昭和62年の3月から平成元年の3月までの二年間横浜に勤務していたことは、このブログでも何度か書きました。PCの写真投稿サイトの壁紙・写真部やFreemlでの友人に、miyaxとおっしゃる方がおられます。時おり湘南海岸の画像をアップされておられます。それらの画像を見る都度懐かしく、横浜時代を思い出します。
湘南は勤務先横浜支店の管轄エリアでもあり、公私ともども何度も行ったことがあります。標題の画像は葉山の海岸から、江ノ島と富士山を撮ったものです。古い話になりますが、この画像を見る都度、「ま白き富士の嶺、緑の江ノ島…」と歌われた逗子開成中学ボート部の遭難事故の映画が思い出されます。
次の二つの画像は鎌倉の稲村ガ崎で撮ったものです。稲村ガ崎というと、先ず思い出すのは、新田義貞が鎌倉幕府軍との戦いで、ここの難所で立ち往生し、神剣を海に捧げて荒波を収め、遂に北条軍を打ち破ったことでしょうか。若い方なら、桑田圭祐の映画「稲村ジェーン」の方が思い出されるかもしれませんね。

(左端の女性が欠けてしまった…)

(彼氏、カメラ持ってるのになぜ彼女を撮らないんだ?じゃ私がパチリ)
再度海岸線を下って葉山の海岸を歩いていると、わかめを加工している現場に出会いました。数軒の漁師の加工場が立ち並び、いずれもわかめ干しに忙しそうです。この時に、葉山市がわかめの産地であることを初めて知りました。

(前浜で採ってきたわかめを、家族全員で水洗い、釜茹での作業をする)

(数分の釜茹でだが、重労働だ)
茹でたあとは再び水洗いされて、天日干しされる。洗濯ピンがここでは大活躍。この天日干しは、子ども達も借り出される。画像はないが、この後は乾燥されたわかめを、選別等級別にまとめ集荷する作業があるという。

(洗濯ピンは、なぜか全部水色、ピンクのピンは見当たらなかった。)
さて、葉山のわかめとお別れして、再び、稲村ガ崎に戻ってみよう。ここ稲村ガ崎は、冬の間富士山が見えるスポットとして有名なのだ。何度か撮影に来ましたが、いつも5-6人のカメラマンが大きな三脚を構え、日没を待っています。日が落ちて気温が下がると富士山が見えてくるのです。

気温が下がると空気中のダストも地上に落ちるために、空気が澄んで、富士山が見えてくるのです。この画像は長時間露光で、波が消えました。トワィライトフィルターで赤が強調され、より一層幻想的になったかなと思っております。
最後の画像は、私が横浜支店の融資課長をしていたときに、融資課の新年会(S63年1月)を三浦三崎で行った時のものです。課の職員12名が一泊し、大騒ぎしたことは今でも忘れられません。

(真ん中の赤い子は、課のマスコットガール陽気なM嬢、「課長、YEA~」と言っている。)
湘南は勤務先横浜支店の管轄エリアでもあり、公私ともども何度も行ったことがあります。標題の画像は葉山の海岸から、江ノ島と富士山を撮ったものです。古い話になりますが、この画像を見る都度、「ま白き富士の嶺、緑の江ノ島…」と歌われた逗子開成中学ボート部の遭難事故の映画が思い出されます。
次の二つの画像は鎌倉の稲村ガ崎で撮ったものです。稲村ガ崎というと、先ず思い出すのは、新田義貞が鎌倉幕府軍との戦いで、ここの難所で立ち往生し、神剣を海に捧げて荒波を収め、遂に北条軍を打ち破ったことでしょうか。若い方なら、桑田圭祐の映画「稲村ジェーン」の方が思い出されるかもしれませんね。

(左端の女性が欠けてしまった…)

(彼氏、カメラ持ってるのになぜ彼女を撮らないんだ?じゃ私がパチリ)
再度海岸線を下って葉山の海岸を歩いていると、わかめを加工している現場に出会いました。数軒の漁師の加工場が立ち並び、いずれもわかめ干しに忙しそうです。この時に、葉山市がわかめの産地であることを初めて知りました。

(前浜で採ってきたわかめを、家族全員で水洗い、釜茹での作業をする)

(数分の釜茹でだが、重労働だ)
茹でたあとは再び水洗いされて、天日干しされる。洗濯ピンがここでは大活躍。この天日干しは、子ども達も借り出される。画像はないが、この後は乾燥されたわかめを、選別等級別にまとめ集荷する作業があるという。

(洗濯ピンは、なぜか全部水色、ピンクのピンは見当たらなかった。)
さて、葉山のわかめとお別れして、再び、稲村ガ崎に戻ってみよう。ここ稲村ガ崎は、冬の間富士山が見えるスポットとして有名なのだ。何度か撮影に来ましたが、いつも5-6人のカメラマンが大きな三脚を構え、日没を待っています。日が落ちて気温が下がると富士山が見えてくるのです。

気温が下がると空気中のダストも地上に落ちるために、空気が澄んで、富士山が見えてくるのです。この画像は長時間露光で、波が消えました。トワィライトフィルターで赤が強調され、より一層幻想的になったかなと思っております。
最後の画像は、私が横浜支店の融資課長をしていたときに、融資課の新年会(S63年1月)を三浦三崎で行った時のものです。課の職員12名が一泊し、大騒ぎしたことは今でも忘れられません。

(真ん中の赤い子は、課のマスコットガール陽気なM嬢、「課長、YEA~」と言っている。)