Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

体を痛め易い人、痛め難い人

2010-06-17 | 雑感
ドイツ語にもクノヘッンアルバイトという言葉がある。まさに昨日は骨折り仕事であった。とはいっても、生まれてこの方、子供の頃関節は頻繁に抜いたが、骨を折ったことは無い。要するに私は、決して日本風ではなくドイツ風である。

只力を使って攀じ登っただけである。ライン平地と平行になって割れているそのクラックを使って登ったのだが、二度目でも一箇所の足掛かりを見逃したゆえに二度も滑落した。それでも登り終えると、胸が張り避けそうになった。ボディビルで、最高筋力を出し続けたような感じで、全ての血液が全身に張り詰めたことだろう。

その前にもある程度の難しい場所を必至で登っていたので、完全に疲れた。そしてその前にはザイルで確保していた者が地上まで落ちて、背中を岩に撃ちつけていた。幸い背骨からは外れていたようだが、かなり危ない落ち方であった。初心者となるとああした落ち方をしてしまうのも一寸驚いた。我々は子供の頃から様々な自然落下を経験しているので、瞬間的に猫のように体勢を整える習性がついている。

その前には家具職人である彼の椎間板ヘルニアなどの話をしていた。足の指が痺れているとか、三か月掛けて治療をするとか大変だねと話していたのだ。これで背骨まで逝かしたら下半身不随になってしまう。さてそれで切り上げた本人はどのように考えただろうか?高所恐怖症だと言っていたが、これで駄目だと思っただろうか、分からない。客観的にみるとやはりあの転び方は具合が悪い。なるほど足元が悪かったにしても、そうしたこともあることも経験しておくのは重要なのだ。

スポーツの危険度や負荷にもよるのだが、怪我をし易い体、し難い体、体を痛め易い人、痛め難い人などの差は大きい。
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医療現場の芸術の素材感

2010-06-16 | アウトドーア・環境
友人についてマインツの大学病院を見に行った。一般外科から移植・放射線課までが収まっている外科病院のロビーにおいてあった彫刻が目についた。

外来のロビーでもあるので皆が通るのだが、その形状とか色も合わせて、青銅の質感が印象深かった。どうしても病院とかを考えると、当たりの柔らかそうな優しさを考えてしまうのであるが、これは全くコンセプトが違うようだ。これはどうも外科病院の特徴をも表しているのだろうか?

なるほど神経科とか内科とはその治療の性質も異なり、なによりも患者の構えというか感覚も異なるのかも知れない。金属の間に木が挟まれているのも特色で、公園等にある鑑賞する彫刻とは異なる存在感がその芸術的な意志であるのだろう。

どうしても健常者の感覚からすると、緑の芝生とか池とか水の流れとかを考えてしまうのだが、実際はそうしたものとは違う感覚が重要になるのだろう。

明らかに患者ではないが日曜日に入院している家族を訪れたのであろうミドルティーンエイジャーの女の子が声をあげて泣いていたが、恐らく誰が亡くなったとかどうかではなくて、死の床にある家族との心理的な疎通の決裂が悲しかったのかも知れない。そうした状況を想像すると、上の彫刻はそれなりの力強さで何かを語ってくるようである。

健常者が考えるような朽ちるような木の肌触りや土の質感では、到底こうした医療現場の雰囲気を受け止められるような芸術にならないのであろう。



参照:
批判精神無しに何を語っても 2010-06-04 | BLOG研究
万世一系、無窮のいきほひ 2010-01-17 | 歴史・時事
旨味へと関心が移る展開 2009-11-07 | 文学・思想
近代科学の限界に向合う 2006-05-04 | アウトドーア・環境
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スカンポンなカメルーン西瓜

2010-06-15 | ワールドカップ06・10・14
カメルーン産の西瓜を齧りながらワールドカップを観戦した。これほど酷い試合を観たことが無いと言うカタリーナ・ヴィット似のギュウンタ・ネッツャが語るのは正しいだろう。まるで監督がいない頭の無い同士の試合で、間違いなく程度の上のカメルーンの試合運びは解せないと、嘗てはドイツ人監督ピスターによって育てられた何もかもを捨て去ってしまっているのを嘆くのは当然だ。

そもそも誰も日本チームに期待の欠片もしていなかったところに、岡田監督が改めて現地で「目標はベストフォー」などと語ったのでお笑いを通り越して、顰蹙さえ買い、嘗ての広告スター中田攻撃に劣らない只一人名前の知られている岡田攻撃がなされたのである。そのような理由で、どうやら個人の技は益々上がっているような日本チームのチームとしての出来損ないぶりは観るべきものがある。

そのためか「君が代」を口ずさむ選手の顔付きまでが、四年前の侍風のものから、まるで島で一人の女を争そう「あなたはん」物語の生き残り日本兵のような情けなさである。監督のおかげか、四年前のようなパスからパスへのおかしな蹴鞠フォーマーションを見せられることも無くなって、偶然にチャンスが訪れるようなその試合展開はまるで子供の試合のようだ。

それに輪をかけてカメルーンの一流選手などが真っ直ぐ前向きにパスしようと走って行くのを観ると、なにも出来ない日本の選手よりも遥かに滑稽である。明らかに程度が上の選手のやることの方が大馬鹿に見える。エトー選手などは一日に換算すると、五百万円近く稼いでいると言うからこれまた馬鹿らしい。

本田選手の得点を見て、「悪くは無いけど、日本のスターのそれと言うのはね」と語るのに全てを表われているだろうか?「デンマークが、日本とカメルーンを問題なく下す」と言うのは間違いなく正しいだろうが、ドイツチームにしてもあまりに強過ぎで始ったのが、幾ら現地が冬型気候としても尋常ではない。



参照:
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シティーでの雨降りシャワー

2010-06-14 | 生活
土曜日はヴィースバーデンのシティーホテルに泊まった。丁度日本から友人が来ていて、ヴァインフェストの二日目の喧騒を逃れた。

いつも素通りしていたホテル自体は町の周辺にあるのだが、ツインルームでかなり安上がりであった。部屋は28平方メーターあり、身にバーを除いては、書き机や椅子なども十分で、平面式TVや空調なども完備している。

朝食付きの価格でのその内容は、ハムや卵なども暖かいビュフェーも良く、コーヒーが既においてあるパーソナルの軽減はなかなかの経営努力である。レセプションがバーと一緒になって入るのもアメリカの安宿のようでこれも良い。

なによりも特別に楽しめたのが雨降りシャワーで、頭が濡れる心配がなければこれはこれでなかなか気持ちがよかった。

細かなことを言えば文句も出ようが、価格さえあえばまた使っても良いと思わせるだけのホテルであった。
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陶酔の中で和声学を学ぶ

2010-06-13 | SNS・BLOG研究
新聞の文化欄は一人の音楽学者の死を伝えている。オペラ作曲家マンフレート・トローヤンのヴィーンでの先生でもあるディーテール・デラ・モッテ教授の死である。

記事によれば和声学の書物としてとても面白い読み物となっているようで、オルランド・ディ・ロッソーからメシアンへと、ヴィーンの古典派では通じても、なぜドュビシイーでは駄目なのか?基本和声からの緊張がカンデンツ構造としてモーツァルトで最も強く効果を発揮して、そうした音の関係は決して自然の掟ではなく、百二十年後にはその妥当性を失った理由を、音楽実践的に綴っているようだ。

そして、シューベルトの「粉引き小屋の少女」に捧げる、その喜びはどうしたものかと言えば、以下の節に表れるようなものらしい。ベッカーの小説の一部だろうか?

"Den Pfälzer Weinen, insbesondere dem Rhodter und Schweigener, in tiefer Ergebenheit"

つまり、泥酔のなかで、プフェルツァーヴァインに捧げるように、それもロートのそれやシュヴァイゲンのそれに捧げるようにである。ロートはランダウより北の南ワイン街道の小さな村で、フランスとの国境にあるシュヴァイゲンと言えば沈黙のことであるが、この文章の冒頭で、それでも献呈された家族はその執筆中に充分に気を使わなくてはいけなかっただろうことが触れられている。



参照:
Den Musen, Zum Tod des Musikologen Diether de la Motte, FAZ vom 10.6.2010
Für alle (madamedej)
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社会史は天災を忘れない

2010-06-12 | ワイン
昨夜の嵐は一昨日ほどではなかった。しかし温度が低かった分被害が大きかったようだ。聞いた所、ミッテルハールトでは被害はなかったようだが、ランダウからフランス国境にかけてのワイン栽培地帯は雹で壊滅的被害を被ったようである。十キロ巾で三十キロの長さの被害地域となっている。

保険会社の概算では、三十億円以上の農業被害で、六千ヘクタールのワインが薙ぎ倒された。時期が時期だけに葡萄は全く収穫出来ないからワインも出来ない。出来ても昔のような樽売りのワイン原料ぐらいにしかならないのではないだろうか?

2010年産には大きな期待をしていなかったが、まさかこれほどの状況になるとは考えていなかった。今回はミッテルハールトは被害が出なかったが、こうした不順な天候は暫らく続きそうで、なるほど社会史的にみてミッテルハールトが南ワイン街道のようになる可能性は地域気象や地学的に少ないとしても、この先も危険が一杯である。

高級リースリングで有名なレープホルツ醸造所も被害から逃れたとは考えにくい。月末にでもお見舞いを兼ねて出かけてみよう。



参照:
Katastrophale Hagelschäden in der Südpfalz (VEREINIGTE HAGEL)
フォン・シューベルト新酒試飲会 2010年5月
カールスミューレ醸造所新酒試飲会 2010年5月 (モーゼルだより)
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ライン河の辺の湖にて

2010-06-11 | アウトドーア・環境
マンハイムからの帰りに嘗て泳ぎに行ったライン河の湖を覘いて来た。昨夜の雷雨は四十億円以上の被害を出したようだが、夜は涼しかったもののそこいらに痕跡の残る今日は摂氏三十度を越えて昨日以上に蒸し暑い。そのような状況だからもっと込み合っているかと思ったが学校の休みでもないので子供連れや中年夫婦がぱらぱらと遊んでいるだけであった。

十五年ほどぶりにみる光景は大分小さくなったなという印象で、砂浜も小さく興醒めであった。やはり他の有料の湖の方が綺麗で良い。特に今は羽のついた種が湖面を覆っていて汚い。水温は高めでそれはそれで快適かも知れないが、一寸沖浅過ぎる気もした。

昨夜の疲れが脚に残っている。特に外側を使っているのが良く分かる。若干走る時に蹴る筋力にも似ている場所があるようだ。上体はそれほど使わなかったが、やはり上腕を中心に快い疲れが残っている。

明日は早起きが出来れば走ってみようかと考えている。脹脛やその辺りの筋力の使い方が更に良く分かると岩登りの上達に大変為になりそうである。
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柔軟な生活態度と満足度

2010-06-10 | 生活
満足度の高い一日だった。仕事量が多くても、あくせくと緊張感が勝っているような一日では満足感は得られない。そこが満足度と多忙と異なるところだろうか。

朝早くからメールを打ち、注文した商品を予定通り受け取って、予定外であったが勝手知ったる仕事を最短時間で片付けと、全く無関係な内容をこなし、二度目の朝食をして、これまた全く違う仕事をしてから遅めの昼食、昼休みをしてから、岩登りに出かけ、ここでまた違った団体や仲間の顔つなぎ合わせの準備をしたりで、どれもこれも全く関連性の無いことで一日を過ごした。

そしてどの分野や関連でも手の内が分かってきている強さがあって、何一つ慌てることなく処理の時間や方法を心得ているので一切慌てず管理された時間感覚で仕事の処理が出来るのである。我ながら、全く無関係な世界でこのように生きているのだと不思議に思うほどである。

これで朝からパンを取りに行って、走って汗を流してとかと、予め自分に課しているような時刻が少しでもあったなら、予定に追われる一日の生活になったのだろうが、殆どそうしたものがないのが幸いした。それ故に予想外の事象に柔軟に対応出来たのかも知れない。

何度か書いているが、何事かが起こるとその時には一斉に予想もしなかったことが一挙にダムが崩壊したように押し寄せるのは今日一日でも実証されたようなものだ。
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人柄が表れる発送確認メール

2010-06-09 | ワイン
ザールの山奥へとワインを注文した。近所だけでて一杯であるので、態々そんなところまでワインを注文するのかと訝られるかも知れない。もちろん、出会いがなければそのような繋がりもなかったであろう。

2007年に、出前試飲会でシュロース・ザールシュタイン醸造所の奥さんに会い、その薦めに従ってはじめて注文してから、二年経つ。今でも良年の2007年産は半甘口とアルテレーベンが在庫としてある。正直、諸手を挙げてその品質に満足した訳ではないが、その使い方によっては一寸在庫しておきたいという気もしたのだ。特に古い葡萄の木からのアルテレーベンは、チーズなど食事に合わせると食後酒などに欲しいのである。

そして今年は辛口路線がコンセプトとして明確化したことも興味を引いた。昨年までのカビネットとシュペートレーゼを止め、本格的に高級ワイン協会VDPのテロワールを主張した果実糖比重を上げない辛口路線へと舵を切ったことは評価出来る。その土壌から題して灰色スレートと呼ばれる商品は目玉であろう。しかしその価格は9ユーロを越えている。要するに名醸造家と呼ばれるレープホルツの雑食砂岩のワインと同価格帯で、それ並みの商品が期待されるのだ。また週末の試飲会に行こうかと思ったが遠すぎて、しかしお試しパック価格なので送料を払ってもお得だ。まあ、試してみよう。

ご主人が早速発送予定を伝えてきた。色々と話を聞いてその人柄はイメージで来ているのだが、まったくそのものが短なメールにもあるれている。そのような人柄が、ワインにも表れない筈が無い。試すのが楽しみになってきた。
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フランス風な響きのある生活

2010-06-08 | 生活
昨晩は本格的な夕立となった。その前からソヴィニオンブランを開けとを決めていた。最初に感じていた甘みは今でも変わらないが、さらに冷やす楽しみが出て、冷えてくると丁度良い味となった。

一夜明けてそのお蔭で今日は一日中涼しかったのだが、朝七時半過ぎには呼び鈴が鳴った。アマゾンに注文した商品が来ることを知っていたので準備はしていたのだが、まさか八時にもならないこの時刻に配達があるとは予想外であった。もちろん配送のおばさんもこちらの事情は良く知っているので、涼しい内にと思って試してみたのだろうが、記録的な時刻の早さなので、思わず「お早いね」と声をかけずにはいられなかった。

実は他の注文品があったので遅れて配送されるその商品に重ねてフランス語の二枚のCD付きのテキストを注文したのであった。先月は勉強の成果を実らせることが出来なかったが、それでも手応えがあったのでこの際、意欲と身体に記憶がある内に、引き続いてヒヤリングやショートフレ-ズを中心に普通にフランスに住める程度の語学力を確保してしまおうという魂胆である。時間があれば仕上げをフランスのホリデー語学学校で集中的に行なえば完全にものになるようにしたいのである。

さてソヴィニオンブランであるが、二日目は酸が増して、漸くスグリ系の味が出てきた。これならば例年の如く来年の元旦が楽しみである。糖が強い分、味も力が劣り難いだろう。なかなか良いものである。



参照:
初夏の夕餉を思い浮かべながら 2010-03-03 | ワイン
これで結構真剣勝負なのですよ 2010-04-11 | 試飲百景
十時には飲んで、金曜日の一日 2010-04-03 | 試飲百景
2009年産の村醒めなどを物色 2010-02-12 | 試飲百景
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ぱりぱりとした朝飯前の運動

2010-06-07 | アウトドーア・環境
朝から走った。数百メートルしかなかったが、外気温17度で汗も薄っすらと滲むぐらいの低燃費だったのには驚いた。靴周りは紐の締まりが段々解れて来て良くなってきたが、左足の裏の筋におかしな着地感がある。上体は意識しているがまだまだ堅く、解れきれずバランスが悪い。足から来ているかも知れない。

所定の往路が下りだと知っているので凄く気が楽になってストライプが伸び易い。息が上がる前にあっという間についてしまったので拍子抜けであった。冷静に計算するとそこまで八百メートルに至らないかも知れ無いので、中距離にもならない全力で走りきれる距離にも近い。

流石に山靴を履いて駆けるのではないので楽なのだ。この距離を片道走るだけなら、三十分以上みっちりと歩く方が運動量は多いだろうが、目的は内臓強化にあるので問題無い。それでも帰宅すると上脚の外側が蹴り足になるためか張っている。それから予想通り、腰裏からみぞおちにかけて張っているので内臓を支える筋力に負担が掛かっているのが分かる。もう一つは上腕から肩の突っ張り感で、これはやはり力を抜いても手を振るので当然であろう。不思議なことに手の握りの下腕も張っている。

毎日インターヴァルのダッシュ訓練をする気は毛頭ないが、気が向いたら少し走ると基礎運動能力も上がりそうなので良さそうである。なによりもダイエットで落ちた強靭な内蔵機能を取り戻したい。焼きたてのブロットヒェンとぱりぱりとした洗い立てのサラダ菜がこれまた美味い。



参照:
狐につままれたような気持ち 2010-06-05 | アウトドーア・環境
初夏の朝の森の散策 2009-05-09 | アウトドーア・環境
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小恥ずかしい音楽劇仕分け法

2010-06-06 | 
瀬戸内寂聴原作、三木稔作曲のオペラ「愛怨」ハイデルベルク再演の千秋楽を訪ねた。作曲家との座談のあとの作品紹介で、現支配人は「日本語原作で上演できて良かった。ドイツ語などでやればミュージカルになってしまう」と素直に述べたが本当にそれが全てだろうか?それならば日本語への作曲は、手馴れた技で素晴らしい日本語を紡ぎ出していたのか?

三木稔は、我々世代にとっては、二十一弦琴への野坂恵子との録音、またマリンバの安倍圭子との協調作業でなによりも有名であり、さらに日本音楽集団と称する和楽器の現在で言えば「女子十二楽坊」のような和楽器の世界への紹介で名を成した。特に和楽器の扱いは現在もその著書などがバイブルとなっていると言う。そのような活動の中で、旧東ドイツの青木建設が施行したライプチゥッヒの新ゲヴァントハウスでの杮落としでのクルト・マズーア指揮でのそれは華々しい活動として記憶に残る。

さて今回の作品自体が2006年に東京の第二国立劇場の委嘱、野村文化財団の公演で制作されて初演されたとあり、そのものこの作曲家の日本における位置付けに相応しく、その劇場の存在と持ちつ持たれずの関係にあるとしても良いだろう。ああした時代錯誤の大きな建造物が倒壊しないようにつっかえ棒が必要なのである。今回はハイデルベルクの建て直し中とかでサーカスのようなテントの中で上演されたので、またそれゆえに一寸した物珍しさの出し物となっていた。当日は外気温が三十度を越える猛暑であり日本の様に湿気はないが冷房設備の無いテントの中は日本並みの熱気があったかと言えば、やはりそれは無くそのタイトルが示すような感覚は得られなかったのがなによりもであった。

「花よ」で始まり、「乙女」で受け、嵐のポルタメントで締める第一景から些か冗長で文字通りの十分な効果を上げなかったフィナーレまでの音楽は陳腐でどっかで聞いたような新味の無いものばかりでったという意見はなるほどであるが、そこに作曲家からなにかを受け取ることが出来なかったかと言えば、そのように単純なものでも無い。

例えばフィナーレにおける死を、先々月に初演されたカール・オルフの処女作オペラのそれと比較すると明らかに、ヴァーグナ-からナチズムへと繋がるショーペンハウワー流のそれではなくて、もしくは更に一般化して今日もハマスの運搬船で行なわれているような「殉教」などを描くことでドマラテュルギーが完成するのだが、三木氏はそれをきっぱりと避ける事で当然ながら一種の座りの悪さが生じる。しかし、そうだからと言って開かれたままの形式も十分では無い。

音楽的にみれば、「桜」ならばプッチーニやドュビッシーに代表されるようなオペラの伝統と化しているそのメロディーを使えるのだが、敢えて悲劇のヒロインをSAKURA-KOと名付けることでその百年以上前の歴史をきっぱりと断絶する。それは、氏が座談会で語った「日本のある首相は固有の日本文化などと言うが、そんなものは嘘である。日本文化は輸入文化である」とする主張にも即している作曲家としての芸術的主張に他ならない。その姿勢は、バースタイン流のラテン音楽の要素を恥ずかしげなく取り入れてみたりと、まさに一時世の趨勢であった「世界音楽」を実践しているのだが、それがなんとも月並みと評価されるものとなっている。この辺りはまさに紙一重なのであるが、十分に好演をしていたディートガー・ホルム指揮の市劇場管弦楽団でも、それを突き破れる程の音楽的構造を元来有していない。

しかし、中間部の二幕に当たる合唱が主体となった望郷の歌や小鳥の囀りからはじめ幼少から、囲碁の風景、「大和」、「里」と歌われフルートの調べが再び子供へと移り、「愛怨」へと運ばれるこのシンメトリーをなす幕は秀逸であり、なんらかの形でこのオペラが再演されるとすれば「中国残留孤児」に向けた音楽芸術としてこのコムパクトに纏まった表現を忘れることは出来ない。まさにここに作曲家ご自身が語られるように「オペラ作曲に向いている作曲家と呼ばれている」と自負する面目がある。

同様に、嘗て琴やマリムバの名人芸を駆使することで大成功したように今回もチューリッヒに在住するピパの名人ジン・ヤン女史のソロ変奏とその音楽は、しばしば名曲として演奏される三木氏の琴やマリムバの曲に聞かれる自家薬籠中の芸術であり、流石である。ここではフルートから琵琶へと渡されて協奏曲としてオーケストラに支えられるが、なぜかここでは独自の音楽語法が上手く決まるのである。それ以上に、当夜臨席した原作者の瀬戸内女史の本質に迫るような彼女の人生哲学が密教を背景に音の織物となる。「御仏の」とか語られる時、その作曲家が語っていた仏教的な難しさは別として、「許さないでくださいと!」この多くの読者を魅了し続けて来た作家の肉声を聞くような思いがする ― 只そうした不条理感が理解されるかどうかはまた別の問題である。

そして、それだけの情動的な情景を形づくっていながら、経験豊富なオペラ作曲家としては、世界音楽の中で中国人がそれ風の音楽作りの中で日本語を話す奇異以上に、その日本語の美しさが無視されたデクラマチィオーンには残念を通り越した傷みを感じなければいけなかった ― それでも上述したようにテクスチャーの異なる合唱部分では上手く行くのであるが。作曲家のホームページにある様に、大手術を乗り越えての活動には敬服以上のものを感じつつ、まさに氏が語っていたようにそれは、ブーレーズの言葉を借りてなんと「プッチーニ以降にオペラは無い」とする非常に複雑な姿勢を示している背景そのものの芸術家の裏切りでさえある。

実際にハイデルベルクのサーカステントの下で、音楽劇を意識して繰り広げられたのは、ダルムシュタットのオルフ作曲「犠牲」初演が大変興味深い今年欧州で行なわれた音楽劇場上演であったのに対して、殆ど高校生の小恥ずかしい学芸会程度の上演であった。こうしたことに税金を使っているとすれば第二国立劇場と呼ばれるものがまさに仕分け作業の対象になるしかないのである。そこには、特別な芸術的主張など必要ないのである。



参照:
待ってました!日本一!成田屋! 2010-02-07 | 文化一般
批判精神無しに 2010-06-04 | BLOG研究
オペラの小恥ずかしさ  2005-12-09 | 音
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狐につままれたような気持ち

2010-06-05 | アウトドーア・環境
本格的な陽射しとなる前に森を急いで歩いた。休日明けで樵以外には誰も居ない。はじめて運動靴を履いて出かけたのだが、起き抜けなので自重して歩いて往路を終えた。体が温まった所で、復路は走ろうと思ったのだ。そして前を見て驚いた。川下へと降りて行くのに道が登っているではないか。今まで何度となく歩いていて全く気がつかなかった。走ろうと思うと傾斜に敏感になってしまうのか、靴の高さが違うからか理由は未だに飲み込めない。視神経がおかしくなったのではないかとも思ったが、冷静に振り返りながら見つめるとやはり往路は下りている。駐車する場所が峰筋にあって、折り返し点が谷の上流にあれば、気がつかない程度に恐らく高度差で五メートルぐらいは下りているのだろう。谷の水の流れ反対に比較的平坦な林間道が平行して伸びているので、錯覚が生じていたことは分かるのだが、歩いていて全く気がつかなかった事に更に驚いている。そう言えば一度走った時に下りのような感じがしたのを思い出した。兎に角、狐につままれた気持ちである。

急いで車で戻ると、朝八時のニュースでどこかの財務大臣が総理大臣になったと報じていた。ご多分に漏れずカーンと呼ばれるユダヤ人で何処の国のことかと思っていると日本の総理大臣のことであった。

初夏らしく暑くなった。一昨日は杣道の急坂を直登して、結局見通しの利く場所には出なかった。嘗ては低山の山歩きなどには興味がなかったのだが、訳の分からない道を歩いてどこか知っている場所に出るかなという楽しみは独特で地図もコムパスもヘッドライトも無く彷徨するのもなかなか面白い。荷物を担いでいたのでかなりの運動量となった。そのようなことで今朝も走る事はなかったが、無理の無い範囲で少しづつ運動負荷を上げてみようと思っている。なによりも足腰の充実が狙いであるが、同時に内臓の状態を良くするために少し体を痛めない程度に走ってみたいとも思い出した。走るといってもいつも走ると癖になるので時間が無い時などに上手く歩行と合わせられるのではないかと考えている。ジョギングをしている人は多いが、そのような理由もあって、それはやらないのだが、早く走れる可能性を高めて行くと良いコンディショントレーニングになりそうである。なによりも内臓を支える筋肉を整えたい。歩いていては効果が無い場所もあることに気がついた。

休日の昨晩は、ミニザウマーゲンを食したので、飲み代が底を突いている蔵を探して、クリストマン醸造所の2008年産マンデルガルテンを開けた。飲み頃には早いのは知っているが、2008年産のグランクリュが新鮮に開いて来ている時なので、そのために購入した二本の一本を試してみたのである。味筋は、となり合わせの地所からのリースリングで馴染んでいるミュラー・カトワールのそれを思い起こさせる。天然酵母を使った独特の醸造をしているので、その土壌から来る重みは酵母で丸くなった量感のある酸とバランスをとっているのだが、その浮び上がって来る香りと共に吟醸酒的なリースリングである。なるほど日本で一部に人気があるのも頷けるが、地元の食事を考えるとこってりとした味付けが必要かも知れない。以外にプフェルツァー牛ステーキの玉葱添えなどは合うだろう。流石に味の深みはあるので変化は愉しめるだろうが、これだけ愉しむとなるとその個性が鼻につくだろう。価格も三十ユーロを越えているので比較すれば殆どの人がバッサーマン・ヨルダンのホーヘンモルゲンを選ぶだろうが、そうした高級感やエレガントさは間違いなく欠けるにしても、それよりは落ちるマンデルガルテンの地所ワインを味わいたいと思い、こうした独特の甘露を味わいと思えばやはりこれに触手が伸びるかも知れない。このグランクリュの将来性は、初めから爺臭いのでそれほど落ちないかも知れないが、益々熟れて日本酒風になることを考えれば、元々の果実風味が強い分イーディックのペトロールな熟成香よりは益しだとしても、レープホルツ醸造所の2004年産に代表されるようなピーマン味や塩味の方が良いという人も少なく無いであろう。年度によっても異なるが二年目ぐらいに飲み干す方が良いだろう。この傾向からすると2009年産は健康な葡萄でなかなか良いかも知れない。
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批判精神無しに何を語っても

2010-06-04 | SNS・BLOG研究
マルティン・ハイデカーは、1935年11月13日にフライブルクで翌年1月にはチューリッヒの大学で、「芸術作品の源泉」と題して、また「杣道」と題して1936年11月と12月にフランクフルトのゲーテハウスにて講演した導入に、次ぎのようなことを語っている。

芸術作品の源泉は、芸術家の行ないから生じるが、その芸術家はどうやって、どこからそれを導くか?その作品によって、芸術家は褒め称えられ、その作品によって芸術の親方として芸術が生じる。芸術家は作品の源泉であり、作品は芸術家の源泉である。そして、芸術によって芸術家と作品の不可分な存在が生じていることを述べている。

鶏が先か卵が先かの議論であるが、ここから多くの本質的な事柄が、存在論として論じられる。19世紀のドイツ理想主義とニッチェやキルケゴールの批判を通して、実存主義と新カント主義の勃興の中での哲学と説明される。

今週は共通の話題を扱っているBLOGも多く、流石に昨今流行りのツィッターでは述べきれない興味深い文章が多いので、久しぶりにBLOG研究を試みよう。先ずは、鳩山総理辞職を扱ったBLOG「雨をかわす踊り」から「No Progress」を読む。「相変わらず一億総批評家の国で、政治が変わるのは、政治家が変わることではないことが依然としてわからぬらしい。」と、「聞く耳を持たなくなった」とされる主体を批判する。

BLOG「妄想的音楽鑑賞とお天気写真」の「鳩山退陣に思う」には、「だから、なんであの時民主党に大勝をさせてしまったのか、私たちはよく反省をしないといけないのです。マスコミではないのです、マスコミのニュースをみてそういうところばかり喜ぶ私たちが反省すべきだと思うのです。」と明確に政治主体者の立場を批判して、「不気味なのが新聞もテレビも一斉に鳩山批判をしていると言うこと。これもおかしいでしょう。」とその商業ジャーナリズムの一面を容赦なく切り込む。

BLOG「アド ルノ的」の「ユキオ・ハトヤマの政権投げ出し」には、「欺瞞的な社民党のミズホ・フクシマ。ヒロインきどりでテレビ局をはしごして」と、その商業ジャーナリズムが喜ぶように振舞う政治家の姿と、それによって動かされる主体の危うさが語られる。

それとは反対に、一貫してその主体に「主権を渡すと日本が崩壊するという国家危機意識」が存在して、その第四の権力を標榜するマスメディアが本来なすべき「(エスタブリッシュ層である)パトロン自身を、倫理的・文化的・歴史的・論理的・客観的・実証的な意味での多様なレトリックの創意工夫とその駆使によって厳しく批判するとともに、彼らに<人間社会の真理の所在>を気づかせるように仕向けるのがジャーナリズムの役割」を果していないと、同じくエスタブリッシュ層である鳩山政権、特にまるでヒットラーの「我が闘争」を実践しているかのような小沢何某を「推定有罪」にしたと責めるのが、BLOG「toxandoriaの日記、アートと社会」の記事『推定有罪』で第一発見者・鳩山が退場宣告された『普天間移設に絡む』である。

これら様々な意見に共通しているのはジャーナリズムであり批判精神のあり方であろう。当然のことながらその批判精神の基礎となる前提である思考法が問題となっている。その欠如が、日本の二大政党制への信仰であり、それによって大衆低俗ジャーナリズムが経済的基礎を保とうとしたのであるが、それは同時にエスタブリッシュメント層を保持する理念の無い保守思想と理想主義がない混じりになった思考態度でしかないのである。

あまりに「主体思想」の話題のようになってしまったので目先を変えよう。先日から職人の技とその作品の成果として、ドイツのリースリングが大変に話題となった。まさにそこには、保守的な考え方である伝統と、その土台に立って何をなして行くべきか、もしくは何を批判していかなければいけないか、もしくはその審議眼と呼ばれるものが、本来あるべき玄人やジャーナリズムの本望であることが話題となった。

冒頭の哲学者の考察の取っ掛かりをそこに当てはめると、対象となるものは醸造されて出来上がったワインであり、そこに匠や親方がいて、出来上がったワインは只の嗜好品以上に殆ど芸術作品のように扱われて市場で評価されることもある。そして、そうした匠の技はやはり原料である自然の素材如何によってその真価を発揮することとなるのである。

そこには、素材があり、伝統という歴史があり、技がある。そして、遺伝子工学的に改良され、科学技術的に解析され、汎用技術化した工業生産の複製品が市場を駆逐している。しかし、本来は農業であり、工業化とは相容れない営みがあるからこそ、それだけの付加価値が伴うのである。

匠のなせる業は素材ゆえでもあり、素材ははじめて技によって価値を獲得する。それでは我々は何を対象とすれば良いのだろうか?こうした基礎的な考察無しに何を語っても始らない。それでもなにかを語るのはそこに商業があるからだけなのである。それを商業ジャーナリズムと呼ぶ。



参照:
高等文化のシンクタンク 2009-12-02 | 文学・思想
印象深い精神器質像 2009-11-20 | 雑感
退屈凌ぎに将来への新たな一歩 2010-05-31 | 試飲百景
閉塞のドイツワイン (モーゼルだより)
突っ込みどころ満載のヒネた1本
やはり経年変化の少ない酒質 (新・緑家のリースリング日記)
天才肌のワイン職人 (ドイツワインがいっぱいのブログ)
デュ ルクハイム (a diary of sociology)
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暫らくご無沙汰しているうちに

2010-06-03 | 
昨晩電話に出た。電話帳に載っている電話である。それに出ることは五回に一回ぐらいである。電話がなる時刻とか鳴り方で気が向いたら出る。先日も同じような時刻に執拗に鳴らしていたので気に鳴っていたのだ。

電話に出るとシュヴァルツヴァルトの友人であった。クリスマスに来年は居ないと話していた母親が亡くなったとのことだった。思ったよりも早かった。気にはなっていたのだが、正直忘れてしまっていた。一月に亡くなったようだ。

後悔先に立たずで、その時なぜ花でも贈っておかなかったのかと思うのだが、全くそのようなことは忘れていた。なぜだか良く分からない。「相変わらず忙しくしているのか?」と聞かれる。しかし、気になったファスナハトの時には既に亡くなっていた訳で、なるほどその頃は忙しかったのだ。

先代、つまり亡くなった母親の旦那が健在なころ、つまり四半世紀前に知り合って、何度も車で町まで送ってあげたりしたことを思い出す。まさに僅かな時間だけであるが二人だけの思い出があって、私が乗っていた全ての車に乗っているのである。BMWの皮の座席は冬は冷たいと批評していたのを思い出す。一寸した思い出話である。それを残された家族と話すことになる。

当日出かけた床屋では高級リースリングの話となった。最近は南ワイン街道でも高級なものを造っていると話題になった。雑食砂岩のうすっぺらい味のリースリングを良く知っている者にとっては南ワイン街道のワインなんて、そのもの樽売りのワインでしかなかったと語っていた。まさにその通りで、その土壌や地所は今も変わらない。ミッテルハールトのフォルストなどとは比較出来ないからねと話した。

肉屋に行くと、明日の休日のゆえに列が出来ていた。そしてVDP会長クリストマン氏が居たので挨拶した。明日旅行前に取りに来ると話していた事からするとVDPのパーティーか何かに持っていくザウマーゲン類に違いない。ワインは殆ど出揃ったようなので、近々訪ねると話しておいた。少しばかりご無沙汰していたので丁度良かった。



参照:
心に沁む最後のイヴの電話 2009-12-25 | 女
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