■ LNT仮説は政治的な問題である ■
LNT仮説は「分からないもの・立証できないもの」なので、それを認めるのも、認めないのも完全に政治的な問題となります。
LNT仮説の社会的損失が原子力の経済的利益よりも高くなれば、LNT仮説を疑う論調が高まるはずです。
■ LNT仮説と二酸化炭素由来の温暖化仮説は良く似ている ■
日本国内だけでLNT仮説を否定しても、海外が同調しなければ国民は政府に猜疑の目を向けるだけです。
しかし、二酸化炭素起因による温暖化仮説を例に取れば、今、ネットの利用頻度の高い若者は、ほとんどこの仮説を信じていないはずです。(TVしか見ない老人達は信じていますが)
世の常識は移ろいやすく、LNT仮説が原子力産業を守る為の虚構だという意識が高まれば、世論はまた違った方向に動くと思われます。
これに関してマスコミの果たす役割は絶大ですが、しかし、ネット社会の発達は、ブログやtwitterの様な新たなパーソナルメディアを生み出し、その影響力はだんだんとマスコミの影響力に迫ろうとしています。
現在は「放射線は危険」という論調が主流のネット空間ですが、正確な情報発信を続けていれば「微量放射線の危険性に対する懐疑論」は、必ず勢力を拡大して行きます。
ネット世論は反動的な振る舞いをしますので、現在の様に政府やお抱え学者が「安全だ」と言えば言うほど、ネット世論は「危険だ」という意見に傾きます。
「何にでも反対」というのは、幼稚な反応で、ネット言論社会は、未だ揺籃期にあるのでしょう。この「何にでも反対」という反応は、意外に為政者を利する事にそろそろ人々は気付いても良い頃です。
■ LNT仮説は保険の様なもの ■
勿論、武田先生の言われる「放射能の少ない暮らしを回復する努力」はもっともな事です。その一方でLNT仮説の常識を疑う目も育む事も重要だと思います。
これは相反するのでは無く、車の両輪の様なもので、リスクの正確な把握と、保険の様な関係です。LNT仮説は保険の様な存在で、リスクを正確に表すものではありません。
■ 保険はリスクの金銭化では無く、生活余力の金銭化 ■
生活苦の人は保険に入る事は出来ませんが、リスクが保険会社の方が宣伝するよりもずっと低い事を知っていれば、あまり心配せずに生きていけるものです。
極論してしまえば、人は誰でも一回は死ぬ訳ですから、死亡リスクは誰でも100%です。
しかし、その死亡のパターンを細分化し、そのリスクと経済力をトレードオフするのが、生命保険だと言えます。
LNT仮説は非常にレアな死亡原因、例えばコーヒーを飲んで癌になる事に、高い保険料を払う事に似ています。
一般の人は、「コーヒー癌保険」なんてものに高い保険料を払ったりしません。
ところが、この保険料を国やコーヒー豆の輸入業者が払ってくれると言ったら、人々はわれ先にこの保険に加入するでしょう。
今回の原発事故もこれに似ていて、原発の保障が国家や東電だと人々が思っている内は、誰もLNT仮説を疑いません。
■ 過剰なリスク回避コストが自分達に降りかかったら? ■
実際にリスク回避の負担が税金に転化されたり、電力料金の値上がりとなってわが身に降りかかった時、人々は豹変します。特に、富裕な者ほど、リスクとコストの関係に非常にシビアな判断をします。
LNT仮説の領域の放射線で大騒ぎできるうちは、国家も人々も未だ経済的に余裕があるのだと私は解釈しています。