Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

節穴が開いてしまうと

2008-12-17 | 生活
洗面所関連で気になっていたところを直そうと、穴が大きくなり過ぎてしまらなくなったネジ穴を買いに、日曜大工センターに現行のネジ穴ファースナーを持って出かけた。しかし、そこには何時の間にかいくつものスーパー店が並んでいた。

いつもその前を車で通っているのに気がつかなかった。どうも節穴が開いていたようだ。ついこの間までと思ったが良く考えてみれば、旅行に行く前に買ったワッシャーなどがそこでの買い物の最後だったろう。

既に八か月以上経っている。いつも店内に人は少なかったが、業者の者が買いに来ているのだろうと、そこに永く存在している原因を推測していた。だから店仕舞いしても不思議ではなかったが、この手の店は要所要所にあり、今後はどこの店に行こうかと考えた。

なんと言っても此方が買う物の単価が安過ぎて、八百屋に行くついでに立ち寄るぐらいで、態々遠方まで車を走らす価値はない。かといってネジ一本をネット注文する訳にも行かない。

今後は、そちらの方面に車を走らすついでに必ず寄るようにしなければ金具一つ買えなくなりそうである。偶々、明日また出かけるので、その途上なにかを探して来れるだろう。
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「おれを信じなさい!」

2008-12-16 | 生活
本日は年内最後の舟出しとなった。荷物を取りに来たのは毛糸の帽子を頭に載せたアルカイダのような男だった。人当たりのとてもよい運転手だった。

住所を探すのに大分走り回ったと言っていたが、いらいらをも見せずに落ち着いて語っていたのには感心した。

それだけで並みの外国人労働者連中とは少し違うなと好感を持ったが、荷物を見て車を持ってくるとか、そのコミュニケーション能力のみならず、荷物の運び出しなどを見ていると手早く丁寧な落ち着いた仕事ぶりであった。

「箱に傷がついているけど承知しているよね」とか言うのでトラックの中まで覗いて確認した。それで、傷の確認を一言書いてくれというので、彼を見てこう言った。

「おれを信じなさい!」

少々驚いた顔をしていたが、やはり書いて呉れとせがむので書き加えた。そのあと、ガソリンスタンドを教えて呉れとか、とても言葉遣いや物腰がますます丁寧なのである。こんな欧米・一部南アフリカ以外からのある種洗練されている外国人は殆ど会ったことがない。

モスリムに接する機会は少ないが、彼のような人間こそが立派なイスラム教徒に違いないと確信した。

信じるとは彼にとって一つの意味しかなかったのだろうとあとになって考えた。本当なら、クリスマスプレゼントをあげるところだが。
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温かみある地所の名前

2008-12-15 | ワイン
グランクリュワインを待降節三週に空けた。2007年産のそれがオレンジの皮風味で素晴らしかったので、今直ぐに楽しめる同じ地所フロインドシュテュックの2004年ものを奨められた。価格にして3ユーロ安く20ユーロなのでこの時期に試してみるのはよいと思って購入した。

結論からすると、2007年ものは数段上回っていたが、当時この醸造所の単純なワインから感じていたグレープフルーツ風の苦味は失せていて、言われていたようにクリーミーなリースリングとなっていた。

アルコール13%にしては、結構強めでもう少し枯れても良いかなと思わせたが、決して重くなることもなく、後味の残糖感も気にならない程度で決して悪くはなかった。2004年は本格的な夏の無かったシーズンであり、酸も強く痩せぎすなワインが多かったが、ここまでの商品を出したのは立派であり、当時の試飲の印象を少し回想している。

クリーミーさから十分に醸造させた感じがあり、若い時は酵母臭があったのだろうと想像する。元々土壌の複雑さはないがぬるっとした女性の顔のような纏まりと馴染み良さがあるのだ。誤って口にした青オリーブの塩漬けなどにも意外に合うことから結構味の強い料理にも良さそうである。玄武岩土壌ペッヒシュタインのリースリングが魚の塩焼きなどに合うとすれば、これはサーモンの叩きなどちょっとしたソースを添えた食事に良いだろう。もしくはフルーツケーキなどにも合うような気がする。

それでも味と香りの豊かさは、2007年産とは大分差があるのみならず、その安い価格が付けられているのは正しい。2007年をどうしても買っておいて、時期が来たらオレンジソースなどの料理を楽しみたいと思っている。

なんと言っても、地所の名前もお気に入りであり、こうした温かみのあるワインはやはり良いのだ。



参照:
ドイツワイン三昧 第四話 2005年版 [ ワイン ] / 2005-05-07
ドイツワイン三昧 第四話 [ ワイン ] / 2005-05-06
ワイン三昧 第四話 '06 [ ワイン ] / 2006-05-07
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2008-12-14 | 
ご近所の女性が引越しをした。引越し先はUボートの港としても有名なキールである。プレゼントに貰ったサボテンを思い出したように室内に入れるようになってから思いがけず急激に元気さを増している。

仕事探しは夏前の早くからしていたのだが、引越しをするのは遅かった。そこに人気がないと気がつくと、「あそこはどうなっているのかしら?」と私に向って尋ねる女性などがいる。こういう事になると尚一層と勘を働かせるのが女性である。

「いやー、職の関係でね」とかなんとか適当な答えが、またまた巷の話題を提供してしまったかも知れない。

スーパーに行くとこれまたご近所さんの醸造所の者が感情移入しながら、「元気?」と聞くので、「いいよ、それであんたは」と菜っ葉服 ― 実際はワイン職人のブルーの作務衣であるが ― の職人に答える。

顔を覗きこまれるこちらは、内心「なんか可笑しいんじゃないの?なんか違うんだな。なんか奥歯に挟まっていませんか?」と、フーテンの寅さんのような「あんたなんか知っているでしょ?」との心象になるのだ。

そうなるとこちらも、「今年のワインの出来はどう?」と休暇明けという言葉に耳を貸さずに攻勢に出るのだ。高級リースリングは酸が強いので特に良いらしい。醸造所の公式報告書面よりも明らかに上回る評価は、自分が作っている者の評価に違いない。

なるほど陽射しの弱かった2004年と似ているが誰かが言うように2002年にも近いようで、長持ちする高級ワインが出来上がりそうなのである。夏以降に進展のあった2007年をまだ追っていると言うと、2008年でも良いような表情をされた。

当時話した2005年の印象はその構造的な良さの反面若干酸が弱いということで再確認出来たが、まだまだ2001年が飲み頃なのを知り、先日彼のアドヴァイスを受けて買い出した友人の買物内容も説明した。

2007年産の「カルクオーフェン」は最初はその土壌以外の匂いがあったようだがそれが消えて、既にかなり楽しめると言う。2007年の産の「ランゲンモルゲン」についてもコメントしておいたが、2007年に顕著な夏の谷の深さつまりその後のワインらしくなる大きな山の過程を指摘しておいた。つまり、それは葡萄の実の熟成が良かった2007年産のリースリングの特徴のようで、健康優良児の発育の良さのようなものだろう。

そのような比較をすれば、2005年産は新生児の時から体格は立派だがの肥満傾向があり、2006年産は急にませだした子供は大人になるのも早いが老けるのも早い感じだ。2003年のそれは反対にあまりにも健康優良児で相撲取りの様に早死にしてしまったと言えよう。2008年のヴィンテージは、双葉より芳しくのようで、酸が効いた90年代半ばのようなリースリングらしいワインが出来上がりそうである。だから、嘗て良かったような土壌のワインが期待出来るらしい。

あまり良い物を売っていない野菜売り場の通路を塞ぐかたちで長話をしていると、見知らぬご婦人が根っ子を持ってこれはどうして食せるかと聞く。ミネステローネに使うためにサヤエンドウも掲げて尋ねるのである。「根っ子はイタリア料理にも、僕もこちらの方は使うよ」と答えると「私は良い料理人ではないから」と、ご婦人はそれを買って行く。

こうなるとこちらもここ暫らく関心を持っていた醸造の中身の話となる。焦点は、炭酸注入の是非とステンレス樽醸造の影響、その一時発砲入り流行の炭酸入りワインに置けるの有名醸造所批判実践、酸化・還元醸造の比較、天然酵母の醸造の問題などかなり専門的な立ち話となる。容易にここに書けないほどの内容であるが、他の醸造所の名前を挙げて最近怪訝に思っている実例とすると、苦笑いが帰って来たのでこちらも「皆まで言うな」と満足する。キーワードとして現代的な趣向のワイン醸造を一先ず挙げておく。


写真:思いのほか根強いサボテンの生育状況
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カード枚数分だけの信用

2008-12-13 | 生活
ユーロ安円高差益で、今年は夏以降公私共に大分日本へと発送した。総重量で数百キロぐらいだろう。

クリスマス休暇シーズンを前に、流通もその前後に集中する。なんとか前に年内最後の船積みが出来そうだ。二十年前ほどに扱っていたものとは大きさも業種も違うが、そのような需要の存在を見ていると面白い。

先月から供給不足のスイス製品を追いかけていたのだが、11月初めには数は少ないながら供給や在庫があったものが、12月初めにはみるみると市場から消えて行ったようで、市場価格も二割から三割り増しになっていた。

在庫を逃すとその後の供給は時節柄難しかったようで、品薄状態から価格が急騰した。投機筋が動いた石油価格と違い実質的な需要との関係なので、大変興味深かった。

在庫を見つけても直ぐに無くなる売り手市場に拘らず、引渡し価格が上がるのでどうしても購買の意思を再確認するのに時間が掛かり、そのうちに在庫が流れて再び新たに探す事になる。

そのような手間ながら、今度は供給量が増えて急に二割ほど廉くなっている事に気がついて、それを急いで発注した。初めから品薄の商品を追っていたから時間も手間も掛かり後手後手に廻っていたが、一旦買い手市場になると先手が打てるようになる。

ネットにて今度は遅れまいと早朝に発注したのだが、支払い方法として今まで知らない支払いシステムを採用していたので、同時にそのシステムを研究する必要があった。寝不足ながら、それは欧州における三大システムのようで危険性は少なそうなので無料登録してクレジットカード支払いをした。

未知の業者と比べてそのシステムの安全性はなんとも言えないが、ネット情報などでは評判は悪くない。今後どれほどそのシステムを利用するかどうかは判らないが、直にクレジットカード自体も取り替えるつもりなので大きなトラブルはないだろうと考える。

今までは最小限度必要な銀行が奨めるクレジットカードしか所持していなかったが、総数を抑えながらマイレージ集めなどの便利を考えて、もう少し上手に使ってみようと考えている。個人使用では結局月末に「支払いの苦悩」がついて廻るだけなので新規発行の誘いにのらなかったが、依頼を受けて特に市場にある商品の買い付けには大変便利であり、決算さえ確実に早めに出来れば商用に有用である。

引き落とし口座の銀行に出向いて、使用カードの入れ替えや、支払いの問題点などがないかを相談して、その枚数分だけ増える年会費分をなどを上手く相殺していく方法を考えている。
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あまりにも短い一生涯

2008-12-12 | ワイン
ここ一週間に飲んだワインについて忘れぬ内にメモを取っておく。

何よりもの成果は、2007年産のワインは夏を過ぎて再び味が出て来ていることだろう。夏過ぎには完全に谷へと入っていた単純なハウスヴァインであるミュラーカトワールのMCリースリングを開ける。

驚いた事に気が抜けたようなそれが再びワインらしく桃の香りを湛えているではないか。初めから超辛口であったので旨味はないが、ワインらしいく熟成して来ていた。これは残りをまた調達にいかなければいけないかと思い気やあくる日には完全につまらない酒に変わっていた。

同じ価格のキャビネットであるが、ゲオルクモスバッハーのハウスリースリングはそれに比べてさらに旨味が増している。快いミネラル味がオレンジの皮の風味を湛えてきていて、2006年に続き今年も最高級の日常消費リースリングを提供している。腐りの年の2006年のQbAとは異なり、これはあと一年ぐらいは問題なく楽しめそうな立派なワインである。

場所をライン平野の向こう側に向けると、ベルクシュトラーセのべンツハイムの2006年シュタインコップのシュペートレーゼを開けた。アルコールも13.5%と高いのでまだ開けるには早めであったが、その土壌を考えると新鮮味が残っているほうが少しでも飲み易いだろうと考えて飲み干した。

こちらはレモンの皮の苦味のような味がベースにあって、その土地柄と同じで小さく固まっている感じでワイン街道の大らかさとは対象的である。なによりもこちらでは土壌のベースになる雑食砂岩でなくその上に乗ったユラ層土壌の葡萄ではどうも風味が広がらない。シュペートブルグンダーと違ってリースリングは、どのような土壌にも栽培するにしてはあまりにも繊細すぎる。それなりの食事に合わせたつもりではあるが。

本日、今年はどうかと思っていた醸造所からのクリスマスプレゼントが届いた。過去に多少は売り上げに貢献しているとしても、最近は本当に僅かな購入であって ― 凝りもせず真面目に忌憚ない批判をさせて頂いて ― 新聞や雑誌の定期購読推薦のように方々で奨めさせているとは言え、今年はもっとも価値のある2007年産エルステスゲヴェックスを頂戴した。しかし良く考えれば、他の贔屓の醸造所ではしこたま試飲しているので、それを換算すればこれぐらいの販売協力費ではないかも知れない。

兎に角、試飲した2007年産のなかでは、キャビネット辛口と並んでその透明感だけでも間違いのない品質であった。その土壌グレーフェンベルクは、長く毎年購入しているのだが本格的なグランクリュとなってからはまだ三年ほどだろうか。前回に開けた2005年はまだシュペートレーゼであったが、このエルステスゲヴェックスはまだ熟成してから家で開けた事はない。試飲の印象からそれへの期待はかなりなのでなかなか開けられないでいる。2006年のシュペートレーゼを半年以内には試すので、そのエルステスゲヴェックスの飲み頃も徐々に見極めていかなければいけないだろう。

不味いワインを飲むには、人生あまりにも短すぎる。



参照:
買ってしまうグランクリュ [ ワイン ] / 2008-10-02
2006年産の良い地所 [ 試飲百景 ] / 2007-09-27
試飲百景-前書き [ 試飲百景 ] / 2005-01-22
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引渡されるネットの反映

2008-12-11 | 
日曜日に注文したCDが火曜日には届いた。ドイツェポストの民営化の問題は、今も生きている連邦国内のどこの地域にも同じように配達されなければいけない法律からして、なかなかそれを保つのは容易ではないこととして表面化する。

ワイン街道の中央部に当たるミッテルハールトは、マンハイムの集配センターから直接配送されるので、嘗ては集計地でもあった町の支局が閉じられて文具屋に委託業務になったとしても、変わったのは配達の時刻だけである。

一度漏らしたようになぜかこういうものを注文すると、それが届く日はてんてこ舞いで殆ど封を切る事が出来ない。こうしたものをネットで注文する時は暇な時でそのあとも暇なことが少ないと言うことだろう。

それでも、午後には封を切る事が出来て、用事をしながら音を流していたのだが、予想通りのCD特有の痩せた堅い音とテープのヒスノイズがあまり分からずに、デジタルマスターリングの時に少々手を加えたかなと思ったのだった。

あれやこれやと考えて散歩などから戻って来て、暗くなってからもう一度同じCDを鳴らすと、全く印象が異なり耳障りにならないヒスノイズの中に弱音が浮かび上がってきた。そしてなによりも、同時に音の減衰のクラスター状の表れては消える響きの期待していた和音の雲の繋がりが綺麗に浮き上がってくるのである。

二三曲流すとなるほど会場はザルツブルクのモーツァルテェイムらしいがセッションによって、そのときの空気によってまた曲目によって楽器を覘き込む近接マイクロフォンの位置が適確に調整されていてなかなか凝った録音になっている。またそれでいて楽器が良いのかペダリングのダンパー音などを巧く押さえてある。 

流し進むとどうしても気になる事がでてくる。一つは、演奏会においての経験で、一体何時その曲の演奏実践に接したのかと手元の資料の多さから探し出すのに苦労するのだ。資料のないものは音楽祭のデータべースなどを調べる事になる。

特に気になったのはソナタ二長調D850で、最近のプログラムには載っていないのだが兎に角聞いている。あれは何時の事だったかとなんとなく最近アンコールに弾かれた状況などを思い出すのである。

こうした記憶は、前後の繋がりさえ分かればありありと思い出すことができるが、さもないと十五年前の記憶と五年前の記憶が入れ替わることもありえる。特に十五年前の事を昨日の事のように思い出すととても不思議な気持ちになる。

芸術音楽のこうした体験は、「時は世に連れ」の流行音楽のそれとは全く異なり、特定の歴史的事象に結び付けられるものではなく、また個人的主観による体験でもない、文化的な事象として記憶されて想起される。

それ故に、ラジオ番組で行なわれるような録音の聞き比べもその事象を認識する事に役立つ。バイエルン放送協会のクラシック音楽専門波バイエルン4でのベックメッサーこと評論家マックス・ニッフェーラーの批評もだから歴史的な背景を説明している。

その中ではイ長調D959が扱われていて ― ピアニスト自らがこの古い録音の最終楽章のフローティングするカンタービレ旋律を録音の成功例として回想している ― 、 当時のシューベルト・ルネッサンスを導いたアルフレッド・ブレンデルの演奏実践をしてかなり歴史的な差異を示すばかりにそれが前面に出すぎているとしている。実際にあの70年代・80年代のプログラミングはその後お目に掛からなくなっていて、ハ短調D958などはどうも日本で一度遺作三曲を二日に渡って並べた70年代のプログラムでしか体験していない。

そのように、なるほど1970年代には作曲家ディーター・シュネーベルから後にはヴォルフガンク・リームなどへと影響を与えたシューベルト・リヴァイヴァルは、再びフィードバック的に再影響を与えた文化的な螺旋がそこに見られる。それは、文化的な体験が個人という主観によりものではない、― まるで主題の動機でもあるような ― 次から次へと引き渡されながら反映していく主観である事を示している。



参照:
生半可にいかない響き [ 音 ] / 2008-12-08
とても そこが離れ難い  [ 音 ] / 2008-11-28
Franz Schubert: Klaviersonate A-dur, D. 959 (Max Nyffeler, Bayerischer Rundfunk, Sendung vom 29. 5. 1999)
シューベルト ピアノソナタ 第16番イ短調 (日々雑録 または 魔法の竪琴)
シューベルト作曲、ピアノソナタ第16番 D.845 (yurikamomeの妄想的音楽鑑賞)
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半袖の神々の冬越し

2008-12-10 | 
このところ霧がかかる日が多く、地面もかっらと乾かない。霜が降りているのだろう。

気温は毎日零下のようだがあまり気がつかない。室内でも寒く感じる事はあるがなにか反発力がある。一月ほど風邪が治らないような感じなのだが、時々熱っぽく関節がぞくぞくとするだけなので堪えない。

流石に半袖で散歩に出かける気はしないが、上に着込むとしても半袖をよく着ている。以前は冬に半袖を来ている肉体労働者風を見て寒くないのか、服がないのかと訝ったのだが、今や自分がそのような格好をしているのは不思議である。

やはり筋肉がないといけない。筋肉があるとギリシャ神話の神々のような気持ちで冬を過ごせるのである。
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決して民衆的でない音楽

2008-12-09 | 歴史・時事
ハンツ・ランデスマンが人欄に顔を出している。ザルツブルク音楽祭モルティエ監督時代の番頭さんである。今何をやっているか?というお決まりの質問に答えるのも慣れて来ているようで、三月に開かれる現代音楽ビエンナーレのお知らせのようだ。来年は、スイスの重鎮クラウス・フーバーや細川などを含む音楽などが紹介されるらしい。

ザルツブルクでの音楽祭は、もともと民俗音楽と並んで現代音楽の祭典であった事からすればこちらの方が歴史的にも将来に渡って存続するように思われる。1923年8月にそこに滞在して奥さんへの書簡の形式で綴った、また「ピアノは猫が踏んでも同じ音が出る発言」で物議をかもした兼常清佐の文章を引用してみよう。

突然この宿の近くでファンファールのような強い短い喇叭の音が起った。驚いて目を醒ますと、眩しい朝日はすでに窓の紗一面にあたっている。中略…女中にきくと、今日と明日とはこの町の大音楽祭の日であるそうだ。

私のためには民俗音楽といえば、まず謡い物であってほしい。中略…はるかに民謡から離れている。要するに軍楽隊の真似事である。ドイツの帝国主義が生んだ軍事教育の一反映かもしれぬ。中略…山地の素朴な、音楽を愛する人心が、ちょうど子供の軍人ごっこのように、軍隊の華々しい姿に眩惑されたものだとも思われる。中略…はからずもこの地方の大民族音楽祭を聞いた事だけはうれしいが、それに混ざるこのような不純な分子がいとわしい。

 ― このように語りながら、プロアルテ四重奏団やギーゼンキングの演奏に接して、更に語る。―

ザルツブルクは誠に音楽の町である。中略…現在においてモーツァルト楽堂を持ち、「万国現代音楽協会」はこの地で始めて成立して、年々夏にはこの地で現代音楽祭が行なわれる。

芸術を理解し享受することは決して容易な業でない。それには素養がいる。修養がいる。その修養をつんだ人々だけが芸術を理解することが出来る。いわんや理解に訴えるべき分子の多い現代音楽はなおさらのことである。中略…ただ感覚的に享受しようとする目的には、おそらくモーツァルトさえもすでに不適当であろう。中略…音楽というものは決してそれほど民衆的なものではない。

兼常清佐著「音楽巡礼」から


ヴュルツブルクの音楽監督でバーンスタインのヴィーンでのアシスタントであったジン・ワンが途中解任された。小太りのこの48歳のヴァーグナーとシュトラウスを得意とする指揮者にセクシャルハラスメントの容疑が掛かったからだが、事情は地元ヴァーグナー協会や楽師連との繋がりが拗れたことにあるようで、土地の音楽愛好家には比較的支持があったとするのも、なるほど今時の音楽劇場愛好家やカタリーナ・ヴァーグナー支持者達の民衆の趣味であろう。



参照:
Der Würzburger Orchestergrabenkrieg, von Martin Otto,
Nie war Salzburg so modern; Hans Landesmann, von Gerhard Rohde FAZ vom 8.12.08
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生半可にいかない響き

2008-12-08 | 
週明けの11日にニュヨーク在住の最も重要な芸術家である作曲家エリオット・カーターが百歳の誕生日会に出席する。既に生誕百年とは知らなかった。なんといっても氏のジュリアード四重奏団演奏の弦楽四重奏曲全集は、シューマンとのプログラムのアイデアを聞いて推薦されてからの座右の愛聴盤である。絶壁の上の町ミューレンにて、遠くアイガー北壁の影を見ながら秋の薄い空気に、備え付けのCDラジカセで鳴らした時の響きを今でも思い出す。「亡き愛妻のためにゆえに調性で作曲をした」と、グリーニッチのアパートメントに半世紀以上鎮座しながら、「現代音楽が迷走した以外の何物でもなかった半世紀の無駄なとき」を陳謝しなければいけないとしている。

調性へと迷走した無駄なときとはどのようなものだろうか?日曜日中の注文は送料無料とのクリスマス販促の電子メールを受け取るとそれに便乗して、早速目ぼしいものを物色しようと、誤ってベスト売り上げの頁を見てしまったようだ。普段はどうせつまらない商品ばかりであろうと興味がないので見ないのだが、見ている頁を間違えているのに気がつくのに時間を要した。意外に安売りものなどが並んでいたからである。アンドラーシュ・シフのバッハ全集やバッハ・モーツァルト・ハイドン全集やカラヤン全集に混じってそこの35位に堂々とシューベルトのピアノ曲集が入っていたからである。アルフレッド・ブレンデル引退景気にもまして、僅かばかりの割引が功を奏しているようでもあり、やはり熱心な人は良く分かっているなと感じた次第である。

なによりもブレンデルのシューベルト録音は、フィリップスに移籍しての初期の1970年代のものが有名であるが、その後主要レパートリーとしてDVDやライヴ録音が出ていて、なかなか選択枝が多く難しい筈であるが、アナログLPのために録音されたこのシリーズの人気は未だに高いようだ。

ここまで語るとやはりこのピアニストのファンと思われて仕舞いそうであるが、実際には手元にシューベルトのLP録音シリーズは三枚しか所持していない。理由は、同時進行的に生で体験したり、なんといってもラジオで頻繁に音楽祭などの実況が放送されてそれをエアーチェックしたものが大抵手元にあるからである。

しかし、今回その安売り7CDの触りをネットで視聴して気がついたのは、先日のフランクフルトのお別れ演奏会で確認したように、シューベルトの平均率鍵盤音楽が今日において究極の12音平均率楽器で示される調性は、 ― 最後のスタジオデジタル録音の明瞭さとは些か異なる ― 群状のクラスターであり、その昔雑音の多いLPによってはなかなか示されなかった響きの減衰や繋がりが彷徨う雲としての録音芸術となっている。

アナログ録音のCD化したものは極力購入しないようにしており、出来ればLPを探すか、余程の投売り価格でしか購入しない。しかし、録音芸術としてそれを見做せば、一枚あたり計算方法によっては、略二ユーロの価値は認めてもよいかと値踏みする。

例のアーティスツ・チョイスシリーズのシューベルトは、ライヴ録音のようでなるほどDVDでのオフレコや映像カットと録音テイクの煩雑さとはまた異なるもう一つの可能性を試したようだが、その会場雑音が激しく阻害する音響は肝心のものを捉えているかどうか疑わしい。

試しにカセットテープながら古のエアーチェック録音を取り出してみたが、音楽の線的な音は遺憾なく捉えているといっても、臨場感を伝える放送用のマイクロフォンセッティングが拾えない逆説的ながら肝心の響きが皆無であり、これでは演奏を聴いた事にはならないと愕然としてしまった。

先頃、世界的に高名なドイツの優良中小企業の一つであるゼンハイザーのオーナであったゼンハイザー氏らが、同時受賞の太陽電池発明などに並んで、その無線式デジタル小型マイクロフォンの開発の対して賞に輝き、その苦労話をラジオで語っていたが、響きも他の事象と等しく生半可に往ってしまう訳ではないのである。


写真:6月のミューレン



参照:
Wie hat die Wüste Sie verändert, Mister Carter, FAZ vom 25.10.2008
Oh, du lieber Augustin von Eleonore Büning, FAZ vom 6.12.2008
とても そこが離れ難い [ 音 ] / 2008-11-28
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02
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生理学的に完熟するとは

2008-12-07 | 
この時期になると各醸造所からの挨拶状が揃う。在庫整理のためにクリスマス商戦へと駆り立てるのである。待降節の第二祝日である。

2007年度は豊作であったので、まだまだ在庫はある。同時に既に樽に眠っている2008年度産の収穫情報が知らされる。偉大なヴィンテージではないが、良いヴィンテージとされている。生理学的完熟と健康な果実がキーワードで、それに気温の低さなどは良い酸を保障したようだ。また一部にはバイオデュナーミックスによる果実の年毎の安定度が主張されているが、それは落とした収穫量による抵抗力の増大と見るのが常識であろう。

買物の途上のラジオ番組は、特番で今年の新譜を紹介していたが、なんとも昔の録音など地味なお話でどうしようもない。今晩バーデン・バーデンでカラヤン賞授賞式に続いてジェノム協奏曲を弾くブレンデルや、どこかで展示会が開催されたケムプなどのドイツ系のピアニストに対して、キーシンやリヒテルを代表するようなロシア流派を「音楽に対峙するのではなく楽器に対峙する音楽家」と位置付けていた ― そのモスクワでブレンデルが最後まで迎えられて演奏活動を続けていたのも興味深い。それではポリーニやミケランジェロのイタリア派?などは何処にと語弊はあるかも知れないが、謂わんとせんことは分かるだろう。ニルソンの歌う若いビュルンヒルデのコヴェントガーデンのライヴ録音などがビューニック女史やシュライバー氏らの面々によって推薦されたり俎上に載っていた。それらに比べるとワインは断然活き活きとしてやはり生きている。

なにはともあれ、昨年11月にはその前年2006年度の不作から既に商品が出ていた事を考えれば、2008年度産が出るのは遅いと言われており尚且つまだまだ2007年産の在庫があるので、ゆっくりと2008年度産が熟成されるのが楽しみである。

同時に2007年度産の一部は今頃になって進化を示しているものも少なくなく、上手く出来たものだと感心しつつ、まだまだ2007年度産を追う気分が残っている。

本日は、今年の2月にベルクシュトラーセで買い付けた2006年度産のシュタインコップシュペートレーゼというのを開けてみる。
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発動技術的連鎖反応

2008-12-06 | 歴史・時事
GMが年内に支払不能になれば、連鎖的にオペルやサーブも倒産する。オペルの従業員数は、ドイツ国内では二万六千人とそれほど多くはないが、部品メーカーなどの下請けを入れるとやはり裾野は広い。

オペルだけを救済しようとして、民間がそこに貸付する事はGMが負債を出しているので不可能となると、GMが救済されないかぎりオペルはその歴史を閉じる。同様のGMの子会社であるスウエーデンのサーブも切り離して存続する事は不可能である。だからスウェーデン政府の救済はありえない。

サーブが三十年前に子会社となってからはGMの世界戦略の中で、シャーシからなにからフルクスヴァーゲングループのようにオペルと共同で開発生産して来た事から、アウトバーンでも走っていた小型飛行機のようなコックピットを持った速いサーブは1990年代の中盤には消えた。

その後、オペル・サーブなどは特に興味を持って購入される事はなかった。一度運転させて貰ったが、ベクトラやアストラと比べて良かったとか悪かったとかの話であった。国際戦略によって製造コストが下がったならもう少し品質と価格のバランスが取れて売れる商品が出来ただろう。

欧州の自動車大国ドイツにおいても大変見通しは厳しく、今年度は悪かった昨年比で一割減の新車登録数が予想されていて、相応の操業短縮が盛り込まれている。米国のビックスリーとの相違は、環境に対応した開発力であると言われているが、今後部品メーカーなどは財政縮小と同時に開発への圧力が高まると言う。

要するにハイブリットではトヨタに先行されたドイツ自動車工業であるが、その先進性のある開発技術力は日本のそれを上回っていて自動車の画期的転換が予定されている。

今年の夏の燃料高は嘗てないほど異常であったが、次ぎの車はハイブリット車かと思い気や、ドイツの自動車業界は脱石油燃料を準備しているという。なるほど既に15年ほどに渡って一般路上で水素自動車などが試験されてきたが、そのノウハウの積み重ねが大量生産への技術的基礎を築いたというのだろう。

その技術的成果に関してはダイムラー社などの手元に積んである技術報告書に目を通して見なければいけない。何年ぐらいで本格的に実用化されるのだろうか?

次に購入する車は、タンクに水を入れるだけで走るのだろうか?兎に角、つい先日までSUVなど多くの燃料を消費して環境を害していた車を盛んに売っていたような会社に援助の手を差し伸べても、最終的には潰れるに違いない。

11月に18%も急激に落ちたドイツでの新車登録数から。メルセデスCクラスの新中古車を三割五部引きで発売しているようだが、一万人の期間労働者が解雇され、76万人が操業短縮の影響を受けていると、格安商品でも買うものすらいない。
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稚拙な大衆文化の品格

2008-12-05 | アウトドーア・環境
お馴染みのBLOG「壺中山紫庵」にて、富山からの視点で日本の山に関する記事が投稿されている。そこで、なにに興味があるかと云えば、その視点なのだ。

一つ目の話題は、市街地から望む立山・後立山連峰の屏風のような光景で、私自らの登山行為が限られているためか、当時は車の移動よりも夜行列車が主な移動手段であったためか、それともある山の岩壁などにこそミクロの興味が行っていたためか、その遠望と眺望はある意味未知なのである。

それが、スイスアルプスなどにスキーを含めて年中車で通うようになってから、奥深くの谷は云うに及ばず、麓のそれも市街地からの遠望に馴染むようになって、その都会生活の日常から見える非日常の世界への視点のあり方に気がつくようになった。

幸か不幸か、欧州で云えば、インスブルックやミュンヘン、チューリッヒ、ルツェルン、ベルン、ジュネーヴやグルノーブルなどの町に住む機会を未だに得ていない。つまり白い高峰が聳える世界として、精々東京からの富士山を見ての日々が思い出されるぐらいである。

二つ目の話題は、それを空間的な視点とすると、これは歴史的な時間軸を辿る視点の移動であるが、その視座が存在する人々の生活とそうした山との関係を探ると云う意味では共通していないだろうか?

具体的には、修験道者により日本の山の開山されていった事実関係を、そこにおける宗教的登山の動機を容易に山岳宗教として片付けてしまっているのはどことなく衒学的な態度にしか見えなくなっている。まさにBLOG「schatzky☆ドイツ忘我と結実の境」にて報告された「クーヘン」博士号授与の研究態度とは正反対のあり方なのだ。

もちろん霊山信仰登山は今も富士山を代表に各地で伝統というお題目の惰性で催されているようであるが、その一言で総てを片付けられるとは思わない。それはアルプスの高峰に十字架が建てられているからといってその登山行為とその設置に宗教そのものを見出すのと同じぐらい、もしくは聖サンフランシスコが宗教的な欲求で登山したと決めつけるのと同じぐらい好い加減な定義に違いない。

当然ながら個別の文献やその他の考証によって研究を進めている向きもあるのだろうが、そうした上からの解釈を覆すほどの新たな解釈は知らない。寧ろそうした歴史文化こそが捏造されていると考える方が、― 昨今の証拠証拠とかなんとか宣、修正主義者の似非学問をみていると ― 自然であると思わせるのだ。

だからこそ大衆小説作家の新田次郎などが想像力を精々働かせて、「品格」の無い作文などを売りまくったのだが、こうした大衆の近くにいると見せ掛けた「文化人」は本当にその人々の生活心情を知っているのだろうか?あまりにも、如何わしい。執拗に拘るようだが、だからこそぬけぬけと「アルプスは麓から見上げている方が美しい」などと、谷に住む人間の生活や山との係わり合いを一考もせずに、そのような馬鹿げた事が云えたのである。

そうした大衆文化の稚拙さが、その文化や社会の品格になっていると考えた。



参照:
今日は外出三昧? !  
槍ヶ岳の開祖・播隆上人 (壺中山紫庵)
ケーキ(文化)の研究って、楽しそうだね
ケーキ(文化)の研究って楽しそうだね 2 (schatzky☆ ドイツ 忘我と結実の境)
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個性としての訛り方

2008-12-04 | 
最近人に指摘を受けるまでも無く、おかしな喋り方をしているのではないかと気がついてきた。謂わば、本来日本語のアクセントや訛り方を例えばドイツ語において引き摺っているのは当然なのだが、それがどのような形で一種の訛りとして形成されていくのか、常に関心をもっていた事なのである。

特に、ハンブルクなどの高地ドイツ標準語地域で生活していれば違うのだろうが、高地である南ドイツからスイス・オーストリアへと掛かる地域の文化的影響も強く、さらに最近はこてこての方言の中でしか生活していないような按配だから、電話などで書き言葉を聞くとどきっとする事がある。

TVも殆どみなくなった事から車の中のラジオ放送が主となるが、そこでもシュヴェビィッシュからアルマン方言が飛び交う。ヘッセンの放送などはやはり異なるなと感じるようになって来ており、ザクセンに電話すると身近にいる者の顔を浮かべてそれはそれでなかなかなだなと感心する。

今年死去した親戚の日系二世の話し方を思い出す。最初に会った時がもう三十年近く前になるから還暦を過ぎていたがまだ現役で若かった。それでもかなりゆっくりとした喋り方であって、そのバイリンガルであった日本語力と英語力を考えると、両親が日本人でありおかしな英語アクセントはなかったが大井川以西のそれを身に付けていた。しかしそれが何処のものとは確認出来るほどの言葉上の特徴はなかった。母親の出生については詳しくはないが、日本で生涯を終えた同じ医師であるその弟とともに両親の日本語方言が身に沁みていたのだろう。

弟の方は流暢ではなかったが確か通訳をしたほどに言語能力は高かった筈だが、兄のそれは味はあったが流暢という感じではなかった。今親戚筋で同じような語り口を探すと、叔父などに近いものがない事は無い。

家庭内でも分かり難いと言われた自らの言語能力を顧みるになるほど、その思考傾向はオバマ次期大統領に似ていると思ってもその弁舌は全く異なる。思考形体の一形式としての言語活動は、その発言内容の叙述方にによってかなり変化がある事が想像出来たからこそ、自らのそれにも興味を持っていたのであるが、どうもそれとは異なる生物学的な言語能力もあるに違いないと実感するようになって来ている。

つまり、発言の論理性や組み立ては叙述方の収斂と洗練によって大幅に変化させる事が出来るから、よくあるヘジテートノイズと呼ばれるようなそれは大幅に減らすことが出来て尚且つ内容を無駄なく伝える叙述を実現する事は出来る。これは所謂スピーチの訓練などと同じものだが、そのようなレトリックは芸人や弁護士やセールスマン以外は決して習うべきものではない。これは文章を書くその練習と同じであるから自己の必要に従って修得すべきものである。

しかし文章も、その綴り方や構文とは異なり、どのような響きをそこから発して行くかと定めるとき殆ど音楽的な能力と同じように、その「声」以上にそのテンポ感やリズム感は個性としての言語能力に負うところが大きいように感じる。
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つまらないことはない

2008-12-03 | ワイン
朝からと言うか夜中からファックスなどが入っていて、朝食抜きで処理してしまった。つまらない要件なのだが、早く済ましてしまわないとクリスマス時期に重なると面倒な事になる。昼は昼でゆっくりしている時間もなく様々な事に追われて、冷蔵庫になにも無くなり掛けているので予定通りスーパーに寄る。帰り道には寒い中を散歩とばたばたとしていると、夕食はロール肉の塊にちょっとまたワインを開けたくなるのだ。

先日来、失望も多かったので、既に飲む時期を越えたかもしれないリースリングを思って開けてみた。既に入手困難になったフォン・ブール醸造所のキーセルベルクという男っぽいリースリングである。お隣のバッサーマンヨルダン醸造所の看板のような土壌のワインであるが、2007年は今までで最高のキーセルべルクを提供している。

アルコールも12.5度と大変高いキャビネットでありながら、決して重くはなっていなかったのはこのヴィンテージの鋭い酸のお蔭であろう。だから、春の時点ではヴォンブール最高のワインには違いなかった。

さて、つまらない要件ばかりこなしてまたつまらないワインかなと思いきって開けてみて驚いた。マルメロの味などがしてなかなか通向きのリースリングである。これならば、フォン・バッサーマンのそれよりも現時点では上回っているかもしれない。その透明さは、嘗てのバッサーマンのウンゲホイヤーシュペートレーゼに通じるもので、それをストラドィヴァリウス喩えればこれはグァダニーニぐらいの域に達している。兎に角、素晴らしい。

給仕をやっている子に聞かれるままにちょっと小ワインセミナーを授けたのだが、お客さんに「クリストマンとヴォルフとブールとツィマーマンの違いを教えて」と問われてなんと答えるか?

彼女が言うとおり色が違う、だんたんと薄くなってくる。つまり、色濃い味のクリストマン、力強さと香りのビュルックリン・ヴォルフ、都会的でスッキリしているブール、痩せたツィンマーマンとその色の通りなのだ。

それを説明して、天然酵母を使うため長く浸ける行程や、培養酵母を徹底的に使う方法、比較的短い時間でステンレスを上手く使う方法など、それらの根拠として説明すると、普通のお客さんはなんと思うだろう。

お客さんに「一帯そんなこと何処で習ったのだ」と問われたならば、「高級ワイン協会の隠密から」と答えておけと言っておかなければならない。


追記:フォン・ブール醸造所のキーセルベルクの残りを翌日に飲む。酸もアルコールも落ちて苦味が前面に立ちはだかっていた。やはり、バッサーマンヨルダンのそれには及ばない。もう暫らく熟成するとバランスが崩れるに違いない。今がそれも初日が最高であった。
コメント (2)
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