Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

とても参考になるLP

2019-10-17 | 
宿の予約を確認した。そろそろキャンセルすべきものをリストアップする。先ずはクリスマスのベルリンで、これは「ミサソレムニス」ならば出かけようと思ったものだ。三泊で195ユーロで、無料キャンセルは29日までで、月始めごろにキャンセルしよう。その次は来年第二週のベルリンでの三泊で124.50ユーロで、キャンセルはクリスマスまでだが、これも来月始めに決断。態々出かけないでいいなら一番安上がりだ。

もう一つ体調が優れない。歯根の影響も考えられるので先ずは歯の洗浄の予約をとろう。左の鎖骨が圧される。肩を痛めた関係がありそうだ。圧迫感が気になる。心臓が肺かも疑われるところだが、背中側には圧迫感はないが、ここ一月ほどの胸部から下腹までの膨満感も気に食わない。

歯根以外にも色々と考えることはあるのだが、なんとなくストレス性のものではないかと感じた。例年の様に何だかんだと言っているが、結構長い期間ストレスを受けていて、健康なものも不健康になるだけの要因はあった。

十年ほど前にも心臓の辺りが痛くなっていたがあれは完全にストレスだった。今回もそのように感じるのは、リースリングの酸が少し沁みる感じとアルコールも少し食道に感じる感じが若干潰瘍気味にも感じるからである。子供の時の様に胃に感じないのは当時の様な暴飲暴食をしないことと、胃に負担を掛けるような重い米などを食していないからだと思う。

カラヤン指揮の1957年録音のブルックナーの交響曲八番を聴いた。週末のヴィーンからの中継が酷かったから、フィラデルフィアからの放送録音を比較した。更にベストチョイスを選べという事で、何枚かあるこの交響曲のLPからこれを選んだ。理由は記憶に比較的問題の無い録音の印象があったからで後年の同じ組み合わせでのカラヤンサウンドのものよりはいいのは確認してあった。そしてざっと聴いてとても感心した。丁寧なアーティキュレーションを恐らくまだフルトヴェングラーで弾いていたような楽員が何人か乗ってつけていて、その余韻もあり、何よりもまだ1963年以降のフィルハーモニーでの演奏の影響が全くなかった。これは今フルトヴェングラー以前のサウンドを考えるときにとても参考になる。

実はそれだけでなく、例えばファイヤーリッヒなどと表情が書かれているところの扱いが、週末のぼんくら指揮者とは大違いでとても上手に指揮している。そして、語らないで通すかと思ったキリル・ペトレンコがカラヤンについて「オペラでの長い経験をその後のコンサート活動に生かした」という評価を思い浮かべた。まさにそのような表情の付け方は劇場的である。ペトレンコが劇場で二十年間以上も過ごした不遇の二十年間と、フルトヴェングラーのカリスマ性とは異なり、ウルムからアーヘンへと下積みを重ね、ナチの権力を利用しつつ、今度は戦後の公職追放後40歳を過ぎてからのベルリンへの就任を重ねた意味はそこにある。とても具体的な例をそこに聴く。恐らくペトレンコもこの録音を聴いていると思う。



参照:
歴史的独楽器配置の箱 2018-09-05 | 文化一般
胃がん風に表れる夏の疲れ 2017-08-15 | マスメディア批評
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新LP一枚5ユーロを切る

2019-10-16 | 生活
先週は雨が続いて、葡萄の摘み取りが進んだ。そして週末から急に暖かくなって、窓を開けて上着を脱いだ。その前が寒く、山は積雪があったろうがほとんど融けたと思う。以前ならば11月のスキーシーズンに痛いと思う暖かさだったが、ここ暫くの体調不良には助かった。その分眠くて堪らなかった。

久しぶりにボールダリングにでも出かけようかと思ったが、雨上がりなので断念した。しかし森を走ると大分乾いていたので、もう少し続くとと思ったが、また降りそうで紅葉が進んで、湿り気が増して窓に更に露が付きやすくなる。

寒くなったので寝室のドアを閉めるようになると熟睡が可能となった。なにも温度を下げて空気の循環をよくすることだけが熟睡のコツではなさそうだ。北側の寝室なのでドアを閉めると朝日が入らずに更に目が覚めないかと思って恐れていたが、窓は露で曇って、それはあまり関係なかった。朝起きが快適なのが一番いいが、やはり朝の一走りは中々厳しいものもある。

就寝前にCDを発注した。今年二度目で、以前は落穂ひろいとして四半期ごとの割引があった時からすると半分だ。それでも昨年は一度も発注していなかったので、倍以上になる。送料無料の20ユーロが目標で、少しでもメディア界のそれも流通に貢献したと思っている。無くなると困るからだ。

LPはオルフェオ盤が一枚5ユーロを割った。中古よりも安い120g盤が出ている。ザヴァリッシュの指揮やピアノ、フィッシャーディースカウの歌などもあるが、クーべリック指揮のミサやハーガー指揮の「賢い小娘」K51などがあったが、前者は映像付きのライヴ、後者は三枚組LPをひっくり返すのが面倒。

嘗ては、大切なお宝だったオペラ全集LPをひっくり返すのが休憩になっていて、時間を掛けてのオペラ自宅上演が楽しみだった。面倒よりも充実感があった。しかし、オペラ座に通うようになって、またオペラの総譜をお勉強する習慣がついて、如何にもあのLPひっくり返しが余分で間が悪い行為かに気が付いた。オペラ上演はその演出だけでなくて、音楽構造としてのまたドラマテュルギ―としての流れが特別に重要であることが分かりそれが身に付いたからである。要するにブツブツと切って通すものではない。だから英米などではオートチェンジャー用に一面の後ろが六面とかのカッティングがなされていたのだ。つまり最大一度の休憩だけで一気に音を流せる。その間に二幕から三幕への休憩をとればよい。家庭で一気にオペラを流す必要などはないのだが、何よりも重要なのは流れである。だから余程のもの以外はLPには興味が無くなった。しかしLP一枚5ユーロを割るようになれば俄然興味が湧く。そろそろ新LPも値崩れする頃だと思っている。配給網の崩壊との追っかけこっこである。乞うご期待だ。

そこで今回は従来のCDを発注した。一枚はブスノワのミサ曲で、オルランドコンソ-ト演奏のアルモニアムンディ版6.99ユーロ、一枚はベルリオーズの「ロメオ」とメシアンの「ラセンション」をカムブルランが指揮したSWR盤で5.99ユーロ(なんと二枚組制作録音だった‼‼‼)、これは六月の指揮がよかったのとヤルヴィ指揮で同曲のライヴ録音に立ち会ったからだ。一枚は同じヘンスラー盤のケックランのフルート曲集3.99ユーロ、一枚はバレンボイム演奏のベートーヴェン最後の二つのゾナーテン3.99ユーロ。最後のは恐らく箱入りで全集が安く出ているので放出品なのだろう。全集は評判があまり良くないのでこれで充分だ。しかし来年協奏曲で彼のピアノを久し振り聴く予定なので参考資料になる。〆て20.96ユーロで、コンサートやオペラの入場券よりは少し高い。音を出すには電気代が必要になる。



参照:
はっぱふみふみ 2017-11-01 | 生活
漂う晩夏から秋の気配 2017-07-25 | 生活
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余りにも恵まれた境遇

2019-10-15 | 雑感
承前)演出に関しては新聞評に沢山の紙面を費やしていたが、指揮者については限られていた。そのロレンツォ・ヴィオッティの指揮に関して書き留めよう。そもそも指揮者ヴィオッティの名前は父親の名前として馴染みがあって、また妹さんのホルン奏者もミュンヘンの劇場の奈落でデングラーの横に座っているので馴染みである。またこの指揮者の名前は日本での登場などでも名前を聞いていたが、まだ29歳という事で興味を持っていた。プロフィールを読むと、フランクフルトでは、デッカー演出「ウェルテル」でデビューして、彼のキリル・ペトレンコ指揮クーリーゲンブルク演出で新制作された「トスカ」の再演をしている。そして今回は新制作デビューだった。
TOSCA Oper Frankfurt


ペトレンコの後を継いで振っているだけでも凄いが、あんな歌手で新制作を任されたヴィオッティと、二カ所で監督を務めてフリーになっていた39歳の中堅ペトレンコとの扱いの差は大き過ぎる。改めて如何にペトレンコが冷遇されて来ていたかを思い出させる。

2014年12月にベルリンでの客演でのマーラー交響曲6番をキャンセルした。その直後に元気な姿での「影の無い女」を聴いた。今こうして考えると、あれ程の才能で自負心があっても、その後のインタヴューの様に選ばれるとは思っていなかったのかもしれない。そうした不遇な環境を自覚していていて、自らも劇場指揮者としてしかキャリアーが掴めないと半ば諦めていたのかも知れない。実際にあれ程客演をしても本気で興味を持っていたのは他にはシカゴ交響楽団ぐらいっだったようにも思える。

なぜ長々と不遇のペトレンコについて語るかと言えば、このヴィオッティが恵まれているだけでなく、ペトレンコとは反対に最初から管弦楽に素晴らしい演奏をさせるからである。今当時の「トスカ」とか「パレストリーナ」の録音を比べても今回の本番二日目のヴィオッティ指揮程見事な音は出していないだろう。勿論ミュンヘンでもベルリンでも同じようにペトレンコ指揮で求められることはとても程度が高いので、初日での完成度が問われることになる。確かにヴィオッティは器用で、フランクフルトの座付楽団を何回か聴いた中で一番良かった。
Giacomo Puccini: MANON LESCAUT, Oper Frankfurt


なるほど批評にもあるように、三幕の合唱の場面は網とは言いながら策の中に入っている合唱団と指揮との間での疎遠な感じは聴衆にもあって、技術的に解決されなければいけなかったかもしれない。見ていた場所からは指揮は完全に見えなかったのだが、少なくともペトレンコの様に舞台の上に親切にキュー出ししたりすることは無くて、管弦楽に精一杯という感じはあった。あれは指揮の技術とか動きの良さだけでなくて、あれはあれで大変見事なことなのだなと改めて感じる。

開演前のオリエンテーリングに出てきて解説するヴィオッティも偉いと思うが、またプログラムに書いてある同じ聞き手からのインタヴューも読むと、この指揮者の考えもよく分かる。特にヴァリズモであることで、その音楽の書き方に言及しているが、そのドイツ語の表現限界もあるのだが、もう一つ現場的に話して欲しかった。具体的には音楽的に階段の上り下りの音化とかはあっても、終幕の重要な和声的な逸脱面でも具体的に端的に話す能力若しくはポイントを指摘するまでの力が無い。

こうしたことを総合すると、この若い指揮者の将来も見えてくる。参考にしていたシノポリ指揮の演奏では和声の移り行きの表徴が素晴らしかった反面、ヴィオッティにおいては自らプッチーニにおける印象派からの影響を述べつつも寧ろメリハリだった楽想の変化の移り行きの表現の方に巧さがあって、一般的なイタリアオペラの伝統に則っていると思われる。謂わばパトレンコ以降世代と言うか、あそこまでペトレンコがオペラでやるとなると影響を受けない若手の指揮者など存在しないだろう。

特に感じたのは、一拍目への間の取り方で、あれはあまり他の指揮者では経験していなかったが、ドイツ語圏では管弦楽が一呼吸おいて所謂重いのと同じ効果をつまり呼気の間なのだろうかと思う。それも違和感を与える程のことは無くて、巧さしか感じさせなかったのはやはり能力なのだろう。一方この指揮者の音楽への対峙の仕方を見ると演奏会指揮者ではないとも感じた。(続く



参照:
嗚呼と嗚咽が漏れる 2019-10-12 | 雑感
33年ぶりのマノンレスコー 2019-10-10 | 生活
再びオパーフランクフルト 2019-10-09 | 生活
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四拍子を振れない指揮者

2019-10-14 | 
ヴィーンからの生中継を聴いた。先日から色々とネット上で囁かれていたブルックナー交響曲八番を楽友協会黄金のホールから中継するというものだ。この後にツアーに出て、日本でも11月に演奏されるという事で、注意深く聴いた。録音をするまでのことは無いと思ったので、ハース版の総譜を前に、一度はコーヒーを淹れに、一度は家庭ごみを捨てに立った。後者は二楽章のスケルツォ繰り返しの時に行った。

メモは取っていないが最初から気になったのはアーティキュレーションで、フレーズなどは弾き慣れているフィルハーモニカーに任せてあって、コンツェルトマイスターも指揮者なので適当だったが、全く指示できないのが分かった。指揮の技術上の問題だと思うが、特に強起の動機などはどうしてもその前が端折る形になっている。弱起なら目立たないのだろうが、ブルックナーの場合はそうなると音楽づくりが出来ないことになる。

元祖ことティーレマン指揮では後にも先にも一回だけ十八番としている第五交響曲を生で体験したのだが、その時の印象と全く変わらなかった。寧ろ五番の方がロマンティックに歌おうとする意思が見えていてシューマンの交響曲のようになっていたが、ここでは三楽章の第二主題においてもしっかりと歌い込めず、折角の聴かせ所を如何にも管弦楽団任せというのが分かり易かった。反対に若しくはそれ故に楽譜の八割以上のダイナミックスを無視していて、そういう場合は決まって数小節に亘ってのデュナーミックか何かで覆い隠してしまっている。要するに楽想が変わって行くところをどうやって繋ぐかだけに注意力が注がれている。

そうした大まかな楽曲把握から、全体像やブルックナーの意思が露わになってくるのならばよいが、まるでそれに関しては我関せずである。全く何が言いたいのか分からない。「ハース版に決断」とか放送が言うが、こんな演奏をするぐらいなら思い切ってシャルク版でもなんでもハーク版でもティーレマン版でもなんでもいいから採用した方がポストモダーン、修正主義風で格好がいい。それが出来ないから脳足りん、ノーリタンの時代錯誤者なのである。

三楽章の第一主題部も間が保てなくてスイングしていたので、ネゼセガン指揮フィラデルフィア管弦楽団の同曲の演奏を思い出したが、決してそこまでは悪くはなかったと記憶する。録音でもう一度確認した。確かに直さなければいけないところは結構あったのだが、複雑なところになって丁寧に演奏していると自ずからブルックナーの音楽が沸き上がる。元祖の指揮には聞こえない静けさであり、落ち着きである。典型的なのが四分休符やゲネラルパウゼで、ネゼセガン指揮ではしっかり数えられていて、内面的な宇宙の拍動となっているのが、元祖の指揮では端折ってしまって刻まれない。それゆえに最後の沈黙が取って付けたようにしか思われない。細やかに音符を拾って行けば行くほどブルックナーの内面な歌が聴こえてくる。音楽とはそうしたものであってはったりではない。

11月に日本公演をするというのだが、普通のオタクには受けても、ブルックナーオタクの版とか何とかに言及する人には非難されるものでしかない。あれだけ何もかも記譜を無視すれば、版云々どころの話しではない。放送で「暗譜で指揮した」というアナウンスから、それはそうでしょうと言葉を返した。少なくとも楽譜を前に標準的な視力があればああゆう風にはならない。一体なんだ、あの終わった後の沈黙は、只のバカボンではないか、それとも日本の聴衆を騙すための練習か?楽友協会ホールには多くの日本人かサクラが詰めかけていて、その程度の低さを露わにしていた。そもそも四拍子のセクエンツをしっかりと振れない人がコンサートで指揮をするなど以ての外だ。はっきりさせておくが、ブロムシュテット爺やハイティンク指揮のブルックナーなどには到底及ばないということだ。



参照:
脳足りん、ノーリターン 2019-10-02 | 雑感
指揮者無しが上手く行く 2019-09-29 | 文化一般
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底を這うBR交響楽団

2019-10-13 | 
ミュンヘンのヘラクレスザールからの中継前半を観た。後半はブラームスの交響曲四番の出だしだけ流して切った。なんといってもしばらくお休みだったバイエルン放送協会の交響楽団指揮者ヤンソンス氏の健康状態を知りたかった。

六月頃から引退へと圧力が掛かっていて、最後に出ていた時は身体が傾いて殆どドクターストップのような状況だった。そして今回は国内ツアーを挿んで、カーネーギーホール演奏会も予定される一連のスケデュールである。最初に休めば全ては自動的にキャンセルとなって、事実上引退勧告となったと思う。だから意地もあってヤンソンス氏は出て来た。

交響楽団にとっては痛し痒しで、最早批判も辞さない態勢となっている。そしてその指揮自体も往年のドライヴも無く、それでも指揮者自身の言うように還暦過ぎてからが指揮者の成熟が感じられない。せめて健康ならば何かが期待できたのだろうが、今や見る影もない。

当然のことながら交響楽団の演奏は、特に弦楽陣を筆頭に下手である。嘗てのクーベリックの頃からその弦楽陣には、態々対抗配置にするほどの技は無かったのだが、今や通常の配置でも他の放送管弦楽団と比較して秀逸なところが全く見られない。なるほど、どの放送管弦楽団も半公務員の様で入るとなかなか辞めないので老朽化が進む。ざっと顔ぶれを見ると殆ど若い奏者が入っていない。それだけでも現在このバイエルンの放送交響楽団の水準が落ちているのが可視化されている。

前半がリヒャルト・シュトラウスだったでけに、同じミュンヘンの座付管弦楽団をキリル・ペトレンコが振ったらと考える足元にも及ばない。音色や声との合わせ方のみならず技術的にも程度が低い。ロリン・マゼール指揮時代をどう評価するかにもよるが、恐らく現在最低の水準にあることは間違いないであろう。このままこの指揮者が居座ればさらに悪くなることは目に見えている。

お目当ての歌手サラ・ヴェゲナーの歌は、流していて殆ど聞いていないが、休憩時間に流れたインタヴューは秀逸だった。ブレゲンツでペトレンコ指揮で聴いた時に感じた「なぜあれほどの声を持っている人があまり活躍していないか」の疑問に全て答えていた。そのそも様々な変化のある歌を目指していて、一つの領域でキャリアーを積んで市場に定着するという事を避けていたという。だから現代作曲家のハースなどに曲を献呈されて、先ほど日本公演をキャンセルしたようにホリガーとの共演など二年ほどやって、「八分の五拍子や図形楽譜などもう嫌」、また別にまたバッハなどを歌う。元々コントラバス弾きで、指揮もしていて、自身の楽器経験からも歌う時に同時にコントラバスを聴いているという。

そして驚くことに今回のプログラムもディアナ・ダマラウのキャンセルを受けて「あああと叫んで」、それなら即座に歌いたい歌えるとなって、わずか二時間ほど準備をしただけらしい。依頼を受けて、それをカメラの前で歌うというのもとんでもない自ら言うように「狂ったほど」の度胸と自信である。普通の歌手で無い事がよく分かった。つまりホリガーなどの我が道を行くで、メインストリームの音楽とは関係ないところから距離を置いたとなる。

それにしてもヤンソンス氏の顔色が悪かった。年代に応じて足取りがしっかりしていただけにその真っ青な顔を見て怖くなった。まるでゾンビである。心臓が悪いとああなるのかと思った。なるほど心臓移植を待つ子供の顔色もあのような感じだ。再手術も出来ないようだから症状が改善することは無いのだろう。そして指揮もあれしか出来ないとなるとやはり辞めた方がいい。名誉職的な立場で時々振る位の方が健康にも芸術的にいい結果が出るのだろうが、やはり収入が落ちることが耐えられないのかもしれない。事務所や家族の関係もあって自分自身では決断できないのだろう。



参照:
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
心安らかに眠りに就く時 2019-06-03 | 雑感

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嗚呼と嗚咽が漏れる

2019-10-12 | 雑感
眠い、帰宅時刻は早かったのに、ベットにも早めに入ったのに眠い。理由は当日から食が進んでいなかったからだろう。要するに体が弱っている。車中のラディオは、イヤフォーンを外している時に聴いただけだが、ノヴェル文学賞関連のスキャンダルと受賞について、ハレで起こったシナゴーク襲撃関連の話題が占めていた。後者ではHR局は以前から繋がりの深かったフィリーデマン氏が電話口で話していた。一時は売れっ子のタレントで、同時にユダヤ人協会の代表だったフランクフルトのユダヤ人である。結局売春スキャンダルで社会的に制裁を受けたが、相変わらず口が立つ。

折からのトルコへの国際的な批判が高まる中、クルド人がデモを劇場前でしていた。お蔭でパトカーが停まっていて、面倒だった。往路も事故の為に渋滞に巻き込まれて、一時間半ほど掛かった。これだから距離的にはそれほど変わらなくても、バーデンバーデンに向かう方が遥かに気持ちがよい。偶々今シーズンは定期会員になっていた頃と変わらいほど頻繁にEUの金融の中心地へと出かける。仕方がない、それでもまだ近い。

フランクフルトでのプログラムなどを見ているとどえらい情報に気が付いた。HPにも載っていたプロフィールを丹念に見ると、今後の予定が出ていて、既に発売されているものに続いて、乞うご期待として、メトデビューとヴィーナシュターツオパー、パリ、ドイツェオパー、ウンターデンリンデンとミュンヘンが無い。これだけ忙しいとサロメ再演など歌う暇はないだろう。するとミュンヘンの十八番再演はどうなるのだ?

しかし、バイロイトデビューとある。ゼンタなのだろうか、するとマルヴィッツ指揮だと予測されるものだ。そしてバーデンバーデンとある。最早ゲルギーエフ一団の巡業公演に出る筈がない。すると復活祭だ。嗚呼、嗚咽が漏れる。

様々な情報を総合するとどうも確からしい。フランクフルトで彼女のマノンを聴いていて、これは間違いなく使えるなと思った。しかし2021年の復活祭に決まっているとは思ってもいなかった。どうもそうらしい。隣の娘さんにバーデンバーデンを勧めておいたから、彼女もおっと思う時があるだろう。

このフランクフルトのオペラの特別な位置づけが益々明らかになってくる。公演の後に彼女らを入れてのサロンの集いがあったが、この事に気が付いていたら、一発勝負で引っ掛けの質問を出していただろう。するとこの情報が全て確定することになっていた。なんていうことは無い、遅くてもあと半年も経たないうちに正式発表される情報であるから。

写真:劇中のヴィデオより、西側への移動中の難民バス?光景



参照:
初アスミク・グリゴーリアン 2019-10-11 | 女
ダブルヘッダーの予定 2019-08-23 | マスメディア批評
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初アスミク・グリゴーリアン

2019-10-11 | 
フランクフルトからぶっ飛ばして帰ってきた。それでも最高速度は抑えた。もう少し我慢しないと酷いことになるかもしれない。兎に角、もう少しは我慢我慢である。22時30分前に駐車場を出たので、帰宅も一時間後である。もしミュンヘンでこの時刻に出ていたら帰りは厳しいだけになる。次回の「死の街」も22時過ぎるので大変だ。車の問題が無ければ今晩もバーデンバーデンにでも行っていたが、我慢しておとなしくミュンヘンからの中継でも観ておこう。ブレゲンツで聴いたサラ・ヴェークナーの声が楽しみだ。

プログラムは5ユーロで、駐車場の深夜料金も6ユーロと手持ちの現金14ユーロほどではカツカツだった。向かい側に銀行があるのだが、先ずは駐車場に戻って果物とハーブティーを補給して、エスプレッソだけ貰う。つまり、11ユーロに、券の料金17ユーロ更にエスプレッソ2.50ユーロで、〆て30.50ユーロと予定よりも下回った。現金を持ち合わせないと倹約になる。

隣のオーストリア出身でケルタースバッハに住んでいるという婆さんもここは安いからと、確かに全然悪くない席だと最初から喜んでいた。反対側の外側にはフライブルクからと言う娘さんが居て、またバーデンバーデンを売り込んでおいた。婆さんは「カールツルーヘもある」からと言うので、「フランクフルトの方がいいからね」と被せておいた。すると「金があるから」と明晰な反応。

そして婆さんは、「フランクフルトの聴衆がいい」と言う。確かにフランクフルトの市立オペラの聴衆はアルテオパーとの共通性は高い。婆さんは歌が好きで「40ぐらいの歌手に興味がある」と、「なるほど彼女は38歳だ」。つまりあの年代で歌いこなすのはとても素晴らしいという事であった。

この視点は結構面白いと思った。今年聴いた歌手の中では、ソニア・ヨンチェヴァも今回のアスミク・グリゴーリアンの二人とも完全に上のクラスの歌唱で、要するに銭の取れる歌手である。技術的にもその歌声や舞台捌きも見事で、大歌手の風格が既にある。なるほどグリゴーリアンは、まだヨンチェヴァの様なギャラは取っておらず、キャリアもそこまではいかないが、とても清潔な歌で期待はより高い。伸び代は大分大きい。

33年前に聴いたミレッラ・フレーニのマノンよりもいい。勿論大きな会場で、ミュンヘン辺りではもう少し工夫がいるのかもしれないが、少なくともフィルハーモニアでの録音と比較してもピアノの発声が確りしていて、管弦楽団とのつまり指揮者との関係もあるが、四幕のエピローグへとの収まりがとても良かった。

なるほどイタリアオペラの歌として、たとえこのグリゴーリアンがイタリアものを専門としていても、フレーニに至らないものはあるのだろうが、技術的には大分上だ。ざっとした印象でもここ四半世紀のオペラ歌手やリーダー歌手の技能は大分上がっていると思う。個人的に知っている人で比較しても、二十年前にザルツブルク音楽祭のコンサートでソロを歌えた人も今では到底一流の舞台は踏めないと思う。当時その人に感じた音楽的な歌唱技術の欠如は、現在のそのレヴェルの人では少なくなった。要するにコンサートどころかオペラの世界も徐々に変わってきていることは間違いない。

一時は歌手に個性が無くなって、指揮者に合わせるだけの声になりはて、独自の歌唱を披露できなくなったとか聞いた覚えがあるが、最近の超一流ところの歌手は指揮者や棒に管弦楽に合わせて、つまり楽譜通りにより正確な音楽表現が出来るだけの柔軟性に富んだ実力が備わっている。

キリル・ペトレンコと共演したオペラ歌手へのインタヴューを聞いていても分かるのは、超一流でない人に限って「僕の表現は少し違うのだけど、それはいつもの職業上のことだから」と言うような戯けた発言をする。超一流になる人は、そこから自身の表現の可能性が広がっていることを知っているのだろう。要するに楽器演奏と一緒で、同じ音符から表現されることは自ずと決まってくるのである。(続く



参照:
33年ぶりのマノンレスコー 2019-10-10 | 生活
再びオパーフランクフルト 2019-10-09 | 生活
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33年ぶりのマノンレスコー

2019-10-10 | 生活
「マノンレスコー」に出かける準備である。折角のマノンを聴くのだから、また指揮者ヴィオッティーもしっかりと評価したい。するとなると総譜に眼を通しておかないと、いい加減なことは言えないのである。全く個人的な拘りであって、誰にも迷惑はかけないが、習慣になると、ヘルメットも被らずにスキーをするようなものである。

なるほど実演は、前回はジョゼッペ・シノポリが日本デビューした時のヴィーンの歌劇場の引っ越し公演だと思う。フレーニが歌い相手役はドヴォルスキーだったと思うが、その時の印象が強くて、ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカー演奏ヴェストブロックが歌ったものは到底いく気にはなれなかった。案の定、酷評された公演だった。よくも「トスカ」と「マノンレスコー」と指揮したものだとあきれる。

その意味からしても如何に期待しているかであって、CDの二枚組ボックスも安売りでシノポリ指揮のフィルハーモニアの演奏で購入したぐらいだ。一幕を聴いてみると、なるほどあまり上手くないところもあったが、何よりも和声を敏感に響かしていて流石だと思った。やはりコンサート向きと言うよりもオペラ向きの指揮者であったと改めて認識し直す。フレーニも上手いが、ドミンゴの歌が素晴らしい。なにもオテロだけでなく素晴らしい歌手であったことを改めて思い出す。

「マノンレスコー」の総譜を見ていて思い出した。日本の指揮者が他愛もないことを書いていて、そこに字幕云々への不満があったと思う。その指揮者は欧州でも若い頃に活躍していた筈なのに、「イタリア語からの字幕なんて大事なの」と不思議に思った。私は特にイタリア好きでもないのでイタリア人女性とも付き合ったことは無いが、少なくともオペラの粗筋を読んで若しくは知っていて、総譜を追えば言葉のニュアンスは大体分かる。細かな意味合いは字幕を見て、ああと思うが、それはドイツ語でも一緒で要するにバイロイトの劇場に字幕が無くて、ああとは想ったがなんら違和感はない。イタリア語の場合は特にその音符が重要なのでそれ以上に声としての威力で充分である。音楽家それも指揮者たるものが音楽の構造を追わないのかといぶかしく思った。すると言葉などは自然に付いて来る。

燃料も入れた。フランクフルトに行くのに仰々しいと思われるだろう。自分自身もここまで準備するようになったのは最近のことで、その全てはオペラやコンサートに出かけるときの心構えが変わって来たからだろう。定期会員でフランクフルトに通っていた時は面倒な時もあったが、適当に車を走らせていた。逆にその頃の方が一度一度が疲れのようなものを残した。要するに急に用件があってフランクフルトまで車を走らせたのと変わらなかった。なにも準備しなければ着の身着のままの様でいながらその都度なにか煩雑さが付き纏った。準備を先にするか後で対応するかの違いで、やはり準備をした方が全てにおいて上手く行く。なによりも音楽に集中できる。これである。



参照:
再びオパーフランクフルト 2019-10-09 | 生活
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女
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再びオパーフランクフルト

2019-10-09 | 生活
写真を撮ってきた。先ずは小雨が降っていたので、駐車場を探したが、結局50mほど歩くことになった。帽子を被って眼鏡のグラスに雫が付かないようにした。ポケットティッシュをジーンズに押し込んでいたが使わなかった。近代装備乍動かし写すのは婆さんで、爺さんが店番をしている。どうもカメラ担当らしい。

想定とは違って、首元まで写ると分かった。「タイ要らなかっただろうけど」に対して婆さんが応えたからだ。写した写真を計ると、天頂から上枠まで2ミリ超え、顎まで35ミリ弱、中心線まで17.5ミリ、それでも襟の先まで写っている。これならば蝶ネクタイの方がよかったか?

失敗点は上着の後ろが上がってしまったことと、なんといっても悪相だ。それを言うと、婆さんは「笑ったら駄目なのよ」と文句を付けさせない。流石ネットでの評価点が4.4しか貰えないところだろう。兎に角早い早い、仕事も早いので、数分で12.50ユーロの売り上げだ。設備投資と店維持費がが結構だろうから、最初は厳しいかもしれないが、いい商売である。

確かに車に戻って、服を直してもう一度写そうかともと思ったが、価格からすれば先ずはこれでいいかなと思った。前回の同様の証明写真と比較してみる。先ずは眼鏡が違う。勿論加齢もあるのだが、顔つきがちょっと違う。髪型の為か天頂が少し上がっている感じで、輪郭としては自然だ。しかし、痩せている筈が、顔の前部の肉付きが落ちた分、耳に掛けて頬の下に掛けての張りが目立つ。えら張りでは無い筈なのだが、鏡で見る程ほっそりしていない。

この年齢になるとどうして父親の顔や写真を思い浮かべるのだが、頭頂などは禿げさせると父親の頭の形が出てくるが、同じ年齢の時の父親を思い起こすとやはり大分違う。何か首も太くなった雰囲気で、シャツの同じサイズでも余裕が出来たのに、どうしたことだろう。一寸した武闘派の雰囲気が出ていて、想定外である。年齢を重ねて柔らかくなるというのが当然なのに、闘志満々な顔をしている。父親が同じ年齢時には顔つきも柔らかくなってきていたのと反対である。元々が病的だったので、少しはまともになっただけだったが、私は元々まともだと自分では確信している。と言うか、その意味では大分前から分別がついている。父親とは大分早熟ではないか?

昨晩のバロセロナからの中継は良かった。演奏もメトのそれとじっくり比べたいほど良かった。何よりも特徴的なヤホの歌でまたまた涙線が緩みそうになった。放送の音質も良かったが、なるほどこの劇場は単純な歌芝居劇場よりは上であることも再認識した。ペトレンコも振っていて、欧州一流には違いない。指揮もオーケストラも全然悪くはなかった。なによりもジンタにならないだけで天晴れだ。

オペラに出かけることにした。ひょんなことでミュンヘンの次期サロメの配役を考えていたら、アスミック・グリゴーリアンが浮かんで、ロンドンで次期監督ユロスキーと共演するばかりでなく、フランクフルトでマノンレスコーを歌う。とても評判が良い。これは見逃すわけにはいかない。指揮者もヴィオッティーで早めに聴いておきたかった。幸いまだ完売していなかったので安いものを一枚購入した。フランクフルトは二度目で、ザルツブルク以前から登場していた。やはり、この歌手は完全に上のクラスの人の様で相手役のグエレッロと言うアメリカ人も大変な評判だ。17ユーロで聴いておかない手はない。プログラム、駐車場代等入れても35ユーロか。

Giacomo Puccini: MANON LESCAUT, Oper Frankfurt


スーパーに寄ってそこからの帰路に電話が入った。車屋のマンハイム支店からだ。待ちに待っていた部品が入ったという事で、約束の日を決めてきた。昨年の秋に始まって、今回も発注の連絡を受けたのが二週間以上前、遅れに遅れたのでまた駄目かと思っていた。メーカーにはないので市場で探してきたもので、中古である。メーカーの支店がよくやったと思う。新車発注の一千万円以上の売り上げに言及して圧力をかけた。

先ずは探してくれたマイスターにワインでも上げようと思う。そしてメーカーとの関係もこれで変わると思う。次車発注へと弾みがつく。支店の中での判断であっても、メーカーへの大きな信頼感へと繋がる。最終目的へと、つまり新車発注、配車まで今回の投資で全て収まるかどうかは分からない。しかしこれで購買意欲が湧いた。



参照:
雪辱を果たす様な気持ち 2019-09-20 | 女
脚光度ピカイチの女性 2019-08-08 | 女
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写真に捉えられるもの

2019-10-08 | 雑感
写真屋に電話した。再び留守番電話で一週間の休み延長だ。最初から病気休養だったとしたら手術でもしたことになる。流石にもう一週間待ってみる気持ちは起きない。今回は残念だったが、留守電を吹き込むだけの元気はあっても、仕事がテキパキ出来る感じでは無かった。仕方が無いので近所で同じようなところを探した。意外なところに店があって、ネットでの評判は病気の方が5.0に対し4.4しかないが、商売の形態が違う。

つまり証明写真を写すには、自動のセルフサーヴィスからフォトショットで金を取るポートレート写真アトリエまである。病気の所は丁度ポートレートを撮るが、以前のお店からすると証明写真を適当な価格で撮ってくれそうだから待っていたのだ。そして電話した店は以前彼女がワイン街道沿いでやっていたような写真屋兼アトリエでは無くてカメラ屋兼撮影スペースになっている。

そのような一日中開けているような店なので、電話すると予約も要らないという。直ぐにできるかと尋ねると、デジタルでも好きなように直ぐに持って帰れるという。こちらは写真で欲しいのだ。好きな様にと答えていた。HPで見ると装置は全て揃っているようなので、謂わばセルフサーヴィスの代わりに写真を撮ってくれて、同じような装置で焼くだけなのだろう。

まあ、安そうなので先ずは試してみよう。どうせ写真は襟元しか写らずにタイの種類も分からないことに気が付いた。襟元はシャツが要るので、タイを閉めて形を整えるぐらいだ。明日にでも買い物の前に出かけて、撮らせよう。つまりシャツと上着だけ必要だ。

そうなると、序でにそのシャツを着て出かけるところを考えている。今二カ所候補が挙がっているが、他の用件の流れで動けるか。先ずは写真が出来上らないと駄目だ。夕方に出かけようかとも思ったが、寝不足で目がショボショボしていて真ともな写真になりそうにもない。先ずはゆっくり寝てからである。

週末のチューリッヒでのパーヴォ・ヤルヴィの新任演奏会の記事が載っている。内容は「クレルヴォ」の曲が、演奏されたマークのホールの北欧木材に最適で、ミュンヘンなどでも問題となっている短期の仮会場のお手本になると書いている。全く内容の無い記事であるが、ブラームスがこけら落としをしたチューリッヒのトンハーレの本拠地改造中の雰囲気をよく表している。日本の人は先週まで東京で演奏会を開いていた指揮者とそのコンツェルトマイスターの後ろ姿を不思議に思うかもしれない。しかしそこで鳴っている音響も音楽も日本のNHKのそれとは全く異なるものである。



参照:
インターアクティヴな関係 2019-10-01 | 文化一般
撮影準備に満足な散髪 2019-09-27 | 生活
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最初の二年の経過

2019-10-07 | ワイン
ベルリンのアバド指揮の初期の録音放送が面白かった。二種類あって、本編は選出直前のベルリナーフェストヴォッヘでの演奏だった。そしてに余白に1992年の定期からの中継録音。どちらも初めて聴くものである。興味のありどころは、カラヤンサウンドから二三年でどの様に変わったか、変えたかの再確認である。この番組自体が、現在行われている同様の作業との比較で企画されているのは間違いない。

BGMで流しただけでも、ブラームスの和弦がそのものカラヤンのそれでそこに若干メリハリがついているに過ぎない。それを解体したのが三年後の録音だ。因みに92年にフランスプロをルツェルンで生で聴いているので後者のそれは実感としてどこかに残っている。

そしてカラヤンサウンドだから素晴らしい演奏をしているかと言うと、既に当時のフィルハーモニカーは世界の頂点からは大分後退していて、下手である。自慢の弦も駄目で、木管などもアンサムブルが駄目になっていた。コッホとかライスターの定年前なのだろうが、もはや細かな新しいことは出来なくなっていたのだろう。同じことしかできなくなった弦楽器には失望するが、その後のクスマウルらの新体制でもサウンドが変わったほどには技術的には上昇しなかった。

音楽自体は長年のカラヤン体制から解放された風通しのよさも感じるが、同時に新たなアンサムブルとして出来上がっていなくて、現在のロンドン交響楽団よりも悪いかもしれない。アバド指揮の音楽はそれで魅力なのだが、どうも彼には専属のシャイーの様なアシスタントが必要だったのではないかと今更の如く思う。

それ故に後任にサイモン・ラトルに期待されたわけで、その分では成功したとも言えなくはないだろう。少なくともラトル指揮のフィルハーモニカーは再び頂点の領域へと戻ったので、その功績は音楽的にも小さくはない。繋ぎにそのあとにヤンソンズを担ぎ出そうとしたのも決して分からないではない。

夜中にボストンからの中継を録音しておいた。明け方気が付いて装置等の電源を切った。何時もの様に二度寝になったので、朝7時には眼が醒めずに、8時ごろから雨雲レーダーを見て様子を窺がった。先ずは9時からのニューヨークフィルの放送を録音しておきたかった。そしてベットで流れる音を少し聞いていた。ポール・デュカ「ラペリ」をブーレーズが振ったもので、昨年のルツェルンでの名演と比較可能なものはこれしかないと思っていたからだ。想像した通り、演奏はペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーの演奏に到底及ばなかった。難しいので、その後にもあまり取り上げていないのではなかろうか。クリーヴランドでやっていたらどうなのだろう。

週末は、かの有名なシャルツホーフベルクのリースリングを開けた。なぜ有名かと言うとエゴン・ミュラーと言う醸造所が甘口ワインとして世界的にマーケッティングをしているからだ。しかしドイツワインの消費は殆ど辛口なので、特産の甘口は海外特に極東へと高価に輸出される。しかし、そのワイン地所自体は辛口を丁寧に造ればそれだけの価値があるとして、ファンフォルクセム醸造所がグローセスゲヴェックス化を目指して出しているワインである。一区画だけグランクリュ指定で、これは通常にPCクラスとして造られている。

2016年は決して良い年でないので、瓶詰め二年経過したので開けてみた。最初は残糖が気になったが、苦みやメンソール系の香味もあって、食事には問題が無かった。ボンゴレに続いて翌日の血のソーセージには文句無しだった。酸も若干薄いが、もう二年ほど寝かして熟成も試してみたい。現時点ではまだ開くフローラルな要素も確実に堅く閉じていたので楽しみである。但し十年寝かしてというようなリースリングでは無かった。



参照:
次元が異なる名演奏 2019-04-15 | 文化一般
これもリースリングの神髄 2016-01-06 | ワイン
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老朽化したイェーテボリ

2019-10-06 | 
冷える、風邪を引いたのかもしれないが、冬籠りしたくなる。流石にヤッケ無しには外出できなくなった。どうしてこう寒くなって来たのかよく分からない。例年ならば冬籠りの準備は始めるが夏時間が終わるまでは暖房を我慢する。しかし今年は寒い。体調はあるかもしれないが、どうなのだろう。

仕方が無いので普段着のシャツを替えた。古いものは洗濯して直ぐに靴磨きになる。新しい方はまだ生地がしっかりしている。幾らかは暖かさが違うだろう。普段着のセーターももうシーズン使ってやろうかと思うが、肘が破れているので中間にしか着れない。新しいものも下ろしたいが、カシュミアなので直ぐに破れる。もう一つ新しいものを確保してからにしたい。寝間着も長袖にした上に、ガウンも厚いものに替えた。これ以上は暖房しかない。

スエーデンのイェ-テボリからのストリーミング中継を観た。同地の交響楽団を女性歌手のハニンガンが振るというものだ。後半は浄夜で始まったが、選曲も冴えないが演奏は更にロマンティックなだけで冴えなかった。指揮の技術は差し置いて、この女流歌手が後期ロマン派の曲から自身の得意な二十世紀後半の音楽への嗜好が分かるようでいけなかった。あれだけ歌える人で、今後とも新曲を献呈されることの多い歌手だと思うが、その音楽的な思考はなにかネオロマンティズムの様でとても古臭い。

いい指揮者が伴奏している限りはそうした致命的な弱点は見えないのにこうして指揮活動することであからさまとなる。とても残念だ。確かに知名度や増大する女性指揮市場の中で回りも押して本人も乗る気になったのだろうが、現在幾らお座敷が掛かっても、どんどんと優秀な女性指揮者が出てくる中であの程度では可能性はないだろう。

シュトュルツマンとか歌手出身の女性指揮者はいるが、自分自身が嫌でオペラもあまり歌っていない様ではオペラ指揮者にもなれないとすると、一体何をしたいのか分からない。振り歌いも、他の指揮者もやり掛けていて、それだけではどうしても限られる。兎に角、無駄なことはせずにもう少し歌手の活動を広げて貰いたいと思うばかりだった。

予想外に価値があったのは、スポンサーのヴォルヴォが身売りしてからどうなっているかと思ったが、流石に老朽化していて寿命は短いが、同国一番の交響楽団としてまともに演奏していそうな感じがしたことで、ある程度の指揮者が振れば結構演奏するのではないかと思わせたことである。ケントナガノやエステラルダ、デュダメル辺りは振っているようだが、また機会があれば近いうちに中継を観てみたい。



参照:
ラトルファンの嘆き 2019-09-10 | 音
脚光度ピカイチの女性 2019-08-08 | 女
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Leitkultur議論への回答

2019-10-05 | マスメディア批評
夜中にちょこちょこと起きた。朝が厳しい。更に雨が降っているとなると身体馴らしも出来なかった。その前の統一の日の記念再放送もしっかり聴いてしまった。8月23日のベルリンのフィルハーモニーでのオープンコンサートの中継録音である。生中継で観聴きした印象と変わらない。ルル組曲の方はルツェルンの演奏の方が遥かに優れていたが、第九は緊張感もあってよかった。但し三楽章だけはルツェルンの方が遥かに良かった。生放送聴視時に特別に注文した通りで、稽古でしっかり直して来ていた。

やはりフルーティストのパウが語っていた様に今後十年間の金字塔となるような演奏であったことは間違いなく、自画自賛ではなく、よく細かなところまで音を合わせていた。非常に程度が高い。

程度が高いと言えば、夜中に録音しておいたカーネーギーホールからの中継で、インタヴューなどの中にヴェルサーメストが延長契約を全うすれば最も長い期間のシェフとなるようで、2017年という数字にそれが隠されているとは知らなかった。つまり今や伝説的な指揮者セルの任期を超えることになる。実際に演奏技術面だけでなく、音楽的に超えている面が多々あって、次の期間中の成果でセルではなくメストのクリーヴランドとして歴史化するのではなかろうか。初めに就任した時には斜陽の街として嘆いていたが、話しの様に緑化やらそれなりに成果も出てきているのだろう。

欧州からすれば今後も出来が良い時にツアーをしてくれて、同時に指揮者にはオペラ劇場で定期的に振って貰えればよいのではなかろうか?

オペラと言えば「トューランドット」の録音も並行して行った。夜中に二つもの生中継が同じニューヨークから届くのは珍しいことだが、どちらも捨てれなかった。まだ流してはいないが上手く録れているようだ。ネゼセガンのプッチーニは知らないのでとても興味がある。週末にでも流してみよう。歌心がどのように出ているだろうか?

歌心はいいのだが、ペトレンコ指揮「我が祖国」評として、やや真面目過ぎるというのがあったが、ロマンティックつまり国民楽派とか呼ばれる範疇で強調されるナショナリズムに付いて焦点を当てたのが南独新聞である。だからそこの夢、憧憬、民族性や風土などへと意識が広がる中で国境を超えるという趣旨である。スメタナの他の作曲家と同じくその原点をベートーヴェンに求めると、オランダ移民であるボンで生まれた楽聖は早くにヴィーンへと赴き、その音楽の故郷はそもそもインターナショナルなものであって、まさしくオムスク生まれのペトレンコが若くしてヴィーンに学んだことと重ね合わせている。

この一節は左翼系の自由主義新聞としては中々いい表現で、これを読むと、同時に連邦共和国で一時政治的な課題ともなっていた「ライトクルテューア」議論への一つの回答となっていることに読者は気が付く。当時対抗概念として挙がっていた「ムルティクルテューア」の多様性をも抱合する形での止揚となっている。スメタナ-ベートーヴェンと繋いで、些かコンサート批評としては飛躍した気もしないではないが、夏のオープニングにおける第九からの一貫した活動の把握としてはとてもいい。ネット記事は10月3日19時53分付けを記している。丁度バイエルン放送協会で第九が再放送される少し前である。一般紙が評をする場合はこの程度の意識が無ければ駄目である。



参照:
Der Ernste, Reinhard J. Brembeck, Süddeutsche Zeitung vom 3.10.2019
思索の向かうところ 2019-09-19 | 文学・思想
adagio molto e cantabile 2019-09-06 | 音


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本物と偽物の相違

2019-10-04 | マスメディア批評
中共70周年記念番組を観た。ランランが出ているというので、ざっと観た。現在の中共のイデオロギーと詳しく合わせた訳ではないが、印象はとても悪い。ランランの使い方も下手で、そこだけでも具合が悪かった。しかし、どうしようもないと思わせたのはそこではない。

《奋斗吧中华儿女》 庆祝中华人民共和国成立70周年文艺晚会 20190930 | CCTV cf. 1h34m15s


過去の事象を舞台とプロジェクターでショーとして描いて行くプロパガンダ企画なのだが、世界中でどれほどの視聴者数があったか分からないが、その意図するところは殆ど達成されなかったと思う。それはあまりにも現在の習主席を「過去の偉人」と同等に扱おうとすることでの無理があった。もう少し気の利いたプロデューサーならば幾らかはこれよりも支持は得られたと思う。

個人的に最もガッカリしたのは文革の色を帯びた舞台の多くをオチャラケとしてしまったことでの迫真性の欠如である。要するに現在の共産党のイデオロギーの共産党史観が如何にとってつけたようなフェークであるかを如実に表していたことになる。

視聴者の多くはまだまだ文革世代であり、より若い層はこれを通して観る根気も意欲も無いのではなかろうか。そこを狙うならば、北朝鮮がやっているようなモランボン楽団の感覚が欠かせない。文革の余韻が残るあのバレーの感覚よりも今の中共のショーは訴える力も何もない。それは時代錯誤のプロパガンダが色褪せてしか上演できないからでしかない。

2018년 신년경축공연 《조선의 모습》 cf. 9m50s


このショーを観て私は確信した。習体制は成功しないと確信する。ここのところの香港情勢も失脚へと繋がる可能性はある。台湾情勢も中共にとっては厳しい。なによりも香港は漢民族という事でシナ人は信じて止まない。香港はチベットなどの様にならないと信じていた。しかし、どうも違うと感じてきている。香港を上の様なショーが象徴するフェークな習体制に組み込むのはとてもではないが難しい。

ランランが弾くような音楽はそもそも高尚な芸術音楽では無かったのだが、それでもそのランランのピアノも活かせないような感覚では明日が無い。私なら少なくとも指揮者には人民服を着せたい。舞台の踊り子にはあんな安物の化繊は着せない。オリジナルの木綿の生地で本物の様な衣裳を準備させる。パロディーにはパロディーのやり方がある。何だあの安物臭い舞台は。

それに引き換え北朝鮮のそれには緊張感も本気度も感じられる。昔の中共の「白毛女」や「紅色娘子軍」は本物だった。少なくとも娘子のショートパンツは短かった。なんだあの中途半端な上演は。要するに凄みも無いという事である。多くのシナ人は苦笑していると思う。

芭蕾舞剧《红色娘子军》练兵舞

红色娘子军



同じ視点から、NHK紅白歌合戦も観察したいのだが、どうもまだ為政者のプロジェクト映像はまだ映っていない様である。こうして比較すると一見時代錯誤的に見えるプロパガンダは、似非国家全体主義であったり、似非共産主義であったり、若しくは似非イスラム原理主義であったりまたや似非ネオリベラリズムであったりと、全てが為政者の権力集中強化の道具でしかないことが明々白々だ。

[中国新闻] 日本首相安倍晋三祝贺新中国成立70周年 | CCTV中文国际




参照:
見苦しい日本国大使の反論 2014-01-22 | 歴史・時事
老支那人と小日本人 2014-01-08 | 歴史・時事
現況証拠をつき付ける 2006-12-17 | マスメディア批評
革命的包容政策の危機 [ 文化一般 ] / 2006-10-11
世界の災いと慈善活動 [ マスメディア批評 ] / 2005-11-29
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今夜、忘れずに長袖に

2019-10-03 | アウトドーア・環境
朝の車中のラディオが伝えていた。EUの方針として、電化製品の補修期間を七年に延ばすようだ。部品も二週間以内に配給しないといけなくなる。各国の議決が必要となるが、必要な資源保存、環境保護政策となる。当然のことだ。要するに長持ちさせて出来るだけ買い替えないで済むような製品のみの販売が許されるようになる。価格は倍になっても倍使えれば全く問題が無い。私が既に車会社などに圧力を掛けている事と一致している。

休日前に買い物を済ませておいたので、前日早めに落ち着けた。夜中から雨勝ちで、合間に一走りした。ジョギングペースで走って最後だけ本格的にスピードを出した。久しぶりだったが、スピード系を少しづつ入れて行かないと益々鈍足に慣れてしまう。

ここ二週間ほど腸カタルの様な感じで、食事ももう一つ消化が悪くもたれる感じがあった。一種のインフルエンザではないかと思う。熱も無く、今までの顕著な症状は、口の中が荒れたこと、身体がだるくとても疲れたこと、日常に動悸が呼吸が上がりそうになったことなどが加わる。結構長く続いている。頭痛も一度あった。

今晩辺りは久しぶりにボルドーで温まりたくなった。入浴は二週間ほど前にした覚えがあるが、こってりと内側から温めたい。食事はいつもの通りのロール巻きで、ニンジンとピーマンぐらいを巻き込む位だが、芋はロズマリンとオリーヴオイルでいこう。開けるボルドーは1998年産のメドックである。

ジェシー・ノーマンの訃報は文化欄第一面上段に大きく取り扱われた。しかし内容はあまりなかった。要するに生い立ちからARDで賞をとってハムブルクのアンサムブルに入り、やれる役をこなした。しかし徐々に舞台は減って、ヴァークナーなども録音で本領を発揮することとなり、フォーレのペネロープとショーソンの愛と海のポエムなどが代表的な録音として挙がっている。しかし同時にレオンタイン・プライスへの崇敬からなるほどシェーンベルクを得意にしていたことも分かった。しかしそれも80年代までで90年代になると仕事が厳選されて、代表的なものとしてフランスの革命記念日のラマルセーユが挙がっている。1995年の印象からするとそれほど外れていないと思う。そこに書かれている特質のヴィヴラートはなるほど95年には精妙さはもうなかった。四年前の背骨の損傷の後遺症からマンハッタンで死に至ったとなっている。

起床すると喉がやられていた。寝床で寒気がしたときに長袖寝間着にすればよかった。今晩は忘れずに衣替えをしよう。バルコンの小鉢を何時室内へ動かすか。まだ陽射しが強いので、夏時間終わりまでか?寝間着とは少し時間がずれる。するといよいよ冬籠りの準備となって、暖房の季節である。今年は今迄のところ比較的乾いた秋となっている。昨年は同じことを9月中旬に、二年前も同じ頃だ、三年前の2016年は同じ10月である。ワインはあまり良くなかった。天気が良くなかったようだ。2013年は9月初旬。これは悪い年。



参照:
脳足りん、ノーリターン 2019-10-02 | 雑感
はっとするレアリズム 2016-10-06 | アウトドーア・環境
残暑が戻る今日此の頃 2013-09-04 | 生活
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