトロポリタン劇場におけるヴァルター指揮のデモーニッシュな表現がキーワードとなっている。しかしどうもこの様子では作曲家の創作への影響にまでの言及には至りそうにない。

十年前ほどにここで初演された友人シェーンベルクがヴェーベルンに指示した室内楽版の「大地の歌」ではなく今回は通常の編成で演奏されている。先日、ヴァルター指揮ヴィーナ・フィルハーモニカーによる1936年の録音をショスタコーヴィッチ全集と同時に注文したので、これについてはポルタメント奏法等の演奏実践などを改めて聞き取ってから、また考察してみたい。

さて、一つ目の柱として2006年の音楽祭の演奏会では、ショスターコーヴィッチの第五交響曲が演奏されている。そのプログラムにあるライナー・ラプシッツ氏によって書かれている楽曲解説が面白い。この曲が1937年11月に初演された状況から、その公式な成功から何を認めるかと言う疑問が呈される。こうして表したいのは、「それ 以 前 の 作 品 に比べて、この曲の無理をしない控えめな見通しの利く音楽に、二重の意味合いや、表現される内容や、音楽的な深い洞察力が決して欠けていない。」とする古典的説明である。当然のことながら見通しの利くテーマ別のメリハリのついた楽曲解説が続く。

二楽章において、本格的にマーラーの作品と対照して「民族風にがさがさとしたレントラーなど、ロシア風に染められたオーストリア交響楽三拍子スケルツォの舞曲的要素は、マーチの中へと転化して、非常事態に作曲家が置かれていると気づかさせる」とする。

「三楽章の弦合唱の慎ましやかな安らぎは、苦悩に揺さぶられる。そこに忍び込むシロフォンの悲鳴は、第一楽章のモティーフであり、第三交響曲で公式にメーデー賛歌と定義されるモティーフであるのは決して偶然ではない。個人の思想と規定されたイデオロギーの中での分裂である。」とする。終楽章の中間部を「善処に向かっての息休めとして、最後には疲労困憊の神格化がなされる。」としている。

亡命音楽家ロストロポーヴィッチなどの大変立派な演奏を聴くとまさにこのままの解釈であり、これはある意味西側で東側のボルシェヴィキ・イデオロギーを聞き取る イ デ オ ロ ギ ー 化 した解釈ではないかと思われる。

こうした意味づけは、鏡に映る像のようなもので右左逆さまな像を容易に結ぶことが出来る。だから同じ像が、ボルシェヴィキ・リアリティーとしても、反共イデオロギーとしても通じてしまう。そしてこうした創作意図があったとしても、それを 音 楽 的 に二重の意味合いを持つものとして解釈できるかどうかの疑問が生じる。(続く)
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モーツァルトを祀り上げる

2006-10-03 | 
積み重ねてある古い新聞の文化欄を眺めていると、覚えのないシュヴェンツィンゲン音楽祭の記事が目に付いた。日付を見ると今年の開幕当時の4月である。

一般的にこの音楽祭は、戦後1952年にSDRの後押しで始まったとされるが、その前史が載っている。書き手は、昨年バイロイト関連で取り上げた音楽祭研究者のシュトゥンツ氏である。

今回初めて知るベルリンの古公文書に第三帝国の芸術政策に対する思惑が記されている。オーストリアのザルツブルク音楽祭に対抗するべく、作曲家と所縁の深いカールテオドール候の夏の宮殿をメッカとしてモーツァルトを祀り上げようとする計画が、宣伝省を中心に進んでいたことが明らかにされている。

宣伝省大臣ゲッペレスは既にハイデルベルクで音楽祭を催していたことから、宮殿にあるロココ劇場の修復に際して、バイロイト以上の音楽祭にしようと画策した。

アルテュール・トスカニーニやブルーノ・ヴァルターという錚々たる巨匠が登場していたインターナショナルなザルツブルク音楽祭を、「ユダヤの魔女の狂宴」、「ヴィーン風俗物主義」、「退廃したカフェー劇場」と呼んだ宣伝省にとっては、安物の第三帝国の芸術を示すわけにはいかなかった。

だから問題は中身で、地理歴史的に関係の強い伝統あるマンハイム国民劇場は宣伝省の主導権を嫌い、時のザルツブルクに芸術的に劣らないものとしてベルリンのプロイセン宮廷劇場に白羽の矢が立った。しかし、プロイセン大臣はゲッペレスにとってライバルのゲーリング元帥であって、具体的協議は難航したらしい。1937年10月に修復計画が決り、1938年1月に宣伝相は野心を持って打診している。結局、ベルリンの劇場の関与が承知される。この件をヒットラー自身が承知していたかどうかは定かでないようだ。

それで、既にバーデン・バーデン郊外のブューラーへ-エでゲッペルスらと会議を持っていたプロイセンの劇場支配人ティーティエンは、世界的評価の高いベルリンの「魔笛」を移転することで異論がなく、出演者の選定へと入っていった。しかし誰が実権を取るかどうかなどなかなか明確にされなかったようである。

指揮者クレメンス・クラウスには既に辞退されていたので、リヒャルト・シュトラウスも候補に挙がる。ユダヤ人妻を持つヨゼフ・ギーレンなども演出家として適当かなどが協議される。最も問題となったのは劇場の大きさが違うための修正で、新演出同様に費用が嵩むことであった。

そうこうしている内に1938年3月のオーストリア併合となり、ザルツブルクはナチの手に落ちる。「マイスタージンガー」で指揮者カール・ベームがデビューを果たし、トスカニーニに代わってクナッパーツブッシュが「フィデリオ」を受け持つ。

余談であるが、指揮者クナッパーツブッシュは、この年残された任務を一手に引き受けたようで、ヴィーナーフィルハーモニカーを率いてルートヴィヒスハーフェンのIG-Farbenカイザースラウテルンを訪れ、第三帝国の統合を印象付けている。

その一方シュヴェツィンゲンでは、カールスルーエ劇場の客演がゲッペルス臨席で1938年1939年と行われる。予定されていたグスタフ・グリュンドゲンスの「魔笛」は、1938年12月にカラヤン指揮でベルリンで上演される。

芸術的質を護ると言う観点から、シュヴェツィンゲンが目指していたようにザルツブルクでもバイロイト同様、劇場外での不細工なハーケンクロイツの旗や総統の胸像を除くとすくなくとも劇場内でのイデオロギーの発露は制約されていたとしている。

こうした事象をみれば、一般的に言われるように、ファシズムのイデオロギーによる芸術への被害は同時期のプロレタリアート独裁に比べ軽度としてよいのかもしれない。しかし革命政権とは異なり、ナチの戦略として、変わらぬ文化圏を誇示することも重要であったことを忘れてはならない。



参照:
名指揮者の晩年の肉声 [ 音 ] / 2006-05-17
知っていたに違いない [ 歴史・時事 ] / 2006-08-24
世俗の権力構造と自治 [ 歴史・時事 ] / 2006-08-09
眠りに就くとき [ 女 ] / 2006-08-07
没落-第三帝国の黄昏 [ 文化一般 ] / 2005-10-21
更に振り返って見ると[ 歴史・時事 ] / 2005-10-09
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