Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

放射冷却の午後に温まる

2007-12-17 | 
朝からよく冷えた。放射冷却で凍りついた。日差しは結構長い時間射したが、少し翳ると寒い。室内と戸外の温度差は摂氏20度近くとなる。陽が出ている内にと思って、セーターにチョッキを着て、手袋にマフラーで飛び出る。

一時間ほど歩いた。水溜りは融けかけていてもまだ凍っている。穏やかな天気で零下三度までぐらいなのでそれほど寒くはない。歩いている内に先日飲んだワインの区画が気になったので色々と想像を巡らしてみる。同じウンゲホイヤーと呼ばれる地所でも多きなだけに区画によって出来上がるワインの質が異なるからである。

また、廉く手摘みで美味そうな一リッター入り瓶ワインのオファーがあるので、試飲と購入計画などつまらない事を考えながら散歩するのである。

年内に何リッター飲むか、年明けに何が何処の醸造所からオファーになるかなどを考えて、日常消費用のワインの消費を考えるのである。今週買ったワインはどうなるのかが気になる。早まって買い過ぎなかったか?

否、来年一月末までに売りに出される日常消費ワインはそれほど多くはない。つまり、一月分は確保しておくべきなのである。

年末までに二種類を交換しながら楽しんでみよう。昨年は作柄が悪く出来なかった贅沢なのである。新鮮なうちは単純なワインでもなかなか飽きない。年明け早々にまた新しいワインを楽しめば、暫らくはもっとも廉価なワインだけで楽しめる。それらが美味ければなにも古い高価な発砲ワインなどは諦めても良い。2007年は良いヴィンテージであるのだから。要するに昨年と異なり同じ価格でどれを飲んでも美味いのである。

あまり、安物を買い置きしておきたくないのだが、旬はそのときしか味わえない。二月になればどうしても狙いが絞られて来てしまうのだ。だから一月末までの購入計画が必要になる。

寒い戸外から戻って来て、ゆっくりと風呂にでも浸かりと思ったが、先ずは内側から温まるべきと、そろそろまた一本スクリューキャップのリッター瓶を開栓する。自主規制アルコール解禁時刻の6時にはまだ三十分ほどあるが良いだろう。埃臭い匂いが気になるが、ラウゲンブレッツェルにこれまた美味い。今日の献立は、七面鳥のグリルに小ギャベツを付け合わせたものだ。クリスマス用の木の実のパンがまた美味そうだ。外は急に冷えてきた。
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肉体に意識を与えるとは

2007-12-16 | マスメディア批評
承前)イーゼンハイムに描かれたあの茨を被った十字架上のイエス像も寝棺のイエス像も幾つか展示されていた。フランクフルトから更に作者の生まれ故郷と推測されているヴュルツブルク方面にマイン河を遡るとアッシャッフェンブルクがある。そこで1525年頃制作された「嘆きの寝像」が興味深かった。依頼者であるマインツ司教ブランデンブルク候アルブレヒトの紋とお棺のスポンサーであるエアバッハのディートリッヒの紋が左右に大きく描かれていて、マリアの手がイーゼンハイムのそれとは異なり抽象化されている。

また受難の1510年以前の図柄は、初めこそは客観的にメシアであることを見届ける隊長がマリアとヨハネらと共に黒い背景を持って描かれているが、約二十年後の大きな杉の木版に描かれたタウバービショップスハイムの祭壇画の像は、もはや黴生した色のイエスと十字架の左右にマリアとヨハネしか存在しない。それは、14世紀終りからの受難・敬虔文書を踏襲していると言う。その背面は、ここカールツルーヘのスタッフによって修復された十字架を担ぐキリスト像であるが、それを写すのは福音書の記者ならず、TVカメラにて克明に写される市中戦争シーンのようである。それを観察する我々は、カウチでポテトチップスを齧りながら観ているのと変わらないのではないか?

その構図や表情などからこの芸術家グリューネヴァルトの位置付けをしていくと面白い。少なくとも、シンメトリーの伝統を覆した構図から、後期ゴシックだルネッサンスだとプレートを掲げた引き出しに、同時代の芸術家と選択整理してしまうよりは、それは価値があるだろう。そしてそれを、受難の恐怖のリアリズムとして現在に至るまでのあらゆる表現技法を体現しているとするか、即物的な表現主義とするかはもはや重要ではない。

同じフランクフルトのヘラーの委託作として、良い比較対象となる大きな手の表情のみが描かれている有名な「ある使徒の手」などを見ればデューラーの意識は何処にあったのか、とても分かり易い。同時に、今回展示されていたその芸術家の制作した若い女の頭部の精妙さが、その極みを越えて如何なるCGよりも3Dな映像となっている習作の技巧が、その意識の存在を描いているのである。それを即物的とは誰も呼ばないだろう。

しかし、グリューネヴァルトにおける職業意識から来るとされる十字架の嵌め込み竿構造への技術的な視点や対象物への関心は、作者の主観がそこに投影されるように意識が向いている。それは具体的には、受難の場面を他の同時代人の絵画に見て行く事によって、その相違が把握できるようになる。これが今回の展示の表の焦点であった。例えば、グリューネヴァルトに影響を与えているアルトドルファー受難風景をみると、そこにはヨハンもマリアも既に居なく、その場にとり残されたマグダレーナの悲哀な後ろ姿が見る者を内省させる。つまり同情の強制とは違う理性的な意識の推移の要求である。その背景に広がるのは中央スイス、ルツェルン近郊の風景のようで、高い空の下で取り残された茫然自失の心理が推測される。反面、磔の骸は、背景の自然に包まれて形象化されてしまっている。

絵画的な構図の分割や焦点を分析するまでもなく意識の在り処を追っていくと、デューラーにおいてはより一層拡がりをみせて、兎のそれにまで意識を廻らす必要が出てくるように、これは近代において充分に注目された。それに対して、そのプロポーションは、グロテスクな強調を避け古典的な美に中に受難像が落ち着いていることを挙げておかなければいけない。それゆえに、このグリューネヴァルトの大胆な受難像は特別な意味を呈している。

反対に、ハンス・バルテュンクもしくは通称グリーエンそれは、グリューネヴァルトの表現法と殆ど変わらない。黒く背景を潰し、茨を被った頭を傾げた昇華されない非常に主観的なイエスの表情を観察者の我々は見せられる事になる。殆ど魔女信仰や黒ミサを思い出させる。

そして、もっともルターに近かった存在としてのルーカス・クラナッハの受難図はとても面白い。つまり、そこに描かれる森や背景は、身近にあるゴルゴタの丘と化し、題材の登場人物とは主観的には無関係かもしれないが、それゆえにその悲嘆をマリアとヨハネのつまり観察者の我々に身近に認知させる。つまり、受難の悲嘆以上に我々の存在している環境つまり世界を意識させることで、その聖書の受難が抽象化されると同時に自然の中に立つ人間の現実世界を具象化させる効果を生む。些か説明がややこしいが、エラスムスやトーマス・モアの肖像画でも有名な子ハンス・ホルバインの受難像は、それに比べて遥かに明確な視点の相違を教えてくれるだろう。それは、十字架の左右に立っていた二人が、イエスと向き合う姿を横から捉えた1516年の作品である。これは、我々観察者と制作者に冷静な第三者の視点を与えて、人間的な調和の取れた感興を与えるのではないだろうか。そしてその背後には自然な市民的な環境が大きく広がっている。

再び、グリューネヴァルトのヘラーの聖壇画の聖人達に目をやれば、作者からずらされた目線は、我々を覗かせる結果となっている。つまり、何処までいっても、その美しい衣装と共に、我々観察者を対峙させることはない。観察者は、その空気を感ずれば良いだけなのである。決して挑んでは来ない。それは、イーゼンハイムの生誕から受難や昇天までの情景にしても変わらない。情動的な影響は、即物的な肉体に、その観察者の主観の視点を与えることで得られるのである。

プロテスタントへの傾向からマインツを追われ、フランクフルトで仕事をして、新教のハレへと赴いたが、一年も経過しない内にこの地上から追われる。何かハレでの短命もこの芸術家の生涯の信条や世界観を反映しているように思われる。(終わり)



追記:上のリンクを検索中に欧州最大級のソフトウェアー会社SAPのあるヴァルドルフのルドルフ・シュタイナー協会による人智学サイトに巡りあった。そこのギャラリーにある画家の名前を列記すると面白い。アルマ・タデマ、ウイリアム・ブレーク、ボッシュ、ボッティチェッリ、デュラクロワ、ドーレ、ジョン・フラクスマン、ヨハン・ハインリッヒ・フッスーリ、ラファエロ、レンブラント、ミレー、フレデリック・レイトン、グスタフ・モロー、フィリップ・オットー・ルンゲ、ジャンアントワーヌ・ワットー、ジャンファン・ヒューサム、そしてターナーやベックリン、ルドンはグリューネヴァルトに並んでどうしても欠かせないようだ。
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しなやかな影を放つ聖人

2007-12-15 | 文化一般
グリューネヴァルトとその時代」と称する展覧会を訪ねた。グリューネヴァルトはその表現主義的などげつさで敬遠していた芸術家であり、有名なイーゼンハイムの聖壇画はコルマーに行けばひっきりなしに訪問者が絶えない有名芸術品である。年間三十万の訪問者数に世俗化以外の何物でもない事実を確認出来るだろう。しかし、何度もその前を通りながら車を停める機会を持たなかった。それはバーゼルの美術館のベックリンなどの名画の場合も変わりなく、そこを訪ねながら鑑賞する機会を今まで作っていない。

しかし今回は、そのコルマーのウンターリンデン美術館とカールツルーヘの美術館の共同プロジェクトとして「史上最大規模のグリューネヴァルトの展覧会」との見出しに躍らされて、先ずは開催一週間以内に訪れた。

アルザスの展示の場合は、その有名な聖壇画の制作行程を知ることが出来るスケッチなどの前作品がルーヴルなどから集められていて、カールツルーヘではグリューネヴァルト時代のライヴァル画家の作品がモティーフや技巧などを軸にして集められた。

グリューネヴァルトの作品だけで19作品の展示数は、現存する作品の四分の一にあたる。他の同時代作品を含めて、160作品ほどが全部で九室ぐらいに別けえられた展示であったが、二時間ほどかけて鑑賞した。

グリューネヴァルトと呼ばれる芸術家の本名こそは知られているが、同時代のデーュラーなどとは比べられないほど、その情報は限られる。水道関係の技術者をしていた著名な芸術家だったようだ。

しかし、今回の展示会で二百年以上振りに一同に会したという四点の聖壇画は、ヘラー聖壇画と呼ばれフランクフルトの裕福な布巾屋がデューラーなどに依頼したもので、その白黒の画はイーゼンハイムのそれの印象にへきへきする者をも唸らしてくれる今回の目玉となっていた。

その1511年ごろに描かれた四人の聖人は、そのモデルとなった娘達の活き活きした表情を堪能できるのみならず、殉教の聖人達をことのほか素晴らしく描いている。当時のイッセイミヤケの衣装と呼ばれる流行のエレガントな細かな襞の入った裾長のスカートの風合いの描写は超一級の芸術以外の何ものでもない。裾のフリルもが空気を以ってそよそよとそよぐのは、そのスカートに限らず手に持つ細い長い葉やら足元の植物学的な繊細な描写の下草が、淡く影を添える月の光にそやそやとしているのにも見られる。その適当な湿り気の大気は、作者の感興と共に五百年前の香りを届けてくれる。

左下に置かれるフランシスコ会に尽くし清貧で殉教した聖エリザーベート王女は、なにやら物乞いをしているようだ。その上には、聖ローレンティウスが躍動的である。

因みに右上に置かれた聖シリアクスは、医師でありエクソシストとなっており、癲癇の子供を治療する。また、その遺骨がロルッシュからヴォルムスへと移された所縁からかプファルツではワイン農家のパトロンとされているらしい。

カールスルーヘの州立美術館は小さいが、憲法裁判所などに囲まれていて、宮殿の端に位置している。そこへの道筋は、至るところ交通違反カメラが設置されていて、通常の許容範囲の半分ほどの制限の厳しさで、更に路上駐車は一時間のシュートステーしか認めない。それでも充分な駐車場が方々にあるので無理をせずに駐車する。三時間で4.50ユーロは許容範囲である。(続く


追伸:上のリンクの写真では残念ながら実物の感触は伝わらない。



参照:
Grünewald und seine Zeit (Begleitheft)
Das unergründlichste Lächen der Geschichte, Konstanze Crüwell, FAZ
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木の実パンで乾杯

2007-12-14 | ワイン
ここ暫らく新鮮な野菜を食していなかった為か体がだるい。ワインやザウワークラウトでは補えないものもあるだろう。

先日は、醸造所フォン・バッサーマン・ヨルダンのヘアゴットザッカーを自宅で吟味する。酵母の味が、すき焼きのすれた匂いのようで、あまり良くない。昨年の2006年度産が一時的にしか良くなく、近過去的にもこの程度である。もともと、この地所は広いだけに区画差もあるようで、全体としては特別な土壌でも地所でもない。しかし、なかなか魅力的なワインを醸造している所も多いので、この名門の区画が特に優れていないことを物語っている。決して悪くはないが、価格に比べて特に良くはない。

そのヘアゴットザッカーの区画が良いのか、素晴らしく醸造しているのが、フォン・ブール醸造所である。2006年も素晴らしかったので2007年度産の発売が待ち遠しい。

その2007年産のフォンブール・キャビネットを試飲購入した。店で試飲した時は、抜栓ご時間が経っていたのかあまりよくなかったが、帰って来て開けるとやはり良かった。2007年産の酸が強く立っていて、酵母の香りを吹き飛ばす。香りや味の傾向は、ヘアゴットザッカーなどに近いが、フォルストのウンゲホイヤーなどが交じっている。想像するにラインヘーレもかなり交じっているような感じもする。

今晩は、クリスマス用のナッツの入ったパンをこれで楽しもう。
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「ファウストュス博士」索引

2007-12-13 | 文学・思想
否定の中で-モーゼとアロン(1) [ 文学・思想 ] / 2005-05-02
主人公レーファークーンのモデルとなるシェーンベルクの宗教感と否定的弁証について。


トンカツの色の明暗 [ 生活 ] / 2005-07-11
プロテスタンティズムが齎した啓蒙思想とその人格形成における教養小説と誤解するマンの作品の読者。


吐き気を催させる教養と常識 [ 文化一般 ] / 2005-08-18
通俗的な趣味がステレオタイプの教養となる芸術趣味と常識。


言葉の意味と響きの束縛 [ 音 ] / 2006-04-15
テキストを伴う音楽とマンに助言を与えたアイスラーの影響。


在京ポーランド系ユダヤ [ 雑感 ] / 2006-10-08
マンの義父である数学者プリングスハイム家のミュンヘンでの社交界風景。


世にも豊穣な持続と減衰 [ 音 ] / 2006-12-09
速読を通して考える言語の音声機能と音楽教師クレッチマーの語る平均率と純音程。


ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11
ルネッサンス音楽における思弁的で数学的な宇宙の摂理を説く音楽教師クレッチマー。


自由システム構築の弁証 [ 雑感 ] / 2006-12-16
自由経済システムの構築に寄せて自由な構造主義的システムを考察。


ザーレ河の狭間を辿る [ 文学・思想 ] / 2006-12-25
第11章のハレ市と大学を舞台としてルター派と敬虔派の争いと故ヨハネスラウ前大統領に見る敬虔主義者(メソジスト)の平和主義。


一欠片の幻聴の流れ [ 雑感 ] / 2006-12-28
ラジオの朗読と文節の意味する弁証法的意識の対位法の流れの響き。


明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
第二章から、第三章の主人公の父親の記述とクライマックスの再読とシェーンベルクのサンタ・バーバラ校等での「ファウスト博士論争」講義。


川下へと語り継ぐ文芸 [ 文学・思想 ] / 2007-01-21
時系軸をおいたコラージュ風な物語の展開とメーキング・オブ・ファウスト博士への言及。


でも、それ折らないでよ [ 文学・思想 ] / 2007-01-26
ロマン派と象徴・表現主義へのパロディーとしての「魔の山」と「ファウストュス博士」への流れ。


暖冬の末に灯火親しむ [ アウトドーア・環境 ] / 2007-02-18
破局の将来を見る物語に思想的背景への考察。


詩的な問いかけにみる [ 文化一般 ] / 2007-07-09
サイモン・ラトル卿のこの作品への言及。


兄弟の弁証法的反定立 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-22
第九交響曲のこの作品における言及を活かした音楽評を読む。


想像し乍ら反芻する響き [ 文学・思想 ] / 2007-10-06
ラジオ放送一回目における感想。


古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
ラジオ放送二回目の内容とブレンデルによるベートーヴェンのソナタ演奏を平行して聞く。


音楽教師の熱狂と分析 [ 文学・思想 ] / 2007-10-12
音楽教師クレッチマーによる後期ソナタの楽曲解析とこの作品における意味合い。


容易にいかない欲張り [ 文学・思想 ] / 2007-10-19
ドイツ文明の運命とその特徴に言及する第十章から始まる第三回放送。


つい魔がさす人生哲学 [ 文学・思想 ] / 2007-10-20
ドイツ語の明快さに潜む魔を描く第三回放送に出場する教師などを通した考察。


純潔は肉体に宿らない [ 文学・思想 ] / 2007-10-28
第四回放送における性的経験への第三回放送での考察の復習とその筋の進行解析。


PAの瞼に残るプァルツ [ 文学・思想 ] / 2007-10-30
ペンシルヴァニア出身のクレッチマーの音楽的故郷エバーバッハの訪問に因んで。


パフォマー心理の文化性 [ 音 ] / 2007-11-04
声の扱い方への見解をヘーゲルの美学などを踏まえて検討。


自由の弁証を呪術に解消 [ 文学・思想 ] / 2007-11-05
二十一章から始まる第五回放送に、無調からセリー音楽への流れに第一次世界大戦の敗戦を平行して見る。


親愛なるキーファー様 [ 文学・思想 ] / 2007-11-09
新発見されたマンの手紙にみる作家のヒューマニズムへの意識の変化。


それは、なぜ難しい? [ 音 ] / 2007-11-10
音楽教師クレッチマーの言う宗教に変わる形而上の芸術の意味を、カンタータの演奏会にて考える。


吹雪から冷気への三十年 [ 暦 ] / 2007-11-11
「悪魔との会話」が描かれる二十五章を聞き、「魔の山」以降の作品の文学価値に思いを馳せる。


呵責・容赦無い保守主義 [ 文学・思想 ] / 2007-11-19
第七回放送で扱われた保守主義とファシズムの意味を検討。


肉体化の究極の言語化 [ 文学・思想 ] / 2007-11-25
三十二章から三十七章が語られた第八回放送における小市民社会とその逸脱の意味の考察。


ほんま、なんてないこった [ アウトドーア・環境 ] / 2007-11-27
作品における方言の使用とその意味を検討。


民族の形而上での征圧 [ 文学・思想 ] / 2007-12-02
容赦ない保守主義者ブライザッハーのモデルゴールトベルクとその思想についての学習。


既視感と焦燥感の恍惚 [ 文学・思想 ] / 2007-12-03
三十八章から四十二章を扱う第九回放送における連続非連続時間と空間の心理効果の言及。


永遠に続く生の苦しみ [ 文学・思想 ] / 2007-12-09
最終回放送の破局構造への考察。

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脱構造の日の丸の紅色

2007-12-12 | マスメディア批評
寝不足である。なぜならば、YOUTUBEで荒川静香の映像を幾つか熱心に観てしまったからである。NBCの映像は、共同映像の反対側からの映像のようだが、全体的な印象は変わらない。何故今頃、急にと思うかもしれないが、トーマス・マン「ファウストゥス博士」、ヘーゲルの美学、グローバル市民社会、シュトックハウゼンの前衛と来ると、これが皆ここに収斂してしまったのである。

荒川静香に関しては、トリノオリンピックの生中継の一部とその前の選考選やその後の写真等でイメージを固めたものでしかない。もちろん世界のスポーツ報道関係者のような定まった印象もない訳である。それでも競技以外の情報などから様々な漠然とした定まらない印象を得ている。

そして何よりも、FAZ新聞に掲載された日の丸から顔を覗かせる表情は鮮烈なものであり、日章旗嫌いの人間にも美的な印象を強く残した素晴らしい写真であった。それを捨ててしまったのは悔やまれるが、あの紅色と高潮して薄っすらと赤味の射した表情は忘れられない。

米NBCの中継者などが示した自然な美的な感動は、俗にある日本趣味やエキゾティズムへの賛歌とは一線を隔している。そのように広範に訴え掛ける美に興味を持った。そして、NHK制作の有名人が「母校を訪ねる番組」のダイジェストなどを観て、その核心が、どうにか重く頭痛気味の思考にも幾らか呑み込めた。

向けられた対象に想像力を一杯に働かして得る個人の個性などよりも、出来る限り抽象的にその現象を捕らえる時、またそれを許すクールさが本人の人格から伺えるとしても、先ほど逝去したシュトックハウゼンの前衛を貫いた人格などと重ね合わせる事が出来るのである。

その基本には、やはり肉体を制御して動かすスポーツが存在して、あのオリンピックの最後の演技などを観ていると、合理的な無駄のない動きが殆ど古臭いような古典の調和をイメージさせる。それを、容易にギリシャ的な美とかオリンピック精神とか評してしまう積りはないが、そこに即物的でありながら精神的な調和を見るのである。

さてこうした即物な精神活動要するに合理的な肉体の動きこそが、そのNHKの番組でモットーとして示されていたそれを司る動機「自分一人のためでなく」と言う意味に深く繋がっている。しかしその番組のダイジャストを観る限り、どうしても月並みで詰まらない社会規範のような道徳心へと流れがちになるのだが、その一方、思慮深い聴視者は執拗に本人の口から強調される「皆からの力」に関心が向ったのではなかろうか。

そしてそれは少し間違うと、精神論的な心霊的なオカルトにしかならないが、それは明らかに「自己と他者との関係における反照」としての知的で覚醒した認知として捉えられることも出来る。誤解を恐れずに言えば、そこにあるのは、プロテスタンティズムの延長にある「一人、空に対峙する」ような、外界からの反照を通して、はじめて自我をそこに定義するような二十世紀の哲学である。

シュトックハウゼンの衣装としての前衛とその「前衛な自我」についての示唆がコメントによって与えられたが、その訃報の新聞評にもあるように、そこで必要となる筈の対峙こそが、魅力とエゴイズムに彩られた子供っぽい世界観としてすりかえられてしまったとすることも出来よう。そこに使われる子供っぽさと言うのは、同僚の作曲家ブーレーズが評するような知的な芸術家に対しての評価としては、どうしても否定的な言葉でしかない。そのように考察を進めていくと、社会における前衛の位置付けも可能となる。

そして、トーマス・マンの作品で語られ、今現在我々読者が関心を持つのは、そこで描写されている独善や隔離された観察であって、まさに前衛によって進められた構造主義的な思考への信仰告白の姿であった。

このように眠い脳で暫し考えを進めていくと、所謂倫理とか規範と言う衣装を脱がしていくと、その核にある如何わしい姿が明らかになるのである。しかし、それらには、覚醒を避けて自己と対峙しない人を安心させてその日までを送らせてくれるモルヒネのような効用が見られる。それは、信仰と呼ばれる如何なるものにありえる。

また、そこではその社会を安易に上から値踏みする誤りが示唆されていて、西洋に限らず外から中央集権的な日本国などを見た場合、あのような自我の確立した誰もが理想とする若いスポーツ選手の精神と肉体が「田舎 ― 表面的に西洋化してすっぽりと意思の流通のグローバリズムの環に組み込まれている都会でないものを指す」から現れた驚愕の声が発せられる。それをして、日本的だ、そのものだと叫ばせる文化的な背景が説明され、ステレオタイプなイメージを越えることではじめて発見される要素となっている。

そしてそのような月並みなイメージから逃れられないのは、なにも月並みな人間のみならず、大遺伝子学者ジェームス・ワトソン博士などでも変わらない。黒人の知能を学術的に蔑んだのは良いが、自らがその黒人の遺伝子情報を予想の1%に反して16%も保持していて期待されたアジア的な情報は9%にしか至らなかった、本人にとっても至極満足の出来る結果となっている。なるほど、新聞の写真は、肌色が黒っぽく、鼻も横に開き気味である。

つまり、これは民族にも言えて、例えば日本と言う社会を自ら説明する言葉や主義などが無用であり、衣装を剥ぎ取ってそこに残るのは「ある理想」でしかない事を語っている。その理想像が上で言及した写真であり、それはどのような上からや外からの主義主張や構造などでは実体化出来なかった肉体を獲得している。

しかし、そのように依存しなければいけないひ弱な社会は、西欧社会にもれっきと存在していて、なにも隣町まで三キロどころか数十メートルもいかないでも、なんらかの教えに従わなければ生きていけない普通の人間が生息して、それらが集まって共同体を形成している。そこでは、どうしても月並みな必要悪の概念が交換される事となる。

話をここまで引っ張ってきたからには、さらにハーバーマスから社会学者ニクラス・ルーマンへと視界を広げ、その思考スケッチのようなメモカードが、このほど遺族と大学の間で話がまとまり、系統的に学術資料として整理されることになったことを余談として書き置く。



参照:
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
民族の形而上での征圧 [ 文学・思想 ] / 2007-12-02
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スッキリする白いキョゾウ

2007-12-11 | マスメディア批評
朝からスッキリしないので、お客様相談室に電話をした。ドイツェテレコムの技術苦情係である。ネットの苦情であるからあまり気分は良くなく、どうしてもそのような声色になってしまうが、対応した若い男性は上手に対応してくれた。結局、その場でサーヴァーサイドを調べてくれて、問題のないことが判り、気になっていたルーターに疑いが廻って来た。余計に気が優れないが、電源を抜いてその場で試すように教示を受け行なった。ここまで来れば、その事情が飲み込めたので、試してみて問題があれば再び電話すると言う事にした。先方は透かさず、明日まで有効な速度の早い他の契約を勧めた。先ずは解決してからと言うことで電話を切った。なるほど、電源プラグを十秒ほど抜くことでメモリーに一杯になった要らぬ情報が消えて、再び順調になった。ここ暫らくコメント欄に多い所では五重にも書き込む誤りのように、ご迷惑をお掛けしましたが、これにて解決した。そして、ルーターの問題はまたまた良い実体験となった。

どうもスッキリしないシュトックハウゼンの訃報の扱いも、本日の紙面で解決した。死亡の連絡自体が正式にメディアに届いたのが初めて金曜日の晩になってからと言う。それをして、家族・近親・取巻きを除いては、その死を公にしない「隔離」と説明している。

ビートルズの「サージェントペッパー」の舞台袖に代表されるようなポップ業界での名声と、現代音楽を象牙の塔から引き出して大衆に訴えかけた酋長としての役割を述べて、その魅力と子供っぽい手に負えない想像力をして、大変なお商売熱心で狂信的な排他性と呼び、本来ならば遠に「お商売」から足を洗っていても良かった筈と評する。だからこそ、歳相応に見えなかったその死は、これからだったのに?と思わせるような驚きを与えたのだとしている。

その遺作の巨大作品「リヒト」にも勿論触れているが、個人的には2001年10月ベルリンでのケント・ナガノ指揮「プンクテ」とその話題の「リヒト」から「土曜日」のピアノ曲もしくは「ルチファーの夢」の演奏会での遭遇と、目に焼きついた巨体の白装束の作曲家の姿を思い出す。演奏会前の講演には遅れてしまったのだが、問題の発言が質問されたかと思うと大変残念である。しかし、それゆえに1981年の作品であった上の曲の既に陳腐となったパファーマンスの古臭さと、あの発言の真意が結びつくことは今後ともないのではないかとは、幾分客観的な視点を獲得出来ている。

そして、この発言に関して再びこの新聞記事に目を移すと、後輩のヴォルフガンク・リームの発言「シュトックハウゼンの習合的な宗教観や世界観が、何れにせよ日常の言語に先ず翻訳される必要があったなら」と、今日に至るまでそして今後とも永遠に議論とはなりようがない該当発言をして、芸術家が暴力的でありえる可能性を考察する。

しかし、そこにある仏教や幼稚な二項対立の ― 天使ルチィファーを取巻く作品に表れる ― 迷惑でエゴイスティックな信心を解析して、例の発言を「悪の力そのものの、そして全てのものの救済を、音響と共に戦った」と友好的に翻訳するが、その発言内容のように彼が謙虚であったことなどは一度もなかったと揶揄している。そして、それに続けて17歳の孤児が学業を終えてメシアンの下で修行して若くして頭角を顕し、ブーレーズ、ノーノと並ぶダルムシュタットの三巨星として、またセリエル音楽の細胞として、その一角を担う場面を紹介する。

同時にそれは、汚く薄汚れた1946年以前の伝統と手を切る姿勢としての一貫性を挙げることで、上記の「プンクテ」などに代表される初期の作品を間接的に批評している。まさにこの部分が、ストラヴィンスキーなどの影響を受けた作品を放棄または呪い、後に自害した先輩のベルント・アロイス・ツィンマーマンなどとの相違を図らずも浮き彫りにしている。

ハンス・ヴェルナー・ヘンツェとの比較で始まる大きな写真と殆ど一面を使った文化欄の記事は、物理的な概念をもった進歩信仰に始まった古い前衛もしくは現代音楽の、白い巨象もしくはドイツの大作曲家の死として伝えている。更にこれに付け加えることはないだろう。関心のある読者は、これでスッキリとしたのではないだろうか?



参照:
Der weiße Elefant der Neuen Musik, Elenore Büning, FAZ vom 10.12.07
善意と悪意と (買ったら全部聴け)
シュトックハウゼン追悼企画、シュトックハウゼン作 (妄想的音楽鑑賞)
シュトックハウゼン 死去 (Ganze Lieben, Ganze Freuden)
Continuum by Rainer Brüninghaus (夕暮れ時の空の色)
異質なものに包摂されること (庭は夏の日ざかり)
音という奇跡 (無精庵徒然草)
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待ち焦がれた破局の興奮

2007-12-10 | アウトドーア・環境
原子力発電所の近くの住民に子供の白血病が増えるとの報告が出た。早速ガブリエル環境相は、原子力発電所の環境汚染と健康被害の実態を調査・再検討する方針を打ち出した。

サイエントロジーが漸く禁止となりそうである。ネオナチ団体の禁止もなかなか進まないが、影響範囲が小さく弱い内に禁止することで、虫歯のように根絶してしまうことも重要である。本年開館したベルリン本部には訪れていないトム・クルーズだが、映画撮影の合間にシャルロッテンブルクの教会にはお忍びで通っているという。

戦中世代の戦後西ドイツを代表する作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンが死亡したと知った。新聞で大きく報道されることも無く、その訃報には気がつかなかった。晩年の特に「2001年9月11日芸術発言」から、干された傾向がこうした扱いに反映しているかもしれない。

その作風や芸術的価値とその扱いの妥当性についての議論以上に、その問題となった発言を振り返ってみると面白い。ハンブルクの記者会見で、事件直後、彼は語っている。

「あそこで起きた事は、― 今あなたがたは発想を転換しなければいけないのです ― 偉大な芸術であり、それがなされたのです。ある行動をなんでも貫徹することは音楽においてなかなか夢想することが出来ないもので、連中は十年間も狂ったように訓練して一つの演奏会に全てを懸けて死ぬのである。これは、宇宙に存在するものの中で最高級の芸術作品です。想像して御覧なさい、あそこで起きた事を。つまり連中は一つの上演に集中して、一瞬の内に五千人の人々が復活に追い遣られるのです。こんなことは私には出来ません。作曲家としてはお手上げです。想像して御覧なさい。私が一つの作品を創造して、あなた方は驚愕するのみならずその場で死ぬのですよ。死んで復活するのです、なぜならばそれはあまりにも狂っているからです。芸術家の幾人かは、それでも考え得る限界を越えて突き進む可能性を試みているのです。そうして、覚醒して他の世界を開くためにです。」

事件の驚きのなかでの発言としても著名芸術家としてはあまりにも稚拙な表現に違いなく、その後の英文での釈明もその立場からすると全く見当外れである。この芸術家の個性と言えばそれはそれまでだが、ここから少し異なる視点も得る事が出来よう。

つまり、あの事件をお茶の間で観ていて、興奮のあまり手を叩いた善良な市民は世界中に少なくはない筈である。それらはビンラーデンの親派とかイスラム者とは限らず、あのニューヨークの威圧する摩天楼が一瞬の内に瓦礫の山と化す破局は、多くの市民の深層心理において、「未だか未だかと待ち焦がれていたこと」でもあるからだ。そうした、心理をもっとも上手に政治的武器としたのが子ブッシュ政権とその取巻き連中であったことに留意しておけば、その後の世界情勢や今も引き続くテロ対策の全貌を静かに見定めれるのではないだろうか。



参照:
悪夢の特命潜入員 [ 雑感 ] / 2005-09-01
デジャブからカタストロフへ [ アウトドーア・環境 ] / 2005-02-19
核反応炉、操業停止 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-05-27
悪は滅びて、善は光り輝く [ 歴史・時事 ] / 2005-09-05
現実的エネルギー政策 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-10-18
温暖化への悪の枢軸 [ マスメディア批評 ] / 2006-11-17
不可逆な一度限りの決断 [ 女 ] / 2006-01-25
人命より尊いものは? [ 生活 ] / 2007-12-06
永遠に続く生の苦しみ [ 文学・思想 ] / 2007-12-09
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永遠に続く生の苦しみ

2007-12-09 | 文学・思想
ラジオ放送「ファウストュス博士」の最終回である。放送の録音をその後思いのほか時間を掛けて編集整理して、更に原文を捲り、改めて聞いている内に、直後の感想から随分と変わっていった。

それは、あまりにも情動的に一気呵成に破局へと至る描写から、もう一度物語を振り返って、その構造に潜む効果に気がついたからである。端的に表現すると、この作品自体が、アドルノ自身の論文を参照しなければ連想以外には何一つ語らない音楽議論の、その構造を読者に示唆することで、文章による芸術表現としての構造化の試みに立脚しているからである。

一部論文などでは時間による入子構造が論じられているようだが、それは、こうした破局の表現としては、どうしても時間の非連続性の表出が不可避なので、当然の帰着であろう。それは同時に過去から過去を扱う場合、もしくは現在の読者が異なるパースペクティヴでその語り手の言葉を読むとき、突然過去の過去から将来を見る視点と同時に過去から現在、現在から将来への視点が生まれることだけでも言及しておきたい。

その破局の状況は、例えばヴァイマール郊外のブッヘンヴァルト強制収容所の解放と連合軍がそこに市民を招集した史実として述べられる。それを、我々はハリウッドの映画人が一部始終を撮影した映像として観ていてよく知っている。そして語り手は、1945年4月のこととしてこれを語り、「焼かれた肉の死臭を嗅ぎながら知らぬ振りを通した、ヴァイマール・クラシック文化を愛でて、啓蒙された中部ドイツのプロテスタンティズム本流の善良な市民の絶望」として、もしくは千年のドイツの歴史の全否定として、今後とも消し去れない恥として言及する。ドイツ民族は、ユダヤ人に代わって支配されてゲットーに暮らすべきか、それとも将来など一体あるのかと懐疑する。

永遠に続くであろうこうした苦しみが、主人公が最後に愛した五つになる甥っ子エコーの死から主人公の死に至るまでの生きる苦しみに重ねられる。スイス方言を話す天使のような無垢な子供の姿は、書き言葉を越えた話し言葉の世界の、要するに肉体と精神の未分化な姿であるかもしれない。それは、その名が示す音響的な「形而下の物理現象としての認識」の存在である以上に、敗戦に至ってドイツ文化とその言語の野蛮なシステマティックな文法に支配された肥大化を嘆き、金輪際「ドイツ語によって詩を書くことはならない」とする「形而上の文化」への絶望的なアンチテーゼとなっている。

脳炎に苦しむ痛いけな子供がモルヒネによって寝かされている時、悪魔との契約に次から次へと愛する者を失う主人公の仕事部屋を語り手は訪ねる。その罪の責め苦が、主人公を悪魔に呪われた姿にして読者を驚かせる。リンダ・ブレアー主演の映画「エクソシスト」を思い浮かべるに十分なオカルトの情景である。そうした迫真の情景は、作曲家が新作オラトリオ「ファウストの嘆き」発表に際して、郊外の自宅へとミュンヘンの社交界の諸々を招いたガイダンスの会においての決定的な演説へと引き継がれる。

その「悪魔との契約」の公表は、順々に訪問者の途中退席をみながらも、多くの参加者の驚愕の内に、詩的な芸術的な趣と混同されながら進められるが、最後には完全に一同から拒絶されて、騒動の内にピアノの前の作曲家は椅子から転げ落ち意識を失う。そして、その倒れた体を誰よりも真っ先に抱え起こしながら大家のシュヴァイゲシュティル婦人はオーバーバイエルンの方言で叫ぶ。

「あんた達は皆同じ穴の狢だよ。全然分かってないね。都会のあんた達は、分からんかね!永遠の許しをこんなにも請うたんじゃないか。可愛そうな人だよ。許しが妥当かどうかは私には判んない。でもね、人間的に理解することが正しいんじゃないかと思うよ。誰にとってもね」。

後書きとして綴られるのは廃人化して年老いた母親に付き添われる主人公の姿である。ニッチェの晩年をモデルにした、この既にコミュニケーションの取れない竹馬の友である作曲家の様子を見ながら「もしかすると昔のプロテスタンティズムの教えのように肉体を悪魔に捧げることで、苦悩から解放されたいと思っているかもしれない」と語り手はふと思う。この生まれ故郷に戻った友人の姿は、その様子をしみじみと見ながら漏らす語り手の情景描写に、最近も話題となった大掛かりなスイスの安楽死協会の話題を思い出させ、読者を震え上がらせるかも知れない。

出版後六十年間の歳月は長いようでも、こうして繰り返し読まれることで、その内容は今でも決して古びない。そして何時かは、これも古典として広く読まれることになるのであろうか?

トーマス・マンは、1949年フランクフルトのパウリス教会にてゲーテ賞を受け取り次のように語っている。

「人はドイツにいなかったので、なにも知らず経験もしていないと言うかもしれない。どうして、私は居ました。居なかったとは、この作品を読んでから言えることです」


写真:シュヴェチィンゲンに展示されたジェフリー・イサークの作品集「悪魔」より



参照:「ファウストュス博士」索引 [ 文学・思想 ] / 2007-12-09
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限界に近い今日この頃

2007-12-08 | 生活
相変わらずおかしな空模様だ。すでに一週間ほどになるだろうか。寒気の次にやってきた暖かい低気圧の大気が次から次へとやって来ている。

小雪どころか小雨の絶えない毎日で、地面がいつも湿っている。パリの天候から反日少しの時差がある。今日もプファルツの森から雲が勢い良く流れてくる。

その森の上空から西の空を見ると、49度緯線の先にランスとパリがあり、幾重もの河の流れと、その間に盛り上がる小さな起伏が確認できる。しかし基本的にはドーヴァー海峡へと抜けるような北海へと続いており、大きな衝立は存在しない。

次から次への、束の間の青空を見せながらやってくる雲の流れは、本来ならば相対的な気圧変化の中で、気圧が下がっていることを示し、頭が重くなるような具合の悪い気候状況を意味するが、何処かで一転総体的に上向くのである。それが今回は永遠に下がるような錯覚を起させる。

こうした天候は初めてであり、一体そのあとはどうした天候となるのか気になる。夜中じゅう強く吹く風は、室内の空気を膨張させる内容量を拡げる方向に、低気圧効果があり、何時までもこうした天候が続くのだろう。好い加減に終わって欲しい。

ここ数年は半年毎に悪くなっていたサーヴァーの調子は、一年近く快適であったがここ一月ほど悪化している。なかなか我慢の限界に至らないのが味噌で、メインテナンスを少なくするシステムに変わっているのだろう。しかし、好調も長く続く反面、不調も長く続き、そこそこに使えてしまうのが苦情を言い難くしている。明日にでもメインテナンスがされるかと期待しながら、騙し騙し使っているのもそろそろ限界に来ているだろうか。

頭が重い、圧が上がる、目がしょぼしょぼする、疲れる、肩がこる、体がだるい。日差しが出て暖かい散歩陽よりかと思えば、一時間も立たずに小雨。突風が吹き本格的な雨かと思えば、再び強い日差し。

床屋に行き、寒さ対策で伸ばし放題にしていた襟元を特に刈り込ませ、精神衛生的にもスッキリする。サンモリッツは雪がないと聞いた。来週早々からまた冷えるようだ。2007産ワインの評価をしておいた。数多くのダイデスハイムの関係者が集まるであろう床屋の割にはあまり情報を持っていなかったので、少しふっておくとフィードバックがあるかも知れない。
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新春が楽しみな青林檎

2007-12-07 | ワイン
ルッパーツベルガー・ライタープファードをじっくり賞味する。その青林檎の香りは、殆ど青林檎飴のように強いが、今は未だ完熟していない青臭さがある。そして、今は麹の味が残っている。だから、酸味がそれに包まれて、2006年産にあったような、若過ぎが感じられないのが特徴である。

だからといって、酸が弱いどころか芯があるような強い酸を感じる。林檎酸の含有率の相違であろう。つまり、半年前の2006年産の買いそびれの原因となった薄っぺらい印象が2007年産にはあまりない。また、酸の量自体は充分なようで、成長も期待出来る。新春には青林檎が熟してくれるかもしれない。

また石灰を含む土壌の個性から、口蓋にひろがる味覚の独特の個性を持つが、どこかクリストマン醸造所の変な味のルッパーツベルクのリンツェンブッシュ産の味を思い起させる。街道を挟んでいるとは言っても同じ斜面の上部と下部の違いであることを思い出させる。

昨年と価格は同じであるが、ガラスキャップからスクリューキャップに変わった。しかし内容はより以上のものであり、先ずは遅くとも二年以内に消費してしまうキャビネットであることを考えると、この経済的判断は頷ける。ガラスキャップには見た目以上の価値は無く、立派なスクリューカップの方が名門らしい趣が強い。

上位のカビネットをこれにて再びコルクにして貰うよう、今後とも店先や醸造親方などに働きかけていく所存である。五年しか保たないなら上等のキャビネットは必要なく、早飲みの廉いキャビネットなら二年も保てば十分なのである。それなら廉いスクリューキャップの方が合理的である。決して、ガラスキャップが悪いとは言わないが、適材適所充分に考慮の上使って貰いたい。
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人命より尊いものは?

2007-12-06 | 生活
今日の西側先進国においては、人の思想や傾向は「テロとの戦い」への見解として表れる。

先日来のテロ対策に犠牲とされるものをどのように読み込むか、非常時の限界を探る知的なお遊びであり内務の政治課題となっている。それを真っ向から批判したのが、カールツルーヘの憲法裁判所のディ・ファビオであったが、その保守的市民社会を基本とする考え方にも現実とのずれがあることを我々も感じている。

マンハイム大学の名誉教授で公共の権利と法哲学の専門家ゲルト・レーレッケがこれに関して興味深い文章を投稿している。その見出しが示すように、法的には必ずしも人命はもっとも重要なものではないと言う法的見解である。

ここで触れた、札付き暴走族が、スパイヤーの町中、静止した警官にフロントグラスを射撃され射殺された事件は記憶に新しい。全国紙では問題とならなかったが、地元では大きな社会的な議論となったことは、死刑廃止の欧州市民を興奮させる出来事であったので想像に足りる。この法的疑問にもこの記事は間接的に回答してくれている。

先ずは、憲法判断による警察権の解釈つまり平時の治安維持の定義である。つまり精神薄弱や酔っ払いをそのまま放って置く事はならない。それは短く時間の定まった拘留に限られる。しかし、公共のための殺害は許可されているのである。そこでバーデン・ヴュルテンベルク州で新たに発効した警察法が語る。

「直接の行為に接して、明らかな非当事者の危険が充分に予想されない場合、銃器の使用が生命の危険を防ぐ唯一の手段であるとはならない。」

銃器使用は、正当防衛と緊急を要する場合のみに許されることを示している。

自称も含めて我々リベラルと呼ばれる市民は、市民の生命や財産が護られない限り国やその他の政体は必要無いと考えている。つまり戦争状態においても、市民に向けられた銃口は戦争犯罪として捉える。しかしここでは大風呂敷を広げずに、問題となっている対テロ対策において、テロリストが原子力発電所に旅客機を乗っ取って向かっている想定で、国防軍はこの旅客機を撃墜出来るか出来ないかの議論に絞って考える。

つまり、数百人足らずの罪の無い乗客と一万人の生死を天秤に掛けることが出来るかどうかのグロテスクな知的遊戯である。この法学者は、連邦法に従えば既に憲法判断が下ったように、撃墜は許可されないと言う。なぜならば、国は人命を防衛の手段に使うことを許されていないからである。たとえ如何なる人命も尊重しなければいけないからである。世界六十億の人命自体に最も重要な価値が置かれる。

そこから、生命の清算や相殺は禁止される。その尊厳が、加算された生命に還元されるに係わらずにである。つまり人の生死に関しては、一人であろうとも千人であろうとも論理的には変わらない。これが回答である。

しかし、非当事者や過失のない者を社会の利益のために犠牲にして良いのか?法治国の名を持って、この回答は得られない。法治国はあらゆる手段を講じて、対策をしなければいけない。そしてそれを自ら諦めることは許されない。

そのためには、法は自らつまり国自体を犠牲に崩壊へと導いても手段を講じなければいけないと言う。しかしである、1992年にハイデルベルクでニクラス・ルーマンが講演したように、「テロリストによる原爆点火を避けるために拷問は可能か?」の問いかけは異なる視点を与える。

法治国においては、拷問の禁止を護るためには広島・長崎以上の犠牲も厭んではいけないとなる。要するに拷問禁止は、人命よりも法治国では重要となる。警察は答える。「時間が無ければ、無垢の生命の犠牲は止むを得ない」。つまり、拷問禁止は殺人よりも重要なのである。それは、なぜか?

殺人は国の権力によっても個人によっても世界中で日常茶飯であるが、拷問は現代では許されないからである。そして、人類学的な更に聖書からの見地から智恵を得る。

淘汰においては、予測可能の条件において種の殺戮が自然で通常の性質として起こる。それは、それほど近親ではないが直接の競争相手である同種に対して、充分な自己の遺伝子情報が、平均を上回り再生されるときに殺戮を生じさせる。

この世は人を堕落させるから不幸だ。堕落は避けられないが、それを起す者は不幸である。もし手か足がお前を堕落させるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足で生命を受けるほうがよいのだ。もし目がお前を堕落させるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両目の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、片目で生命を受けるほうがよいのだ。(マタイオスによる福音18章)

これをして、遺伝子情報こそが個人の生命よりも重要で、その規格こそが五体の満足よりも優先される。しかしこれは倫理の問題ではなく、生命の固体の重要性を根本から崩している。こうなれば、「生命とは何ぞや」の問いかけは不要となると書いている。要するに、それは科学の自己否定ではないのか?

問いは既に回答されているが、テロとの精神的な対峙は係わらず継続して、原爆テロリストが上の精密な規格を尊重して、「法治国と死」の条件下に行動をするのかどうか。しかし、どちらにせよ、その回答で市民の安全性が高まる訳ではないが、市民はその回答で少なくとも安心することが出来るとしている。



参照:
Das Leben ist der Rechte höchstens nicht,
Gerd Rollecke,
FAZ vom 1.Dezember 2007
死んだ方が良い法秩序 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-21
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
正当化へのナルシズム [ 歴史・時事 ] / 2007-11-29
民族の形而上での征圧 [ 文学・思想 ] / 2007-12-02
顔のある人命と匿名 [ 歴史・時事 ] / 2007-02-01
デジャブからカタストロフへ [ アウトドーア・環境 ] / 2005-02-19
豚とソクラテス、無知の知 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-14
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初冬に香るリースリング

2007-12-05 | ワイン
週末、外は大荒れであった。間違いなく何処かで大きな被害が出ているだろう。この時期に珍しい。これで冬は終りで暖かくなるのだろうか?

そして、醸造所の店先で聞いたように、これだけお湿りがくるとアイスヴァイン用の葡萄も駄目になる。あれだけ一級の土壌で摘み残したには、糖価が充分でなかったとかのそれなりの理由があるのだろうが、ただ試してみるだけのものであったようだ。この地域は、モーゼルやラインガウと異なり気温も高めで、グランクリュワインさえ収穫出来れば、アイスヴァインなどは特に必要ないのだ。トロッケンベーレンアウスレーゼと呼ばれる健康な貴腐葡萄は九月初めに収穫済みであるから、2007年産は全て揃うことになる。

その醸造所フォン・ブールのリッターヴァインを、早速楽しんだ。味が強く快適なワインである事には間違いない。新鮮なうち、未だ数ヶ月間は、このまま楽しめるだろう。ペッパーミント風味まであり、他の醸造所では上のクラスに匹敵するかもしれない。ただ、葡萄は買いつけたもので、色々な樽を混ぜて美味い味に作ってあるようだ。しかし、アルコールが12度もあり、この価格である限りは何の不足もない。そのせいか、美味い割にあまりグラスが進まなかったのも事実で、安上がりのワインそのものである。

それに比べると、QBAグーツヴァインの方は、まだ味が引っ込んでいる。強い酸味の柑橘類の味と、あとに残る苦味が良い調和をしていて、数週間してからまた試してみたいワインである。アルコール11.5度の割には水臭くないのは、未だ開いていない内容が詰まっている証でもあろう。7.7ユーロは、日常消費用には高価過ぎるが、後味も素敵でとても香ばしいワインである。どことなく嘗てのミュラーカトワールの醸造親方シュヴァルツ氏のワインを髣髴させるものがある。

今回はブルグンダー種を試さなかった。それは南ワイン街道産で地元のものではないからだ。確かに一級の区画ばかりを所有していると、そこで土壌の味が出ないピノブランなどを栽培しても価値が無い。持つ者の贅沢な悩みなのである。

これで近々試すキャビネットが楽しみになった。
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ど真ん中にいる公平な私

2007-12-04 | 
今頃になってようやく冬タイヤに替えた。10月終わりには氷河スキー場に乗り込んでいた頃と比べると二月近くも遅い。すると雨も上がり一月振りぐらいに、車の日除けが必要なほど日差しが強い。しかし、ゴムが適当に柔らかく乗り心地もよく、夏タイヤより落ち着いた感じが嬉しい。

ハノーヴァーでキリスト教民主同盟の党大会が開かれている。メルケル党首の演説が至る所で流れていたが、ラジオで小耳にしたのは、日本車警戒であった。環境対策で一足先行されいることに、業界ともども大変危機感を募らしているのが分かる。

「アメリカの自動車産業のボスが労働者の百倍も稼ぐ原則に従えば、ドイツのマネージャーにもそれ相応に支払わなければなりません。アメリカについては今触れませんが、日本の自動車産業では、労働者のたった二十倍の報酬しかトヨタの重役連は稼いでいません。それは丁度前首相が、ロシアン天然ガス利権でスイスで稼いでいなければ、現職の時の約二倍もの額なのです。」*

こんな不公平はドイツでは決して認められないが、それだからと言って今後とも社会主義には決して進む事はないと言明している。シュレーダーの似非社会主義の拝金主義をそのグローバリズムのヤクザな経済に重ね合わせ、さらには日本車や日本企業への警戒感を誘う、この女性らしい感覚的に優れた演説である。

つまり、企業はそれ相応の給与を与えなければ充分なトップマネージメントを得られないとする見解を、国のトップの給与とその責任と比べることにより諌めている。これは、退任した副首相ミンターフェーリングの役員給与上限の法的設定に変わる、企業に対する強い社会的圧力である。特に実質的業績を上げていない経営者の退職金は、国民の不審を招き、社会を崩壊させる危険があると強く警告する。そして同時に役員に、「あなたたちの仕事仲間は新聞も読まず計算もろくに出来ないと思っているのですか?」と、その基本的能力のありえない差異を浮き出させ、企業役員諸氏の猛省を促す。

しかし、一般大衆向きに演説したのではないにせよ、あまりに物事を単純に捉え、それを選挙民にイメージさせるポピュリズム政治ではないかと思われる。そして、自党のことを左右に触れない中道のど真ん中としているのは、現在の大連立から次回の単独得票率40%プラスを狙う選挙戦略としては正しい。しかし、中央党などの過去のイメージを伴うキャッチフレーズはどうなのだろう?CDUは、ChristienであってCentrumではない筈だ。

党内には断固とした反対があるにも拘らず行なった最低賃金への決断も、この首相が選挙中に大蔵大臣候補キルヒホッフ教授と掲げていた自由主義からは甚だ遠いが、メルケル女史にとっては「公平」と言う言葉が意味するものはただ一つであり、それは決して振れないものなのであろう。だから自らはど真ん中に立っているに違いない。

*公平に翻訳訂正済み。
写真:マンハイム、ネッカー河畔のルイーゼンパークの真ん中の帝国庭園



参照:
Kapitel 8(Johannes)Luther-Bibel 1984

…… Aber die Schriftgelehrten und Pharisäer brachten eine Frau zu ihm, beim Ehebruch ergriffen, und stellten sie in die Mitte und sprachen zu ihm: Meister, diese Frau ist auf frischer Tat beim Ehebruch ergriffen worden. Mose aber hat uns im Gesetz geboten, solche Frauen zu steinigen. Was sagst du? Das sagten sie aber, ihn zu versuchen, damit sie ihn verklagen könnten. Aber Jesus bückte sich und schrieb mit dem Finger auf die Erde. Als sie nun fortfuhren, ihn zu fragen, richtete er sich auf und sprach zu ihnen: Wer unter euch ohne Sünde ist, der werfe den ersten Stein auf sie. Und er bückte sich wieder und schrieb auf die Erde. Als sie aber das hörten, gingen sie weg, einer nach dem andern, die Ältesten zuerst; und Jesus blieb allein mit der Frau, die in der Mitte stand. Jesus aber richtete sich auf und fragte sie: Wo sind sie, Frau? Hat dich niemand verdammt? Sie antwortete: Niemand, Herr. Und Jesus sprach: So verdamme ich dich auch nicht; geh hin und sündige hinfort nicht mehr.

姦通の女 - ヨハネスによる福音 第八章

前略…そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、人々の前に(真ん中に)立たせ、イエススに言った。「先生、この女は姦通しているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーシェは律法の中で命じています。さて、どうお考えになりますか」。イエススを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエススはかがみ込み、指で地面に字を書き始めた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエススは身を起して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない人が、まず、この女に石を投げなさい」と言った。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエススだけが取り残された。女はその場に(真ん中に)残っていた。…中略…イエススは言った「わたしもお前を罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。

Im Reich der Mitte, Berthold Kohler (FAZ)
CDU zieht rote Linie zur SPD (Video, Reuters)
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既視感と焦燥感の恍惚

2007-12-03 | 文学・思想
いよいよ大詰め近づいて来た。第九回ラジオ放送「ファウストゥス博士」は、原作三十八章から四十二章までを扱わう。

ここまでのなにやら音楽や宗教や哲学の難しい話の緊張が一挙に解かれる。堰を切ったようにして流れ出るめくるめく情念の流れは、お涙頂戴の号泣と男泣きの連続かと言えば、流石に違う。さてどこがどう違うのか?

この作品の中でももっともエロティックで叙情的な四十章は、ミュンヘンの背後に広がる最高峰ツーグシュピッツェの屏風の懐に近づき、そして戻ってくる遠足の一日である。どうしてこれほどまでにこの一日の情景は特別なのか、それは物語の登場人物にだけでなく読者にもそれを問い掛ける。

ここから続く章は、ドイツ表現主義のエッセンスを搾り抜き、知的に再構成された文章でしかないが、それはまるで作曲家アルバン・ベルクの代表作「叙情組曲」などの名作群の文章化のようでさえある。

この遠足は、その目的が暈かされて召集されたもので、参加者各位は途上その主催者たる主人公で作曲家アードレアンの胸の内を各々に推測している。お目当ては、パウル・ザッハー指揮で自らのヴァイオリン協奏曲がトーンハレで演奏されたツューリッヒの音楽会で知りあった、フランス語を話しパリで活躍する舞台衣装デザイナーのマリーである。そして既に作曲家と深い仲になっている美男子で若いヴァイオリニスト、ルディーや作曲家の中部ドイツからの友人で陽気で瀟洒な翻訳家のルディガー、そして語り手のツァイトブロム夫妻などである。

列車の旅である。この区間をミュンヘンの中央駅から乗車した経験がある者ならばもしくはこの地域を旅行したことがある者ならば、ここに描かれる幾ばくかの小さな丘を奥の屏風へと近づいて行く感興が判るだろう。それは、未だ雪が凍りついた初春の出来事なのである。

しかし、この列車の進行に伴い潜在的な不安感などが、この一日のパッサカリア主題のように鳴り響くのは、その独特の地理のみならず、誰もが体験している、朝起きして、外気とは比べようもなく暖かい列車内で皆の顔を見ながらの、少し気まずいような、よそよそしいような会話に潜む深い響き故なのである。そう、どこか妙に緊張に神経が立っているあの雰囲気である。

しかも、そこには遠足の発案者であったヴァイオリニストと作曲家に興味を持ちつ持たれつのとても女性らしい若い女が居るのである。それを観察する語り手は、ところ構わず誰にでもスキンシップを取るヴァイオリニストに体を触られてうっとりする作曲家の姿にあの魔性の女との情景を回想させて、このヴィオリニストの肉体を影絵のように映す。

それは、ガルミッシュ・パルテンキルヘンの民俗音楽ロカールでの思いがけず長くなった休憩のエンツィアン・シュナップスやコーヒーの香りとともに、三十八章の企業家ブーリンガーのサロンパーティーでSP盤で響いたワルツなどの通俗名曲の調べと交差されて、より直接で肉体的な趣をそこに与える。

再び戸外へ、スキーヤーのルディガーを除いて、今度は残り六人を乗せた馬橇は、エッタールのルートヴィヒ二世のリンデンホーフ城を目指す。そして見学後に青空の下バロック教会へと足を伸ばす。そして、こじんまりとした谷のホテルで夕食を摂ると、こんどは今住まいを見たばかりの王についての評価が、語り手とヴァイオリニストの間で大論争となる。そして、帰りの列車では皆言葉少なく居睡りしながら中央駅へと戻って行く。

この章に続いて、ベルリンが包囲され、ラインの境が破られる時、語り手は、ヴィーンのコンサートツアーからハンガリーへ同行したヴァイオリニスト、ルディーが、上の遠足の次の週の朝早く作曲家に電話で呼ばれ、恋の使いを頼まれる情景を回想する。その「薔薇の騎士」への依頼の情景は、つとに情動的で、コッポラ制作映画「MISHIMA」の丸山明宏との別れの情景を思い出させるだろうか。それとも三十九章にて作曲家に恋心を打ち明けられる語り手の記述から、四十二章でのルディーの死までは、三島由紀夫の日記「裸体と衣装」や遺作長編第一部「春の雪」の終幕を想像させるだろうか。

「魔の山」の読者は、遠足での橇のシーンに、セッテムブリーニがハンス・カストロプにしっかりと手を合わせる決闘のシーンをだぶらせ、郊外の高揚の絶頂からミュンヘン市内の路上電車トラムの重い振動にパンタグラフの火花に付き添われる破局へと、「ヴェニスに死す」冒頭のような焦燥感や既視感を覚えるかもしれない。

不思議なことに、手元のフィッシャー1997年版文庫本の551ページの最下行の、ベルンでのヴァイオリン協奏曲の1923年の初演は、ラジオでは1924年と読み替えられていたようだ。新しく校訂された箇所であろう。



参照:
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
コメント (4)
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