Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

脳足りん、ノーリターン

2019-10-02 | 雑感
歌手のジェシー・ノーマンが亡くなった。一時は日本でも大変な人気と評価だったと記憶する。訃報記事も出るかもしれないが、個人的にはザルツブルクでの二本立ての上演が全てだった。前半のシェーンベルクで彼女が歌った。

その晩の演出はいつものロバート・ウイルソンで、評価を下すには十二分過ぎる退屈さがあった。奈落にはフォン・ドナーニ指揮のヴィーナーフィルハーモニカーが入り、こちらも期待ほどの出来ではなかった。

しかしノーマンの存在感は圧倒的で、ブーズ―教の様な横へのステップを踏むとゆっさゆっさと横綱の土俵入りでしかなかった。これがこの夜のクライマックスだったが、歌唱自身もあの限られた動きでも息遣いが乱れ気味で、到底細やかさは求められなかった。勿論声自体は立派であったが、それだけでは致し方が無い。1995年の事なので明らかに全盛期を超えていたのだろう。

映像や録音などではどうも1980年代までが頂点だったのだろうと思われる。手元にある録音は、小澤指揮の「グレリーダー」、ブーレーズ指揮の室内楽団版の二種で1979年の録音だった。

ツイッターの広告にソニーが出て来たので、ブロックした。広告のブロック程スッキリするものはない。現在おとりとしてブロックせずに見ている広告は独INTELとか面倒な内容の無い静かなものだけだ。それでも何回も見ているうちに企業として何をやっているかは分かってくる。それは決して邪魔にならない情報なのである。要するに販促のための情報しか流さないような企業などは早く潰れるのが世界の為である。もう一つ開放しているのはHAUWEIだろうか。


車中のラディオが時短のオペルの話しをしていた。まだルッセルスハイムで車を作っているのだなと思うだけだが、反対に短期間に従業員が倍増しているのがポルシェらしい。注文に生産が追い付かないので従業員をどんどん増やしたようだ。電気自動車のタイカンが大人気らしい。価格をみると可成り高くて、通常の二倍ぐらいの価格になっている。

フォードアーで嘗ての911とは全く違うようだが、ゆったりとクルージングする車ではなさそうだ。加速減速はたとえ電気自動車でももう要らないと思う。実務的にA地点からB地点への楽な移動には寄与しないばかりか、要らぬ緊張感や疲ればかりを増加させるからだ。もしそのような乗り物が欲しいなら差額で本格的なレース二輪車を購入した方がよいのではなかろうか。維持費を考えるとなんとも無駄な印象しか覚えない。

ポルシェと言うとどうしても年寄りで喜んで乗っていたような指揮者のカラヤンのような男を思い浮かべる。若い時ならばいざ知れず、いい歳して急加速減速しようとするような人間は低能でしかない。勿論頭も空っぽなのだが、身体も思うように動かないという典型的なインポテンツを表明して車を走らせているようなものである。車を走らせて喜んでいるようでは到底楽譜の行間どころか細かなところへと配慮など行く筈がない。



参照:
落ち着かない一日 2019-04-13 | 生活
緑のシンプルライフ推奨 2007-03-04 | 女
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インターアクティヴな関係

2019-10-01 | 文化一般
写真屋が病気という事でまだ再開しない。一週間遅れとなる。仕上がりが早いなら問題はないが、さてどうしようかと考える。

週末に税務関連の資料纏めを終えて投函した。八月末を目標としていたが一月遅れた。六月ごろから始めていた筈だが予想以上に手に付かなかった。仕方がない。何とか終えただけでも良しとしよう。昨年は12月まで掛かってしまったのであった。税金だけは強制執行されるのでなにも手を下さずにおくことが出来ない。

アウトグラムを貰いに行くか行かないかの話しが出ていた。嘗ては行ったことがあるが直ぐに行かなくなったことを考えていたら興味深かった。演奏会や劇場上演の核になるようなことがそこにあったからだ。勿論個人的に知り合った人などには一言書いて貰うことがあるが、その殆どは所謂著作権者である。つまり創造した人で演奏者などではない。だから価値があるないではないが、演奏家などとはまた別な接触があるという事が最も大切な体験なのである。

何時頃からそのように意思が変わったかと言うと、やはり日本でも音楽専門のホールが出来るようになった頃からである。ロンドンの新しいホールに関しても次期バイエルン州音楽監督ユロスキーなどがインタヴューに答えているが、音質などはその中心にあるものではない。やはり音楽専用ホールが出来てから舞台と聴衆の関係が変わった。

その典型は、ワインヤード型のコンサートホールであったり、従来のオペラ劇場特徴でもあったろう。従来の日本に典型的だった多目的会場などは客席と舞台の関係が遠く、拍手に於いても客席は最後まで暗くして、あるで映画館の様な雰囲気があった。しかしワインヤード型になると舞台と同じように明るく、舞台を包み囲むように距離感も近くなり、双方向への接触が密になった。

ワインヤード型の人気はその音響よりもこの関係が大きかったのだろうが、シューボックス型でも舞台と客席の関係が特に音響的にもシームレスなルツェルンの会場など視覚以上に密接なホールも存在して、明らかに歴史的なホールよりも明るく開放的な空間が提供されている。

オペラに関しては、やはりミュンヘンに通うようになってからとてもその劇場空間を経験するようになった。あれ程の大劇場でも双方向の接触が盛んで、実際に天井桟敷の通の一群がそのカーテンコールの長さを左右するような劇場空間の意味を知るのである。

実際に知己の間でもないのに熱心なファンが楽屋に訪ねて接触してもあまり意味が無い - バーデン・バーデンの新支配人スタムパのように用件があれば価値があるが。それよりも価値があり、こうした演奏会や劇場空間の共有という接触こそがライヴパフォーマンスの核であるという事は明らかなのである。

それで一人の聴衆と舞台との接触とのあまりにもの危うさを感じる向きがいるかもしれないが、もしそうした杉良太郎流し目を信じない向きは少なくとも自らの周りの聴衆との接触をもう少し真面目に考えてみるべきではないかと思われる。決して舞台と一対一の関係である必要もないという事で、舞台と客席が非対称であるかどうかよりも、重要なのはインターアクティヴであるという事である。



参照:
聴衆との盛んな応酬 2019-04-25 | 文化一般
芸術ゲマインシャフト 2019-04-22 | 文化一般

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