Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

針が落ちても聞こえるよう

2017-10-17 | マスメディア批評
週末は、暖かかったのだが、運動が出来なかった。とても時間も余裕もなかった。次のコンサーツも二週間後に迫っていて、二種類のプログラムもお勉強しておかなければいけない。一つは、バーデンバーデンでのゲヴァントハウス交響楽団の演奏会で、ブルックナーの七番とメンデルスゾーンのヴァイロリンコンツェルトである。両方とも比較的問題の無い曲なので時間は掛からないと思うが、先ずは無難に後者はブライトコップ社の楽譜をDLしておく。

このコンサートの個人的な聴きどころは、何よりも初めてのゲヴァントハウス管弦楽団の生体験なのだが、この管弦楽団が本格的な由緒のある本格的な交響楽団なのか、それともその大規模所帯で当地のオペラ劇場で弾いている座付き管弦楽団なのかである。今まで考えたことが無かったのだが、今回ツアーの指揮を執る九十歳のブロムシュテットに言わせると、クルト・マズアーが残したその楽団に苦労した話しや、今年になって聴いたコンヴィチニー指揮「タンホイザー」の録音を聞くとどう見ても地方の座付き管弦楽団としか思えないからである。

ミュンヘンの座付き管弦楽団が舞台上でも向上しようとしているようだが、現在のそれと比較してゲヴァントハウスは全く違うのか、似た方向にあるのかなど知りたいと思う。少なくとも指揮者リカルド・シャイーが長く留まるような管弦楽団ではなかったようで、後任指揮者アンドリス・ネルソンズもどこまでやれるのかなどと、とても疑問に思っているからである。

もう一つのクリーヴランドの「利口な女狐」が結構厄介である。楽譜はピアノ譜を落としたので、音源として週末土曜日にデジタルコンサートでライヴで流された土曜日のベルリンのフィルハーモニーからの映像がULされるのを待つ。それを落として一通り確認しておきたい。ピーター・セラーズは今度はどのような仕事をしているのだろう。そして、ベルリンのフィルハーモニカ―とクリーヴランドのそれを直接比較出来るのが何よりも嬉しい。

陽が射して室内にいると黄金の10月が漸くやってきた気がすると同時に眠くて眠くて仕方がない。(承前)そこで先日のミュンヘンでのコンサートでの二つの批評記事に目を通す。先ずは前半の「子どもの不思議な角笛」に注目して目を通すと、思わず吹き出してしまった。一つは南ドイツ新聞なので日刊紙の書き方でもあるのだろうが、もう一つはネットでのクラシック音楽サイトであり、何よりもマティアス・ゲーネの「高等な芸術」を報告している。

前者は、彼の声がまるで高圧に閉じ込められたバスの力強い声のようで、柔らかな高音も絶えず基音に脅かされているようだと書き、その雷音は、まるで国立劇場の壁を震わすようだと表現している。声の大きいドミンゴではないので、まさかNHKホールを共振させるようだと思った人はいないと思うが、こういう表現も日刊新聞向きで面白い。

後者での叙述は若干専門的になるが、基本は変わらず、なによりもこの歌手の風貌とその芸風が殆んど狂人的な雰囲気を醸し出していて ― それ故にウラディミール・ユロウスキー指揮のザルツブルクの「ヴォツェック」の名唱がボツになったことが惜しまれるのだ ―、ここでは狂気と信心が最早かわらず、彼が丁寧に歌えば、聴衆はこの歌手が言葉を忘れたのではないかと凍り付きそうになるというのである。

そしてその声をして、まるでくすくすと火が燻っているようで、「この世の営み」での„Und als das Brot gebacken war, / Lag das Kind auf der Totenbahr.“ を挙げて、そこでは殆んど無色彩の声が、「トラムペットが鳴り響くところ」の„Allwo die schönen Trompeten blasen, / Da ist mein Haus, / Mein Haus von grünem Rasen.“ では、ぱっと燃え上がっていたと書く。勿論そのような無防備な道すがらを伴奏して、ペトレンコは只の名人芸を超えて、色彩と影でゲーネの「高等な芸術」を可能にしたと書いている。

キリル・ペトレンコは、この後期ロマン主義的な管弦楽のマーラー作品を古典現代曲の室内楽的ばりに、丁度ショスタコーヴィッチのそれのように扱い、そこでは千変万化のリズム的自由自在だけでなくて、木管、金管、弦の合成で色彩的な「イディオム」で彩ったとして、そうしたマーラーの近代的な音述だけでなく、屡々オペラ的な繋がりを感じさせたと書く。

そして、「聴衆は、今晩はいつもの食傷気味の粉ものマーラーでは無いと逸早く察知して、曲間では肺炎のサナトリウムかと疑わせるような、言葉の綾ではなく針が落ちても聞こえるかのようだった」と興味深い記述があり ― 到底コンサートホールのそれには比較出来ないと思うのだが ―、日本の聴衆は今後ともこのような記述がある度にほくそ笑むのではなかろうか?(続く



参照:
"Musik als Gewaltakt", Reinhard J. Brembeck, SZ vom 11.10.2017
"Petrenko beeindruckt mit Mahler und Brahms", Bernhard Malkmus, KlassikInfo.de vom 11.10.2017
夕暮れの私のラインへの旅 2017-09-29 | 試飲百景
秋雨で10月のような気配 2017-08-12 | 雑感
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思し召しのストリーミング

2017-10-16 | 
東京からのラディオストリーミング放送を無事聴取した。いつロケットが飛んで来て人迷惑なアラームで中断されるかとひやひやしていたが、金さまの思し召しで無事やり過ごせた。役にも立たたない警報で文化的な放送が中断されるとなると最早それは戦時態勢社会と呼ばれても仕方がないだろう。あの極右のポーランド政権でもそんな子供騙しのことはしていないと思う。いつものように日本とポーランドを比較すれば、ロケット防衛システムで合衆国と協調することはポーランドの国益に適うが、日本それは外交的国益に適わないどころか合衆国の軍事産業の育成でしかない。やればやるほど金さまの目標となり易く、国益に反するだけでしかない。如何にポーランドが現実政治の中で外交的見地から粋を尽くして、ロシアに対してもEUに対しても合衆国に対しても外交力を発揮しているかとの相違が甚だしく比較対象にすらならない。日本は未だに真面な外交すらしていない、恐らく明治維新以降ということだ。

前日から目覚ましを掛けて日曜朝7時空の放送に備えた。6時になる15分前に目覚ましを掛けていたのがスイッチを間違っていて鳴らず、タブレットのそれで目が覚めた。ルーターをリセットして万全を期す。VPNサーヴァーは前夜から見当をつけていて、中断無く完璧に作動してくれた。東京からの中継がアラーム中断の可能性が低いのか、関西の方が良いのかは分からなかったが、前夜の邦楽などを聞いた印象では東京の方が音質的に優れているように判断した。

承前)解説も前振りも全て聞いたが、キリル・ペトレンコを紹介して、ベルリンの監督に推挙される前から「オペラ界の巨匠」としたのは一歩踏み込んでおり、今回の演奏実践をマーラー演奏とヴァークナーのそれの基準になる可能性のあるものとしての言及も遠からずであるが、これも説明無くかなり踏み込んでいた。

総譜を広げながら放送を流していたのだが、10月10日のミュンヘンでの演奏会と明らかに異なっていたのは、例えば既に触れた「無駄な骨折り」での基本テムポと表現である。この指揮者の場合楽譜を読む時にテムポが完全に定まっている筈なので、たとえ伴奏であったとしてもその変化を不思議に思ったら、楽譜には「Gemächlich, heiter」 としか書いていない。八分の三拍子でこの言葉の意味「慌てずにゆっくり」で「楽しく」を含むと、ここで歌われているのはどう考えても遅過ぎて、シュヴェビッシュの言葉のアクセントも壊れてしまっている。恐らく東京での公演では、歌手のゲーネの意見を尊重すると同時に、放送での細部への配慮を考えてそれに従ったのではなかろうか?このテムポでは全く「楽しく」なく、ミュンヘンでの一茶のような俳諧も全く感じられない。その他の曲でもなるほどダイナミックスレンジは下に広がっていて驚くが ― NHKの収録技術共に ―、表現の精緻さや起伏はまだまだ狭く、プログラム一回目の本番演奏としては事故無しを第一に考えている様子である。収録の関係か、管弦楽団に対して声が可成り大きく聞こえるのは、管弦楽の音の押さえ方なのだろうか?

ミュンヘンでは、管と声の繋がりがとても良くて感心し、楽譜を確かめてみなければいけなかったのは「Und als das Korn/Brot」の一節目で、フルートとコールアングレが伴うところだが、この三節目の繰り返しの相違を確認するだけでもこの創作の意図が見えて来るのではないか。そして本番四回目の弦を合わせての精度には驚愕した。

その他、「原光」ではミュンヘンでは管と弦が物理的な距離もあってか ― オペラ劇場は舞台が深い ―、距離感があって大きなパースペクティヴを以って絶大の効果として響いたが ― これはその他においても管と弦が交わる以上に対抗・相槌の関係で響いた -、ここでは少なくとも放送ではそのようには響かない。

その他は、どうしても楽譜を見ながらとなると管楽器の演奏などが気になって、前打音が確り出ていなかったり、コールアングレが引っ込んでしまったりとその名人技には限界が見つかってしまう。それでなくてもこうしたよく出来たライヴものでも何回も繰り返させて聴かれるとなると、当然ながら修正しなければいけない傷は幾つも見つかる。余談だが、NHKの編集は、ドイツの番組時間ぎりぎりに押し込めているのと異なり、長めにフェードイン・アウトを使っていていい。

なるほど指揮の職人的な面とは別に、そこから楽譜をこうして調べることでその演奏実践から創作の本質的なところに手が届くようになるのが音楽であり、その努力を惜しむと何時まで経っても芸術を読み解くことが出来ないのである。そのような演奏がキリル・ペトレンコの芸術である。

後半の「ヴァルキューレ」第一幕も想定以上に所謂蓋の無い演奏実践として興味が尽きないが、あと三カ月もすれば2015年バイロイト以降初めての「ヴァルキューレ」演奏となるので、年末年始にこの録音も参考にして集中して触れたい。今回の舞台での演奏は、歌手の適役などの問題は明らかだが、来る一月の公演で必ず大きな意味をもってくると思うのでとても貴重な資料となった。(続く



参照:
オープンVPN機能を試す 2017-08-19 | テクニック
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評
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マーラー作プフェルツァー流

2017-10-15 | 
承前)日曜日にNHKFMで10月1日の演奏会の録音が中継される。その前に忘れないうちに四度目の本番公演であったミュンヘンでの「子供の不思議な角笛」演奏について書き留めておこう。その演奏についての細部についてはラディオを聞いてから更に思い出すかもしれないので、大まかなことだけを纏める。

公演前のガイダンスで思いがけないことに気が付かされた。それは「子供の魔法の角笛」原文は方言色が強く、それも「無駄な骨折り」のシュヴェビッシュだけではなくて、プファルツの方言だというのだ。私に向かって言った訳ではないと思うが、全くそこに頭が回っていなかった。プファルツと言っても所謂マンハイム、ハイデルベルクのラインネッカー周辺のクアープファルツなのだろう。バイエルンからすればまさしくカールテオドール候のお里であり、植民地のような地域の感じになる。因みに、ドイツェホッホロマンティックとはハイデルベルク、ライン、イエーナ、ベルリンからなるらしい。

勿論少なくともグスタフ・マーラーが作曲したものに関しては、そうしたアクセントは強調されていないので、音楽的にはそれほどの意味をなさない。それでも一般的に言われるユダヤ的なリズムや例えばクラリネットでのクレズマーの冠婚の音楽やトリラ―の多用など、そのままのコラージュされる要素がより普遍的な意味を持つ。それをプファルツァーのアクセントに引っ掛けても決して違和感がないような感じがして、ローカルと日常、そのまるで万華鏡を覗き込むかのような世界観へとその意味合いが拡大する。今回の演奏でも「少年鼓手」での木管の上向き吹きなどに、どうしてもそこまでを聞いてしまうのだ。

あのおどけたような感じは、なるほど作曲家が書いているような市井のそれが取り囲む環境の自然に繋がりるという謂わば非芸術的な世界を描いているとなる ― 狭義のコラージュとなる。これを突き進めていけばもうそこにヨーゼフ・ボイスの世界が繋がっている。但しここではダダイズムやクリムトなどへと容易に考えを広げる前に、再び重要な点を思い出しておきたい。

一つは、ガイダンスでも挙がっていたタイトルの「子供」であり、先週末ラディオでマティアス・ゲーネが「子どもは関係ない」と電話口で語るのとは正反対の世界に留意しておくことだ。これは、復活祭の第六交響曲演奏前に語られていた所謂幼児世界のことを指す。マーラー研究の一つとしてまた恐らく精神分析的な見解として、この作曲家にとって表現されるべきとても「大きな世界」であったようで、それが根源的な前記の自然、環境認知へと結びついていて、そこでは最も日常茶飯なものが第一次資料となるということのようである。

その第一次資料として、作曲家は1906年に傾倒者であった作曲家アントン・ヴァ―ベルンに「子供の角笛の後は、リュッケルト詩しか作曲しない、それは第一次資料で、それ以外は第二次資料でしかないからだ。」と書いていることに相当する。

例えば今回最も素晴らしかったのは「無駄な骨折り」の殆んどオペラかリートか語りか分からないような歌唱であったが、会場がくすっと声が漏れるほどの効果があった。これなども本当に直截な表現であり、まさしく第一次資料による自然なのだろう。

それにしても東京からも指摘があったが、ゲーネの歌唱は嘗てギドン・クレメルが「ヴァイオリンソリストとしての最晩年」にやっていたような無音の音楽表現で全く声が聞こえないような呟きの歌唱になっていた ― 本人はヴォルフラム歌唱に際して管弦楽に合わせて声量を下げたなどと言い訳している。

それにしても「浮世の生活」での ― これは原題は「手遅れ」であるが ―、ヴァイオリンの八分音符のせわしない動きも見事に、それをまた声に合わせる精妙さは昨年の「四つの最後の歌」での絶賛に勝るとも劣らない名技だと思った。この管弦楽団ほど声に合わせられる管弦楽団は世界に存在しないと思う。同じように絶賛されたパガニーニでの演奏が恐らく「タンホイザー」を除くと今回の日本公演でのハイライトであったという指摘にも肯ける。ヴィーナーフィルハーモニカ―にあの精妙な合わせが出来るかと想像してみる必要もない。

繰り返すが日本からの放送が上手く聞ければ、また二つの異なる批評に目を通してから、全ての曲でたっぷりと音価を取ったその細部について触れたいが、今回は交響曲ではなかったが、明らかにグスタフ・マーラーの創造に新たに強い光が照らされるのを感じる。マーラー解釈に関してはレナード・バーンスタイン指揮のそれが途轍もない影響を与えてルネッサンスとされた訳だが、それ以前に今回の曲の一部もブルーノ・ヴァルター指揮国立管弦楽団によって1915年に演奏されているという。そこまで遡っての新たなルネッサンスということになりそうだ。既に学究的な立場からは様々な研究結果が出されているようだが、それらが全く演奏実践として反映されずに、バーンスタインの影響から逃れられなかったのが今日までの歴史だった。(続く



参照:
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
少し早めの衣替えの季節 2017-09-16 | 暦
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無いとなると想う有難味

2017-10-14 | 雑感
漸くタブレットの機能が殆んど戻って来た。リセットしてから三週間ほどになる。それほど不便はしなかったが、次々に使っていた機能が欲しくなって来る。ざっと機能を挙げると、NAS接続呼び出し、VPNを使ったラディオ受信、VNCヴューワーを使ったPCのリモートコントロール、dlnaメディアのNAS等からの呼び出し、オーディオキャストでHiFiから音を出す機能ぐらいが通常のインターネット機能に加わるだろうか。使う必要が出て来て初めて欠けていたことに気が付く。

一通り機能するようになったのでデスクトップも整えた。新しいカヴァーで使い勝手が良くなった。なんといっても作動状況が良くなってストレスが少なくなった。先ずはこれで基本動作は元通りになった。

肉屋に行くと夏の間は無かったロウラーデが戻って来て、これで再び毎週のようにこれが楽しめるようになった。夏の暑さで腐るので涼しくならないと出ないのである。早速冷蔵庫に残っていた青ピーマンを細切りしてオーヴンで焼いた。前日に開けたブルゴーニュを合わせる。

2014年産マルサネである。初日からデキャンターに移したのだが、やはり酸が強い。酸が強いのと同時に薄っぺらいので良くない。近々バーデンバーデンに出掛ける途上、また違ったのを買ってこようと思う。流石に二月前に開けた2012年産シルヴァン・パタイユのそれとは大分異なる。価格で10ユーロほどの差だっただろうか?それがまだ残っていたら買っても良いと思った。

前日はダルマイーヤで購入したフィレパイとバムビのテリーヌを楽しんだ。そして雉のテルーヌとロウラーデとした。ワインがもう少しよければよかったなと思う。それ以上にジャガイモをグリルしだしてからもなかなか仕事が終わらなかったのでイライラした。お陰で夜も三時過ぎに目が覚めて寝不足となった。

明け方に約束があって電話しようと目覚ましを取ろうとしたらサイドボードから落ちて傷んだ。購入早々に手を滑らすほど手にしっくりこない形状と素材なのだが、針音がせずに、無線時計なので使い易くて愛用している。五年を超える。電池が飛び針の動きが可笑しくなった、何とか直ったようだが暫く使って見ないと目覚ましを信用してよいものかどうかは分からない。

そもそも目覚ましを使わなくても目が覚めるのだが、逆に目覚ましを使うときは未明に早起きして出かけなければいけない時でその時に作動しないと大変なことになるのである。暫くはテストしてみなければいけない。

眠い。兎に角、普段は使わないでもないと困るので、同じものを購入しようと思えば、2012年に17ユーロだったものが今は25ユーロになっていて、激しいインフレである。その割には有価証券などは充分には伸びていない。30ユーロも支出するならば他に買いたいものがある訳だ。やはり無駄に思う。



参照:
貧血気味に二回の肉食 2015-12-22 | 料理
なによりもの希望 2017-10-10 | 歴史・時事
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シャコンヌ主題の表徴

2017-10-13 | 
承前)ブラームスの交響曲4番で最も耳についたのは三楽章アレグロジョコーソ楽章のコーダでの並行短調つまりイ短調とハ短調音階に和音連結されるところであった。これは展開部でのffz‐pの和音連結の対比として響くのだが、ここではffの後にsempreと書かれているだけなのだ。これが通常はイケイケのアクセントとして響くのであるが、つまり強弱記号が無い四回の連結はffで演奏されるのが常のようだ。しかし今回はハ短調和音がその楽器編成と音高に見合った抑えられた感じで響いた。その真意は改めて考えるとして、同じように演奏している録音は殆んど見つからず勿論フルトヴェングラー指揮も通常通りだ。そこでYOUTUBEで見当をつけて探して聴くとあった。やはりチェリビダッケ指揮ミュンヒナーフィルハーモニカ―の演奏だった ― オリジナル楽器楽団をガ―ディナーが指揮した演奏も同じように響いたように思う。
Brahms - Symphonie N° 4 (Celibidache) cf.34m10s


しかしそれよりも何よりも音楽的にその場で感心したのは四楽章のシャコンヌ主題が再現部の26変奏で弾かれるところで、ここはあっと思った。通常の演奏では、ホルンに続いてヴァイオリンの三連符の波の中でオーボエに引かれるような感じで、その音高からして浮ついてしまうのだが、楽譜を見ると確かにオーボエはpになっていて、弦と同じように松葉のクレシェンドになっている。恐らくここはオーボエにとっては強起なのでどうしても出てしまうのだろうか。それに引き換え低弦部はしっかり出ないのが通常だ。しかしこれが効いていると、「シャコンヌ感」と「ソナタ形式感」がぐっと実感されて、その後のコーダでのヴァイオリンでの提示に影響するのは当然だ。天晴と言うしかなく、前記チェリビダッケでも野放図になっているところで、如何に巨匠と呼ばれる殆んど全ての指揮者が楽団の前で勢いと権威で仕事をしていて真面な楽譜読解力が欠けているかが明らかになって驚愕する。勿論パート譜を眺めて仕事をしている楽団員は何かをしようとしても全体での音の鳴りの中で自らの楽譜を音にするしか致し方ないのだから勢いが歴史的な演奏実践となってしまうのだろう。
Brahms - Symphony n°4 - Berlin / Furtwängler Wiesbaden 1949 cf.41m06s

Leonard Bernstein, Boston SO Brahms Symphony No. 4 cf.39m24s

Evgeny Mravinsky - Brahms, Symphony No.4 - 1973 cf.37m30s

Carlos Kleiber - Brahms Symphony No.4 (4th mov,) cf.7m35s


その他一楽章から二楽章など動機のアーティキュレーションの正確さが要求されることで初めてブラームスの創作が音化されるのだが、やろうとしていることははっきりしていながらも流石に国立管弦楽団の優秀さをしてもとっても無理がある。例えば早い連符での強拍弱拍へのスラーなどはベルリンの樫本氏にお願いしないと無理ではないか。更に、折から投稿された日本の毎日新聞に「バイエルン州立管こそペトレンコのベストパートナーではないかと」などと頓珍漢なことが書いてあり、またこの座付き管弦楽団が「ヴィーンやドレスデン、ベルリンの座付きと同等の管弦楽団を目指す」と報じられているとなると、これはどうしても厳しい目で(耳で)批評しなければならない ― 兎に角、繰り返すが音楽著述を糊口の凌ぎとするような者は、少なくとも自分が感じた印象が、何か科学的に根拠があるのかどうかを ― 音楽の場合ならば楽譜にあたって ―、若しくは先ずは自らの置かれている環境を分析して、最低自問自答してみることはジャーナリズムの原点ではなかろうか。

後述する「子供の不思議な角笛」で聴かせた恐らくヴィーンなどでは到底不可能な次元でのアンサムブルや音楽を先ずは差し置くとして、例えば管楽器のその音色などは如何にそのホームグランドの劇場のコンサート会場としての音響を差し引いてもやはりあれでは駄目だ - 求心的な抑えた響きが出せていない、つまり喧しい。

日本でも最も厳しい評価として、初日の文化会館でのコンサートに「到底CPの合わない管弦楽」とあったが、それはある意味正しい。私自身もホームグランドでのアカデミーコンツェルトに出掛けたのは初めてだが、少なくともコンサートゴアーズが毎週のように超一流の世界の交響楽団を聞いていれば到底お話しにならないだろう。個人的にもミュンヘンまで行って聞くような管弦楽団ではないと再認識して、逸早くベルリンのフィルハーモニカ―とコンサートで指揮して欲しく ― 三回ミュンヘンにコンサートに行くぐらいならば一回ベルリンにペトレンコ指揮を聞きに行った方が遥かに良い ―、 オペラは残された期間ミュンヘンで、そして逸早くバーデンバーデンでスーパーオパーを聞かせて欲しいと思った。

なるほど、後述するようにフィルハーモニカ―では出来ないようなことがこの座付き管弦楽団には出来るのだが、期待していたブラームスの響きとしてもあの管楽器では致し方ないと感じた。勿論管楽器奏者も素晴らしい演奏をして、特にフルートのソリストは最後に舞台上で駆け寄って長話の特別な奨励を指揮者から授けられていたようだが、今後名人奏者が続々と入団する訳でもなく、やはり上手いといってもフィルハーモニカ―のように数年で粒が揃う訳ではない。ジェネレーションが変わるまで不断の努力をするほかないのである。ゆえに次期音楽監督は超実力者でないと務まらないのである。そうなれば、今の様に楽譜に忠実な演奏形態を座付き管弦楽団が希求するならば、殆んどスーパーオパーに近づいていくことは確実であり、他のライヴァルの座付き名門管弦楽団とは一線を隔することになるだろう。

今回のコンサートでの楽員の表情には、容易に満足できていない表情があからさまだった。流石に演奏者自身だから出来ていないことがよく分かっているのだろう ― たとえ歴史的にそれ以上に真面に弾いている録音が皆無だとしてもである。そして公演の「角笛」写真でも比較的硬い表情を見せていた。それはなぜなのか、日本での評価も踏まえて関心のあるところだった。(続く



参照:
ブラームスの交響曲4番 2017-10-08 | 音
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評
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ルツェルンの方が近いか

2017-10-12 | 雑感
ミュンヘンから帰って来て疲れた。午前中は仕事にならない。オペラではないので遅く始まって予定通りに終了。ミュンヘン市内の工事中で迂回などで時間が掛かって、帰宅したのは3時間半後の午前一時半過ぎだった。それからダルマイールで調達したミュンヘン名物の白ソーセージを温めて食して、パウラーナーのヴァイツェンビーア飲んで床に就いたのは三時半だった。

帰路、眠くて急ハンドルを二回切った。一度目はいつものところである。アウグスブルクからウルムまでの間の三車線の薄い上り下りのあるカーヴのところで、恐らく車線を跨ぐ感じだと左右前後のタイヤの圧力が変わるようで、アウトバーンに欠陥があるのだろう。いつもの同じだと思う。もう一度はシュヴェービッシュェアルペンの山を下りて来てからシュトッツガルト飛行場へ向かうところで、眠くて三車線の真ん中を走る前のトラックにぶつかりそうになった。

朝起きも悪く、遅めにパン屋に出かけて、無理してでも一っ走りした。眠いのだが、一汗流さないと余計に具合が悪くなる。週明け月曜・火曜と運動をしていないので限界である。なによりも頭が回らないとつまらないことばかりを考えてしまう。例えば今回の往復では、前日に満タンにしてからパン屋へと一往復したので二リットル以上無駄にした。そこでノンストップ往復は叶わなかった。そして帰路、アウトバーンで入れた燃料は10リットルで3ユーロほど高くついた。折角安く満タンにしても一部相殺されてしまう。

最初にスキーを道具屋に持っていかないといけなかったので、マリーエンプラッツの駐車場に初めて駐車した ― 以前は市街地にはベックの裏手の駐車場を使っていた。それでもそれほど無駄な距離は伸びていなかった。なるほど地元の人でないと入り難い場所にあるが、山道具屋の真下なので今後も使うことがあり、試しておいてよかった。そこで4ユーロ支払い、更にいつものように劇場の下に入れ直して、前払いで16.50ユーロ支払った。コンサートなのでオペラ上演よりはその点では安くついた。

燃料を余分に使ったのは往路での工事・事故渋滞もあった。事故で道路の横の崖の上に頭を下にして車が乗っていて、トラックや乗用車など四台ぐらいが接触で係ったようだった。ミュンヘン往復するといつも事故に出合う。これだけ通うとなると注意しなければいけない。

コンサートについては纏めなければいけないが、初日のコンサート評も出ていてそれに目を通す前に纏めてしまわなければいけない。また、2018年のエネスコフェスティヴァルにキリル・ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカ―が登場という情報も流れていて気になるところだ ― どうも2019年が正しいようで、以下の予定は一年遅れになるのが正しいらしい。

2018年のザルツブルク、ルツェルンは振らないという話しだったが、そうではなくて9月にブカレストで指揮となるならば、8月の終わりにシーズンオープニングを指揮して9月中はお披露目をするということだろう。ブラームスの作品などがプログラムに入って来るということなのだろう。それは一体どういうものか?(続く



参照:
軽く回り過ぎるエンジン 2016-12-02 | 雑感
気が付かないスイスの揺れ 2017-03-08 | 雑感
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教養ある世界一の聴衆

2017-10-11 | 文化一般
キリル・ペトレンコ指揮凱旋コンサートを前に、マティアス・ゲーネがバイエルン放送協会の電話インタヴューに答えている。東京で「子供の魔法の角笛」を歌って帰国したところである。十数年歌い続けているマーラーの歌曲についての考え、想いを語っている。それに続いて質問に答えて、日本の聴衆についてコメントする。独逸との比較において「電話が鳴ることなど経験したことないし、その会場がザワザワすることが無い」とその集中と静かなこと以外に、彼に言わせると、「音楽教養をもった人々が、インターナショナルにオープンになって来て、世界で恐らく一番素晴らしい聴衆の一つが日本のそれだ」となる。これは私が最も知りたかったことの一つである。

嘗てから特に東京の音楽会場では、所謂音楽教育を受けた人々と、今でいうクラシックオタクの人達によって、上の言葉で言えばとてもクローズで硬直した聴衆がその特徴だった。なるほど世界の大都市でその比率からして恐らく最も音楽の高等教育を受けた専門家の割合が多い都市だったが、それ故に、また制作メディアとの比較という方法で、技術的間違い探しの様な聴習慣がある聴衆だったのだ。言葉を変えると、教育は受けていても教養が無いのが東京の聴衆だったかもしれない。同時に今でも話題になっている知ったかぶりのオタクによる拍手のファールなどに見られる聴衆層がそれを特徴つけていたのだった。

今回の日本公演は色々な意味から文化的な評価をしてよいと思う。なによりも上に述べられているような、要するに教養のある人々が、そうした首都の文化を支えているということを確認したということである ― 中産階級の破壊とはといっても信頼できる良識人の存在である。それは、ミュンヘン側からすると前回のフクシマ寡に伴う大キャンセル問題もあって、神経質になっていたことは想像出来るので、聴衆の反応を殊の外注意しなければいけなかったということでもある。更に、今回の関心の的でもあったキリル・ペトレンコの特殊な立場である。

この天才指揮者も2015年にサイモン・ラトルの後継者として漸く世界的脚光を浴びることになったのだが、その特徴は日本ではCD等の録音が殆んど無い音楽家として知られており、これは業界から見ると商業メディアが関与しないつまりその広告費や活動費が一切使われないタレントとなる。それ故に日本側の招聘元を除くと、劇場の広報がその予算から最大限の活動をしたとみている。それに我々もSNSを使って各々協力したのであった。要するにBMWなどが直接関与した台北とは異なり、ミュンヘン側からすると飽く迄も非商業的な活動であったのだ。つまり今回の公演での日本の聴衆の反応はそのもの商業的なイメージ作りの影響を殆んど受けていないということでもある。

上述のように日本の聴衆の反応を分析することが様々な意味合いで興味深いのはその点である。キリル・ペトレンコが今現在までメディア契約をせずにこうして世界的に注目を浴びるということは、業界的な視座を越て革命的なことであり、この指揮者が純粋に芸術的な枠を超えて途轍もない破壊力を示したことになる。このことに関しては、昨年の欧州ツアーから極東ツアー、そして来年のニューヨークツアーへと繋がることになる。

月末のメルクーア紙は、ベルリナーモルゲンポストが報じたようにそこでのインタヴューをもとに、国立管弦楽団の四度目の「今年のオーケストラ受賞」と今後の抱負について伝える。楽団はペトレンコ音楽監督のお陰で今後ヴィーンやドレスデンやベルリンに並ぶだけの自信を語っており、自主的なプログラム構成などを模索しているようだ。これも他の楽団などと同じく、マスメディア離れした自立とマーケティングへの試みである。そして、次期監督として、これまでの成果を継続するべく、管弦楽団として更に成長していきたいということで、ボストン交響楽団音楽監督アドリス・ネルソンズが第一希望らしい。併任のゲヴァントハウスで上手く行かないようならば、オペラ歌手の奥さんのことも考えればミュンヘンに来るだろう。しかし現実的には、コンサート指揮を見込んでパパーノとユロウスキーの二人の指揮者と交渉中ということのようである。

SNSなどの手段の恩恵のみに限らず、やはり人々は少しづつでも学んできているに違いない。全てが商業化されて、そうした価値観しか通用しなくなったかに思えたのだが、やはりそうはならない。芸術文化において明らかにそうした反響が認識されたとき、人々の世界感は間違いなくそれに続くようにして変わって来る。



参照:
DER BARITON MATTHIAS GOERNE, 06.10.2017 von Sylvia Schreiber (BR-Klassik)
Die Eisenbahner vom Bayerischen Staatsorchester, Markus Thiel (Merkur.de)
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評
身震いするほどの武者震い  2017-09-27 | 音
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なによりもの希望

2017-10-10 | 歴史・時事
発注していたタブレット入れが届いた。今まで使っていたものがボロボロになったので、まだ使えるタブレット用に恐らく最後の入れ物を発注したのだった。今までのものを2014年9月に購入しているので、丸三年使ったことになる。30ユーロも払ったが皮革を使っていて一度洗ったりしたので破れた。今回のものは燃えそうな合成もので10ユーロである。

手触りなどには違和感も無く、ざらざらしていて滑りにくく、手に馴染む。更に立てたり寝かしたりの機能性は格別に上がっていて、スピーカー音なども良くなりそうである。先ずは良さそうだ。

タブレットの工場出しからの再調整はNAS接続などに一部問題が残っているが先ずは普通に使えるようになっていて、なくてはならぬ端末となっている。

ネットでは相変わらず好評の立憲民主党であるが、選挙を前にヴォランティア―を各選挙事務所がネットで呼びかけたことはとても評価出来る。今回のネット戦略として始めから予定していたのかもしれないが、ネットで精々一票にしかならない支持を如何に選挙で勝ち抜くための支持にするかは最大の問題だっただろう。もしこれで充分な数の人々が実際に活動するとすれば本当に票に結びつくかもしれないからである。

嘗ての革新陣営なども特にその敷居が高く、イデオロギーが立ちはだかって、組織的な組合員などでなければ入り難かっただろうが、このフォロワーからヴォランティア―への流れは選挙を変える可能性があると見た ― フォロワーの数パーセントでも何らかの形で実際に動くとすればこれは大きい。その一方で組織的な組合なども動けば力強い。未組織の一般市民の政治参加を促す大きな契機になって、首尾よく当選すれば直接代議士に圧力を掛けれるようになることを意味する。このことは何よりもの希望ではなかろうか?



参照:
トップニュースは柏崎刈羽 2017-10-05 | 歴史・時事
キットカットにリカヴァリー 2017-09-22 | テクニック
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嘘のベーシックインカム

2017-10-09 | 雑感
日本記者クラブからの中継を見終わって、パン屋に向かった。前夜にもネットでの討論会をYOUTUBEで見た。BIの話しから耳を離せないからである。前夜に小池知事の話を聞いてはっきり分かった。視聴者からの「労働意欲を失わないか」という質問に対して、「ベーシックインカムは通常の収入に上乗せするものだ」と明言したことだ。翌日には「枠が決まっていない」とか誤魔化していたが、その意向は解明された。つまり年金以下の金額が一様に生活保護者から障害者にまで支払われるということで、不労者は浮浪者並みに陥り、元気ならばなんとか稼げても障害者など完全に困窮に落ち込み、全ての手当てはそれで支払われているので物乞いをしろと言うことらしい。

ドイツの緑の党もベーシックインカムに反対なのは健常者とそれ以外の人との差が埋められないということで、まさしく働かないで良いことこそがベーシックインカムの信条なのである。峠から走り下りて汗を流して、車で戻る途上、森へのは入り口で栗拾いの人を見かけてスピードを落とした。家族づれなど多くの人が栗拾いをしていたが、すれ違ったのは早朝銀行で見かけなかったCAおばさんだった。ピンクの服が見えてすれ違う時に分かった。自分で栗を茹でる訳ではないから拾って金にしようというのだろうか。先日も若い福祉士のような女性と朗らかに話しながら歩いていた。態々寒いのに浮浪しないでもよいのにと思うが、金だけはしっかり握っているのだろう。彼女もどちらかといえば障害者ともいえよう。

もう一つ大阪のやくざ政治団体の知事が高等教育の無償化と議員報酬の削減などを並べて話していたが、まさかB層と呼ばれるような知能程度の低い人でも流石にこれについては突っ込みを入れるだろう。一体議員の数と高等教育を受ける人の人数だけでもどれだけの差があるのだろうか?そのようなものが財源になる訳がない。

さて、いよいよ時間が無くなって、追い込まれてきた。ブラームスに続いて、プログラム一曲目の「子供の魔法の角笛」のお勉強である。

一曲目「ラインの伝説」でなによりも目に付くのは、テムポ指定が最初から「のびやかに」から二小節目にはリタルタンド、三小節目でテムポになっていて、二小節目のエクスプレッションから、歌詞が無くても三小節目から「歌う」になっていて、全く歌詞の無い歌となっている。そこは草刈りの労働歌であるが八分の三拍子であるから一寸けだるいネッカー河畔の雰囲気であり、水辺を思わせる。指輪が河にぷかぷかと流されて遥か海に沈むのだが、そして魚に出合うと「最初よりも少しのびやかに」となっている。実際にはスラーの中の三連符の中にアクセントがつけられていて、魚の泳ぐ躍動感的なものがあるのだろう。その後王の食卓の魚から指輪が出てくる件で再びポコリタルタンドが掛けられて、また再び更にリタルタンドとなる。

二曲目の「トラムペットが鳴り響くところ」は、三拍子の幻想的な恋悲歌と二拍子のトラムペットの軍ラッパが組み合わせられている訳だが、そもそも冒頭の三拍子の朝の響き自体が起床ラッパ風に組み合わされているのが面白い。調性的な扱いも興味深い。

三曲目の「浮世の生活」の弱音器をつけたせわしい生活の刻みの繰り返しのブラックユーモア効果もあるが、子供の叫びに合わせたダイナミックスも目に付く。

四曲目は「原光」。

五曲目の「無駄な骨折り」は、なんといってもシュヴェビッシュ訛りの響きが面白いのだが、これも三拍子のウイット系の「ラインの伝説」と共通点が多い。

六曲目の「死んだ鼓手」での三巡目の死の行進続ける最後の手前でオーボエ、クラリネットの旋律が一度だけピアノで声に重ねられる。

七曲目の「少年鼓手」での同音進行や四度の下降音型、テムポを落としてから二部の対旋律のコールアングレなどが所謂初期の角笛交響曲よりも後年の死の主題となっているのは、そのテキストの内容の通りである。



参照:
ブラームスの交響曲4番 2017-10-08 | 音
BIのユリノミクス? 2017-10-07 | 歴史・時事
Simple is the best. 2017-07-28 | 雑感
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ブラームスの交響曲4番

2017-10-08 | 
冬以降初めて入浴した。寒かったからでもあるが、早い夕食で時間が出来たということもある。久しぶりに湯船に浸かるとやはり気持ちよかった。予想通り交感神経が緩んで起きていられなくなり早めに床に就いた。ぐっすりと眠ったが未明に目が覚めてこれまたぐっすりと二度目した。朝寝したが、とても効果があった。

来年一月のホテルを予約した。ミュンヘンへの観劇は通常は日帰りだが今回は一泊劇場から歩ける範囲でアパートメントを借りた。価格は適当で、必要なければ無料でキャンセルすればよい。車も劇場下に泊めて置けるので楽である。

来週の音楽会のために車に燃料を満タンにした。折からガソリンが安くなっているので助かった。もう一度出かける前に入れて満タンにしておけば比較的安上がりになりそうだ。

お勉強の方も始めたが、「角笛」と交響曲4番のプログラムで想定していたよりもオタマジャクシが多いように感じた。なによりもブラームスにおいても主旋律と対旋律ぐらいでしかその目の詰んだ織物を考えていなかったが、その声部毎のダイナミックスやアクセントを拾っていくととてもそれでは済まないなと感じた。恐らく歴史的な演奏実践の継承として、先ず何よりも和声的な観点でアーティキュレーションがなされていて、常套手段として解決されているのだろうが、よくよく見ると態々そのように作曲家が書き込んだ意味を考えさせるところが多々ある。

それとは別に一楽章の第二主題部での三連符などでもブルックナーなどではいつも決まったように納まっているのだが、ブラームスではその動機と他の動機との繋がりが気になって来て、たとえ対位法的と言われても到底主と従の様には処理出来なくなってしまう。

二楽章のフリジア調の主題とその後の経過の三連符と弱起のアーティキュレーションとの繋がりがとても面白く、とても細かに作曲されていて、やはりとても興味深い。

三楽章の三連符から第二主題の変形での大きく動機を拡張、対比と、第一主題のスラーの掛かった動機対比など、やはりこれは対比する主題の展開や縮小などではなく動機の組み合わせであることがよく分かる。

終楽章のパッサカリアでも三連符でクライマックスを迎えるのは良いが、それ以上に展開部へのリタルタンドとコーダでのポコリタルタンドを除いて、強拍にもつけられる数々のディムニエンド指定が目につく。

作曲経過を読むと四楽章のあとに三楽章が書かれていて、なるほどなと思った。全体の見通しがよく効いているからである。また初演がキリル・ペトレンコが音楽監督だったマイニンゲンの管弦楽団を作曲者本人が振ったとある。

恐らくブラームス演奏では最も権威があり歴史的にも重要なカール・ベーム指揮の録音などを聞くと、ここぞというところでおかしくならないようにそれを準備するようなテムポの運びをしていて、如何にノイエザッハリッヒカイトというようなものがその最大の効果を計算されたものであるかがよく分かる ― 要するにそこに至る準備を滞りなくして指揮台に立っているのがよく分かる。但し残念ながら管弦楽団が座付きのそれなので崩れることはないが全く楽譜の指定に無頓着な演奏が繰り広げられている。幾らでも録り直しの必要な箇所もあるのだが、指揮者もそこまでの意志も無いのか最初から無駄だと思っているのか分からないがそうしたものがこの曲の代表的な録音になってしまっている。

実はその前にいつものようにフルトヴェングラー指揮の戦中のライヴ録音を聞いたのだがそれは全く駄目だった。それについて触れずに、YOUTUBEで1949年のヴィースバーデンでの録音を聞いて驚いた。楽譜の情報が確り表現されていて、座付き管弦楽団とは違うのは当然ながら、ベルリンのフィルハーモニカ―を指揮してしっかりと楽譜が音化されている。今録音が残されている指揮者では、フルトヴェングラーはピエール・ブレーズと並んで、キリル・ペトレンコの楽譜の読みに迫る指揮をしている数少ない天才であることがこれでも分かる。そのテムポに関しても幾らでも自由自在になるのは、本人がバーデンバーデンのラディオで「幾らでもきっちり振るのは簡単で、自分は偶々指揮の才能があったから」と話していた通り、いつでも正しいリズムが打てる天分があったからなのだろう。
Brahms - Symphony n°4 - Berlin / Furtwängler Wiesbaden 1949



参照:
逆説の音楽的深層構造 2017-10-04 | マスメディア批評
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
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BIのユリノミクス?

2017-10-07 | 歴史・時事
ランニングのための靴下を二種類使っている。一枚の踵が破れた。洗濯物の乾きも悪くなるので、もう一足を発注した。ネットで探すと適当な安いものは以前使っていて同じように踵が破れたものがあった。使い勝手は分かっていて価格もまあまあなので発注したのだ。久しぶりに履いてみると問題になったウレタンの混紡が暖かかったが、夏には向かないのを思い出した。冬はこれが気持ちよく使える。走りは相変わらずだが足元が冷たくなく快適に走れた。

同じ靴下を購入したのは三年前の夏で、アマゾンが取り扱っていたので送料無料で14ユーロ。今回は送料3,75で16ユーロである。送料はもう一つの靴下を購入したのだが、全部で4ユーロほど高価になっている。品質は全く改良されていないと思うがインフレが厳しいご時世で仕方がないのかもしれない。

そこで今急に思いついた。昔から日本でも何度かなされたようだが、結局マルクからユーロのデノミネーションでその交換相場に当たる二分の一以下の支払いで済んでいたのは最初の数年間で、直ぐに半分以上の額面で支払うようになって、今では当時マルクと同じ額のユーロでは物が買えなくなってきた。つまりインフレはこの十数年で倍以上になっている。それが実感である。実際独逸の場合はユーロ市場になって儲けているのでその通り成長しているのだが、成長しなかった国が破綻するのは当然だろう。日本もハイパーインフレにならない時期に百分の一の切り下げすべきだったのではないだろうか。

日本のネットを読むと、低所得者を支援するベーシックインカム(最低限所得保障制度)の導入と時事通信にあった。こう来たかと思った。しかし 朝日新聞を読むと、生活に最低限必要なお金を国民全員に給付する「ベーシックインカムの導入」を明記 とあった。全く意味が異なる。もちろん後者が本当のべーシックインカムで、朝日が書いている通り「国民全員に一律に配る」のが大前提である。しかし、最初の時事などは低所得者支援となっていて全くあり得ない支給の仕方である。この相違はその考え方の原則にかかわり、ベーシックインカムへの大きな誤解を生じさせることになっているので明白にしなければいけない。

要するにあらゆる国民保険などをチャラにすることで初めて可能になる究極の経費削減と小さな政府を構成することでその国に住む市民全員が最低限の生活を保障されることである。その所得や時間を有意に使うことで、湧き起こる創造性豊かな社会の活気に、個人消費を中心に経済の活性化がはかられるとともに、非生産的なあらゆる国の事務管理などの無駄が一掃できるというものである。もしこれが本気ならば支給額の見通しを示すべきではないだろうか。勿論小池都政が行ってきた在日朝鮮人疎外や排外主義とは正反対であり、居住する外国人が最も得するようになっているシステムである。勿論市民を「セレクション」するなどということはこの原則にはあり得ない基本であることはその目的からして明らかなのだ。そして即不履行になる年金も養護などのあらゆる福祉支給を補うだけの支給額に至るかどうかが味噌である。これを本気になってやるならば、権力の集中を招くような議員数の削減とかは必要なく、生活に困らないのでより多くの人が代議士として薄給で国政に参加できるようになるのに違いないからである。

南ドイツ新聞無料のお試し期間が終わる前に、キリル・ペトレンコ関連の演奏会記事を中心に60件ほどをDLした。内容の程度如何に拠らず、ミュンヘンでの活動に関しては地元紙であるからBRと並んである程度網羅している筈だからだ。それでも初期には、今ほど情報量が無く、ケントナガノの方が多めな感じすらある。



参照:
腰痛日誌五日目、柔軟 2017-01-11 | 生活
月2500スイスフランの魅力 2016-06-05 | マスメディア批評
外国人に手厚い社会保障 2014-12-05 | 文学・思想
十分検討に値するやり方 2014-12-13 | 文学・思想
カズオ・イシグロで馴染み 2017-10-06 | 雑感
ハイテク製品の収集効果 2015-05-01 | テクニック
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カズオ・イシグロで馴染み

2017-10-06 | 雑感
ノーベル文学賞にカズオ・イシグロとあった。TVなどでは昨日から話題になっていたようだが、関心が無いので知らなかった。個人的には驚きだった。売れっ子であるのは知っていたが、それほど重要な作品を書いているとは知らなかった。関心を持ったのは15年ほど前であり、フランクフルトで立ち読みしたが、内容自体に興味を持てなかった。むしろお目当ては同じノーリッジの大学でもドイツ出身の丁度十歳上のW.G.ゼーバルトの方であった ― こちらも文学賞に推薦されていたが自動車事故死で適わなかった。それ以降名前は聞いてもあまり関心を持つことが無かったので驚いたのだ。もう一人の日本人の村上の方はベストセラー作家なので興味が無くても作品ごとに何かを聞くことはあっても、ノーベル賞作家の方はそこまで話題にはならないからだ。大衆文学などは所詮そうしたものである。

そして何を自分で書いているか忘れたので、KAZUO ISHIGUROや石黒一雄で検索した。全く出てこないのでおかしいと思って、英語のWIKIを覗くとカタカナで書いてあった。私にとってはあくまでもこのカタカナの作家のようで ― 恐らくそこがこの作家に興味を持てなかったところだと思う ―、二つの記事が出てきた。一つはフランクフルトでの記憶通りだったが、もう一つはクリスマスプレゼントのための年間推薦リスト紹介だった。当時は、文学書をこの時期にこうして目を光らしていたのだった。あの当時はじっくり読書をする時間があったのだ。そうしてこうした文化欄のリストにも興味があったのだ。最近はそうした心理的余裕がなくなっている。

バスルームの掃除前に懸案だった照明を外して、それを拭って見る。水で流すとメタル部分は綺麗になったが、問題はそれを支えるプラスティックの部分が黄ばんでいることだと分かった。メタルの格子になっている部分も茶色がかっているが反対側はそうではないので、裏側を向くように設置すればよいと思った。結局スプレー塗装することにした。天気は良く、風が強いので、バルコンでさっさと塗布して、掃除が終わるころには再び設置できるぐらいに乾いていた。

取り外すときは乾いてネジを外してもくっ付いていたのだが、設置するとネジが一つ緩くなってしまったので、ネジを取り換えた。前回籠もり部屋のデスクスタンドを塗装した時は、そもそも黒色を白色にしたので使える光量になったのだが、これはもともと白だったのでそれほど変わらない。それでも少しは明るくなったと思う。

東京の選挙は毎日毎日動いているようだ。最も興味深いのは、あそこまで世界的に話題になった小池新党が「セレクション」を境に一気に下火になったことである。なぜここまで具合の悪いことを敢えて行ったかである。考えられるのはやはりその背後にある合衆国の意向としか考えられないのである。初の女性首相が手の届くところまで来ていたというのは世界の見方だったので、どうしても腑に落ちない。要するに天下を取ってから幾らでも粛清出来、政界再編も可能だったのだ。それが出来ないというのは、典型的なポピュリスト政治家とは、議論によって仲間をつけて増やすという政治の政治たることが出来ない政治屋ということになる。

つまり、どう考えても個人的に首相になることではなく、合衆国の目的とする自衛隊の軍事的利用に沿った政権の掌握だけが至上使命であったということだろう。日本社会にも流石にこれには感覚的な拒否反応が生じたということでしかないのだろう。そのようにしか考えられないような政治感覚である。そのような政治家が大東京の首長や政治家としてやって行ける筈がない。要するに小池新党には政治力が殆んど無い連中が集まっているということではないか。首班指名を受けるという覚悟がないことで政治家として終わっただろう。



参照:
マイン河を徒然と溯る 2006-02-24 | 生活
落とした年間リリーズ 2005-12-17 | 文化一般
黒い森の女への期待 2017-09-06 | 女
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トップニュースは柏崎刈羽

2017-10-05 | 歴史・時事
車中のバーデン・バーデンからのラディオはトップで柏崎刈羽再稼働合格を伝えていた。二つ目がカタロニア独立宣言に関するものだった。日本市民の反対を押し切っての判断とされる。日本は選挙で賑やかだが、その中に事故当時の枝野への嫌悪が囁かれていて、あの男への支持はそれほど強くはない。それでも口先だけの嘘をぬけぬけと語る細野元補佐官よりは遥かにマシであろう。細野は落選運動をすべき政治家に違いない。枝野の顔を見ると当時の「直ちに健康には」の発言やその後の在東京ドイツ大使の話しを思い出して複雑な気持ちになるが、有権者はマシな方を選択するしかないのであろう。

そのリベラル政党立憲民主党のサイトが一日少しで十万人のフォロワーを集めたとして話題になっている。SNSの活用はとても重要だが、それが投票行動に結び付くとしても、小選挙区では殆んど選挙には影響を与えないのではないか。但し話題になることでマスメディアでの露出度が増えることで関心は高まるだろう。何十万の支持ぐらいでは50議席も獲得できない。IWJのサイトでも期間が異なるとはいえ十八万を超えているが有料の会員はいつも5000名を超えるかどうかというようなことになっている。

新聞の経済面一面に連邦共和国での地域格差が選挙区毎の地図になっている。一番裕福なバイエルンのミュンヘン南部で平均年間三万ユーロの可処分所得で最低のベルリン近郊で一万六千ユーロとなっている。つまりベルリンの町外れの買い物客の購買力はミュンヘンの町外れのそれの半分ほどになる。外交官やロシア人などが多いベルリンの市街地では高級品も売れるのだろうが、格差が遥かに大きいことになる。首都なので治安が守られているのだろうが、混乱が起きればやはり酷いことになるかもしれない。

ミュンヘンに匹敵するのは、シュトッツガルト、フランクフルト、ケルン、ハムブルク周辺しかない様だ。その次のランクで、二万三千ユーロ以上に、ハノーヴァーやアーヘンやワイン街道北部などが入って来ているので、やはりここは失業率が比較的高めの割に可成り裕福な生活をしているのだと分かる。東ドイツではライプチッヒやベルリンから南のスペーア流域などが少々マシなだけで二万ユーロに至ろうかという程度のようである。

アムステルダムのコンセルトヘボーからのニュースレターに話題のユロウスキーの指揮したラフマニノフの三番協奏曲のヴィデオがあった。DLして仕事しながら流してみた。世捨て人の様な人らしく、稽古場の横に住んでいてカフェテリアにコーヒーを取りに行くような人らしい。この指揮者の音楽を初めて聞く訳だが、リズムも昔のロシア人指揮者の様なタメがあるようで、レパートリーによっては評価が分かれるのかもしれない。確かに管弦楽が良く抑制されていて、客演にしては立派なようだ。但し、玄人筋での評価に比べて一般的な人気が釣り合っていないというのも分かるような気がした。

先週ボールダーのマットの横に実のようなもの落ちていた。木の上から落ちてきたのだろうが緑が強かったので不思議に思って持ち帰ったのだった。それほど複雑な木の森ではないのだが、どこから落ちてきたのか分からなかった。



参照:
細野補佐官のついた嘘 2011-06-08 | テクニック
情報の隠蔽も未必の故意 2011-07-01 | マスメディア批評
予測可能な環境の修辞法 2011-04-08 | マスメディア批評
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逆説の音楽的深層構造

2017-10-04 | マスメディア批評
強い雨音で目が覚めた。明け方の雨で、その後晴れたが頂上まで走り上がる気持ちがすっかり失せた。休日明けのことを考えれば無理することは無い、一日お休みするだけだ。

ブラームスのお勉強をしなければいけないのだが、なかなか端緒につけない。朝から前日にネットに出た「タンホイザー」の朝日新聞の評の独タイトルを考えていると時間が掛かった。理由はとても短かな字数の紙面に内容を書き込もうとしているからで、その内容の要約に手間取った。朝日のネットに先ず無料ログインしてそれを読んでも何が言いたいのかよく分からなかったが、いざ要約しようとするとその最も分かり難い部分を読み解く必要が出てきたからだ。以下の部分になる。

「不条理劇のごとき演出に、ペトレンコの音楽は驚くほど一体化している。…とりわけドラマの深層の微細な心理…しかし深層において音楽の構造は完全に組み替えられている…」

新聞の見出しはこの「一体化」を引用しているが、それ自体も全く分からない。「不条理劇のごとき演出と音楽、驚くほど一体化」のその説明が更に難しい。「しかし深層において音楽の構造が組み替えられる」というのは、なにか作為的な演奏解釈によって劇的構造が変わったようにも読めるが、その直後に「決して奇をてらった演奏ではない」と断っていて、それならば深層がどこに掛かるかとなる。ここから学のある人ならばディープストラクチャーなどの用語が出て来て、すると組み替えられるのは、音楽的なマニエーレンとかそうした表層的なことではない、深層のことと理解するのかもしれない。これを訳そうとでも思わないと、そこまで読み解こうとは誰も思わない。すると完全に記号論やチョムスキーなどの用語となって来る。書いているのは音楽学者となっているので、古典的な楽曲分析のようなものを期待すると全く異なる。要するに大衆紙朝日新聞のこの小さな記事を読んで、肝心の箇所を理解できる人などどれぐらいいるのだろうか?

提携紙である南ドイツ新聞のアーカイヴでミュンヘンでの「タンホイザー」初日やアカデミーコンツェルトの評を読んだりすると明らかにフランクフルターとは程度が異なる。この朝日新聞のようではなく、フランクフルターでは少なくとも三分の二紙面ぐらいは充てられるので、専門的な概念も一行では終わらせないので最低索引も想像がつくようになっている。それに比較すると明らかに音楽会短報とエッセイが混じったような形でとても無理をした紙面つくりの文章となっていて残念だ。

少なくともこの記事の要点は、今回のキリル・ペトレンコ日本デビュー公演で万人がその職人的なその腕に関しては認めたところで、その先の芸術的な意味合いについて深く切切り込もうと試みている事だ。その点に関しては、こちら本国でも、流石に最近は否定的な懐疑は見られないが、切り込んだ文章を読んだことが無い。この指揮者の譜面やその他の第一次資料へ考究的な矛先がその職人的な手腕によってどのように演奏実践として表れているかの言及は、こうした美学的な概念が上手く当て嵌まる。特に今後レパートリーとして耳にすることが増えるであろうシェーンベルクの演奏実践解釈などにおいては重宝することは間違いないのである ― ブラームス解釈はその点でも興味深い。

ベルリンの新任公演となったウラディミール・ユロウスキーの評判がとても良くて、ミュンヘンの次期監督候補にもその名前が上がって来ている。今夏のザルツブルクの「ヴォツェック」の放送を聞こうと思ったらボツにしたようで、これまたヴィーンの座付き管弦楽団の演奏では致し方なかったのかもしれない。指揮技術的には凌駕するようで、ペトレンコを除く50歳代以下の指揮者では断トツに業界での評判が高いようだ。今回もシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲、運命交響曲をマーラー編曲の大編成で演奏するだけでなくノーノを集中的に演奏していて、マーラーの交響曲二番をダイナミックスを極力落として、優しい音楽としているから東京のペトレンコとも共通していて恐らくそれなりの共通とする根拠があることなのだろう。



参照:
バイエルン国立歌劇場「タンホイザー」 演出と音楽、驚くほど一体化、岡田暁生、朝日新聞
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評
定まるテムポの形式感 2017-09-04 | 音 
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統一の日に為すこと

2017-10-03 | 
東京の政局は一瞬にして世界に安倍対小池の話題を広げた。たとえいま世界中で流行のポピュリズム政治とはいっても「リベラリズムを排除する」などと副見出しをつければ、最早先進国のそれではなく合衆国の影響下にある三流のバナナ共和国の話しでしかない。とても程度が低く、流石にこれでは政権獲りには及ばないと理解した。

程度が高いかどうかは分からないが、緑の党初のクレッチマン州知事がメルケル首相に招待状を出した。ジャマイカ連立構想に関するものではない。内省よりも外交に係るもので、シュトッツガルトにある州立歌劇場のオペラに招待したのである。メルケル首相がオペラ初日に出席するのは珍しくはないが、先頃逮捕されたロシアの反体制のセレブレニコフ演出「ヘンゼルとグレーテル」初日にである。日程上招待を受け入れて観劇するかどうかは知らないが、その抗議活動に参加しているのであればやはり観劇するべきだろう。

10月3日統一の日でお休みである。月曜の夕方でもスーパーは込み合っていた。食事は煮豚を肉屋で購入してあったので必要なかったが、一週間分の買い物をしておくことになる。ブリ―チーズの端が安く出ていたので購入して、クラッカーを購入した。パン屋が休みでも朝食が摂れる。あとはヨーグルトとバナナや果物、ミルクとコーヒーで充分だ。トルコからの葡萄が安かった。

月曜日はそれでなくても動きがあるのでそれなりに忙しかった。雨が降っていて予定ではパン屋に行って走ってからの予定だったがそれは叶わなかった。今度はあまり陽射しが無いので肌寒く、意気も上がらない。

一週間経つとミュンヘンでのコンサートとなるので休日中に目星をつけたい。コンサートのプログラムビルディングとして見ると、「子供の不思議な角笛」とブラームス交響曲4番はどうなるのか?管弦楽団の教育的な配慮、つまり来年復活祭にはニューヨークデビューするためにドッペルコンツェルトがプログラムに上がっており、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲の前に演奏される。NHKホールの演奏は可成り繊細になされたようだが、ミュンヘンの劇場のあの音響の中でどこまでそのような表現が可能なのだろうか。それに比べるとブラームスはと思うのだが、細かく調べていかないと想像がつかない。



参照:
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評
世相を反映する歴史的事実 2016-08-01 | 歴史・時事
ブラックリストの芸術家たち 2017-09-25 | 文化一般
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