『天然コケッコー』 くらもち ふさこ
■ 漫画やアニメの舞台としての「田舎」 ■
今期アニメの『のんのんびより』。
田舎の子供達の日常アニメですが、1話目は非常に良かった。田舎の子供と都会の子供のカルチャーギャップを、田舎の景色の中で淡々と描いていてとても好印象でした。しかし、2話目にして完全に「ど~でもいい日常アニメ」になってしまいました。原作ものなので、原作通りなのでしょうが、とても残念です。
ところで、かつて日本人が都会に憧れていた時代は漫画やアニメの舞台も都会がメインでした。一方、バブル以降の日本人の価値観の変化を象徴する様に、地方を舞台にしたものが増えている様に感じます。アニメによる地域振興のブームも手伝って、最近では地方が舞台の作品の方が多いとも言えます。
考えてみれば日本の人口の半分以上は地方都市やその周辺に住んでいるので、漫画の中にリアルな生活観を出そうとした時に、地方を舞台にした方が身近さが増すのかも知れません。都会を舞台にすると「東京」を無意識に想定してしまいます。遠くに山並みが見える地方都市の方が、特定の都市のイメージを取り去る事が出来るのかも知れません。
これらの「地方」を舞台にした作品の性質は概ね次の二つに大別されます。「どこにでもある田舎や田園風景」として描かれる場合と、「何か特別な因習が残る異世界」としての田舎です。
■ 「異世界」としての田舎 ■
かつて「東京」が異世界を代表していましたが、メディアで東京の隅々までが日常的に紹介された結果、全国津々浦々、東京情報が溢れ、東京はかつてのミステリアスな雰囲気を失い身近な都市に変貌してしまいました。
一方で、都会の人達から観た「田舎」は「異世界」そのもので、『屍鬼』や『神様ドールズ』では、「不思議な因習が残る田舎」という設定を最大限に活用して作品世界を構築しています。
■ 「日常」としての田舎や地方都市 ■
最近の傾向としては「日常」を描く作品で、地方を舞台にしたものが増えています。「東京」を舞台にすると、作品間の「差異」が小さくなってしまう事も原因なのかも知れません。
この様な作品に描かれる田舎にも2種類あり、「どことも知れぬ田舎」と「有名な田舎」に大別されます。『かみちゅ』の尾道や、『氷菓』の飛騨高山は、背景から地名の特定が容易です。これらの作品では、地名のネームバリューより、建物や街並、或いは風習が特徴的な事が物語の展開に不可欠な要素となっています。
一方で『あの日見た花の・・・』の秩父や、『悪の華』の桐生は、他の地方都市でも代替が可能かも知れません。
さらに、『俺の妹がこんなにかわいい訳が無い』の千葉市や、『俺の青春ラブコメはまちがっている』の京葉線沿線(千葉市)などは、ラノベの原作者の住んでいる地元をそのまま舞台にしたという安直さです。
地方在住の若いマンガ家やラノベ作家の中には、自分の住んでいる街の周辺しか知らない作者も多く、その結果、メジャーでない地方都市が物語りの舞台になるケースも多くなっています。『君のいる町』の舞台、広島県庄原市も作者の育った町だそうです。
ちょっと面白い動画を見つけました。
都道府県別、アニメの舞台をまとめてあります。
知らない作品も多いのですが・・・。
横綱・・東京・横綱
大関・・神奈川・埼玉
関脇・・千葉・長野・兵庫・広島
小結・・岐阜・京都
埼玉が次期横綱候補、千葉が次期大関候補 ・・・と勝手に番付を付けてみました。
我が町。浦安は『ああ女神様』と『ぜーガペイン』の2作品が選ばれていました。
『浦安鉄筋家族』もあるんだけどね。
■ 田舎マンガの金字塔としての『天然コケッコー』 ■
『天然コケッコー』 くらもち ふさこ
今でこそ珍しくない「田舎」を舞台にしたマンガやアニメですが、「別冊マーガレット」に1994年から2000年まで連載された、
くらもちふさこの
『天然コケッコー』は、「田舎マンが」の金字塔とも言える作品です。
島根県の小さな農村に東京から中学2年の大沢君が転校してきます。村の分校には男子は一人しかいないので、女の子達はそわそわしながら、都会からの転校生を迎える準備をします。教室を掃除して、花を摘んで飾り、黒板に歓迎の文字を大書きします。
ところが転入生の大沢君はイケメンだけど性格が最悪。最年長で中2の「そよちゃん(
右田 そよ)」は初日からショックの連続です。
それでも、都会の臭いのする大沢君に皆夢中。村の中を案内したり、皆で海水浴に出かけるうちに、そよちゃんも大沢君が思ったよりもイイやつだと気付きます。彼の着ているパーカーに憧れたり、一緒に出かけるうちに、二人は自然と付き合い始めます。
そんな中学2年二人、1年2人、小6年1人、小3年1人という小さな村の子供達の成長と、彼らを巡る村の大人達を丁寧に描いた作品が『天然コケッコー』です。
6年間の連載で、大沢君とそよちゃんは高校生になります。
大沢君の家の複雑な家庭事情も知り、さらのそよちゃんの父親と大沢君のお母さんの過去も知りながらも、若者達は付かず離れずの関係と続けてゆきます。周囲の大人達は、子供達を時に温かく、時に必死に見守ります。(そよちゃんのお父さんは邪魔ばかりしますが・・・)
文章で書くと、「よくある話」なのですが、6年の間、丁寧に積み上げられてきた「小さなエピソード」の堆積は、そよちゃんの村があたかも実在し、さらには、彼女達がそこで暮らしている様な錯覚を読者に与えます。
最近では吉田秋生の『海街Diarry』が見事な人物描写を見せていますが、少女マンガの天才、「くらも ちふさこ」の描く世界は現実的でありながらも、どこかオボロ気でもあります。
■ そよちゃんの主観としての景色 ■
よくよく見ると、この作品、風景を「俯瞰」した描写がほとんど見られません。背景も風景もスナップショットの様な構図がほとんどです。
村はそよちゃんにとって、珍しい場所では無く、生まれ育った場所であり、見慣れた景色は彼女にとって何も特別なものではありません。畑も田んぼも校舎も山も、全てが生活の一部であり、取りたててそれをどうこう評価する視点を彼女は持ってはいないのです。
ただ、村の外の世界、例えば、子供達がてくてくと歩い行く先にある海辺は、別世界としてそよちゃんの目に映ります。そして、就学旅行で赴いた東京で、初めて自分の村を外の世界から眺めるのです。
■ 異分子であり続ける大沢君 ■
一方、中2まで東京で育った大沢君は、いつまで経っても「異分子」です。
彼が意識するしないに関わらず、彼の行動は村では目立ちますし、感覚もどこかズレています。大沢君も一度は村を捨て、東京に出てしまうので、彼自身、村に居場所が無い事を自覚しています。
しかし、結局彼は村に戻って来ます。
東京で聞く虫の声と、村で聞く虫の声が違うのだと・・・。
多感な時期を村で過ごした大沢君は、彼も気付かぬうちに村と同化していたのかも知れません。
■ マンガの表現力の極北 ■
『天然コケッコー』はある意味オーソドックスに描かれたマンガです。1話だけ、セリフの全く無い回がありますが、後は最近のくらもち作品に比べれば普通の表現です。
しかし、凡百のマンガと比較するまでも無く、この作品は極めて独自のポジションにあるマンガです。
何がと言われても難しいのですが、描かれているエピソードの裏の「心理」みたいなものが、表層の表現よりも強く読者に伝わって来るのです。
そよちゃんの不安や喜び、大沢君の苛立ちや投げやりな気持。そんな、本人達すらも自覚しない意識が作品を支配して、とてつもない緊張感が全編に張り詰めています。
ジェームス・ジョイスやバージニア・ウルフといった「意識の流れ」を表現に取り入れた現代文学の変革者の諸作と似た肌合いを感じずにはいられません。
ほのぼのとした田舎の生活の中に、都会人のイメージし得ない緊張がある事に、くらもちふさこは自覚的なのです。
■ マンガやアニメは文化として退化している ■
似た様なシチュエーションを描く作品でありながら、『のんのんびより』と『天然コケッコー』の間には、百億光年以上の隔たりを感じます。
この差を思う時、アニメを観ながら、何だか悲しい気分になります・・・。
元々アニメやマンガなどは子供向けのカルチャーなので、「幼稚だ」などと批判する事はヤボなのですが、一方で、多くのアニメファンが「くらもちふさこ」の存在すら知らない事に、この国のアニメ文化が本当に豊なものなのかどうか、一抹の疑問を感じてしまいます。
『のんのんびより』の第2話の2chの感想を見ると、1話目よりも圧倒的に2話目の評価が高い。「ゆり展開」で盛り上がるアニメファンのコメントを見て、つい書かなくても良い苦言など書いてしまいました・・。
「聖の中の俗」「俗の中の聖」というのは文化を味わう時の一つの醍醐味でもあります。
菅野よう子は「どーし様も無いオタクアニメが、一瞬、孤高の表現に達する時が好き・・・」的な表現をしていたと思います。文化の生命力は「俗」の中から生まれ、そして、いくつかの際立った作品を生み出すと、そのカルチャー自体が衰退を始めます。
現在の日本のアニメは、既に衰退期に入っており、『キルラキル』の様なポストモダン的手法が評価される時代を経た後には、長い退屈が訪れるのかも知れません。