本日の記事はネタバレを含みます。そして、作品を褒めてはいないので、ファンの方はご注意を。
■ 劇場を出たら記憶から消えた『天気の子』 ■
新海誠監督の『天気の子』を家内と劇場で観て来ました。
評論をとの要望があったので書こうと思ったのですが・・・記憶に無い。断片的な映像は思い出すのですが、全体のストーリーがおぼろげ。
これはきっと組織の陰謀に違い無い。低周波攻撃で記憶が抹殺されたのだろうか・・・。
まあ、冗談はさて置き、良い映画を観た後は、テーマ曲が頭の中でリフレインして、1週間程は作品の余韻に浸れます。少なくとも『君の名は。』はそういう作品でした。
一方で、イマイチな作品は何も残らない。私にとって『天気の子』はそういう作品。
■ 「寄せ集めの世界系」 ■
緻密な風景、美しい空や雲、充分なクォリティーの動画。どれを取っても現代アニメの水準を大きく超えた作品です。
では何がイケナイのか・・・。
頭に浮かぶのは「雑なストーリー」という言葉。家出をして東京で暮らし始めた少年と、母親が死んで弟と二人暮らしの少女のボーイミーツガールですが、多分、新海監督の頭の中にあったのは、この作品でしょう。
『天空の城ラピタ』を現代のボーイミーツガールの作品にする事は別に悪い事ではありません。誰しも自分がリスペクトする作品に影響を受け、知らず知らずに、近い作品を作ってしまう事もあります。
ただ、そうやって派生して生まれる作品にも名作もあれば駄作も有る。『天気の子』は、新海監督がジブリをトレースして失敗した『星を追う子』同様に、明らかに失敗に属する作品。
その最大の原因は「継ぎはぎだらけで、作品として熟成されていない」事。何だか、設定会議のファースト・プロットをそのまま全力で映画にしてしまいました・・・そんな物語の完成度の低さを感じます。
尤も気になるのは、ストーリーの本筋に関係の無い、伏線とも言えない無駄なシーンが多い事。
例えば、家出少年が新宿を彷徨うシーンはリアルですが、少女に出合う為にこんなシーンは必要無い。
「少女が母親を亡くして家計を支える為に、年齢を偽ってキャバクラで働こうとする所を少年が助ける」という設定に繋げる為のエピソードですが、そもそもこの設定自体に相当無理が有ります。そしてその過程で少年が拳銃を拾い、その為に少年達が警察に追われる・・・。
この拳銃って、警察とのチェースの為だけに設けられた設定ですよね。そして、警察とのチェースは物語に動きとアクセントを作る為だけに設けられた「非常に雑」な設定。
終始こんな感じで、「物語が目的の為に継ぎはぎだらけ」なので、自然な流れが全くありません。
確かに『君の名は。』も多くの要素が詰め込まれた高密度な作品でしたが、それぞれのエピソードがラストに向かって収束して行く素晴らしい構成に舌を巻きます。
一方天気の子は「天気の巫女が犠牲になる」という伏線しか、有効に作用していない・・・。
■ 「未成年の逃避行」をフューチャーすべきだった ■
この作品、母親を失った主人公の少女は、小学生の弟と田端のアパートで二人暮らしをしています。
・・・カルピス劇場じゃないんだから、未成年の二人暮らしは現在の日本では有り得ません。母親が多少のお金を残して亡くなったとしても、児童相談所なりが保護して、しかるべき施設に預けられます。
確かに作品では相談員が家を訪れるシーンが描かれますが、実際の世の中では子供に選択権は有りません。行政が強制力を発揮して、子供を保護するハズです。
実はこの設定が非常に上手に使われている作品が有ります。小林靖子がシリーズ構成・脚本を担当した『ウィッチブレイド』です。若い母親が、小学低学年の女児と上京しますが、母親に生活力が無い為に、すぐに児童相談所によって親子は引き離されてしまいます。
我が子と暮らしたい一心で、母親は生活の場と仕事を確保するのですが、この努力と子供の健気さに視聴者は感動して、グイグイと物語に引き込まれて行きます。
『天気の子』も、母親に死なれた兄弟が児童相談員から逃げる過程で、主人公の少年と出会い、縁あって、彼が居候する事になるライターの事務所に一時的に居候するという設定だったら物語が自然に流れたでしょう。
ライターとその姪が父親と母親代りで、一時的に子供達の面倒を見る事で「疑似家族」が生まれ、当然、大人であるライターはそれが永続しない事を知りながら、仮初の家族ごっこに自らの心の空白を埋める・・・こんな設定は説得力が有ります。
当然、未成年略取、或いは監禁に問われ兼ねない事案ですから、少女と弟兄弟の心の整理が着くまで保護するという設定が有効です。但し、公的手続きを経て保護すると物語が安定してしまいますから、2~3日、面倒を見る・・・こんな感じが良いかと。
そして、相談員が子供達を見付け、追っかけっこになる・・・。
この程度の設定の方が物語に奥行が出しやすい。それが、少年が発砲事件を起こして警察に追われるなんて、どこぞの出来の悪いVシネマなんだよとツッコみたくなります。・
■ 借り物のテンプレキャラクターのオンパレード ■
この作品、さらに酷い事に、キャラクターも借り物だらけです。
『天気の子』より
『聲の形』より
「おい、お前どこの弓弦ちゃんだよ!!」って、ツッコんじゃったよ!!
『天気の子』より
『化物語』より
いつ「アララギ君」って言い出すのかと思ってヒヤヒヤしちゃったよ・・・。
『天気の子』より
『エヴァンゲリオン』より
美里さんを可愛くした感じだよね。立ち位置的にも少年の面倒を見るという点が似てる
『天気の子』より
「居る居る、こういう刑事」と思わせた時点で負け!!。
弟のキャラは似すぎですが、外は雰囲気とか、立ち位置的な類似なのですが、どうしても他の作品のキャラを彷彿させてしまった時点で、作品としては失敗しています。これがTVアニメならばテンプレキャラも有りなのですが、オリジナルの劇場アニメとして失敗。
何も私はキャラの外装を否定している訳ではありません。例えば『エウレカセブン』はあえてバラバラな作品のキャラを実験的に外装していますが、作品の本筋がビシィーーと通っているので、それが気になりません。
要は他作品とのキャラの類似性が気になってしまう時点で、世界観の構築が弱すぎるのです。
■ どんな突飛な設定でも納得させるのがSFの醍醐味 ■
「雨が降り続いて東京が水没するなんてあり得ない」という点に躓いてしまう人も居るでしょう。でも、これってSFでは有りがちな設定。
イギリスSF界の巨匠、J・G・バラードの作品は、世界がいきなり結晶化し始める『結晶世界』や、いきなり雨が降らなくなる『乾燥世界』など、極端な環境変動が起きる作品が多いのですが、実はその原因にはほとんど言及が無い。ただ、そうなった世界を緻密に描く事で、SF的なリアリティーを獲得しています。
私は『天気の子』で唯一評価すべき点は、「雨が続いて水没する東京のSF的リアリティー」の高さだと思っています。これは素晴らしかった。
ただ、それが物語の中心にガッツリと食い込んで物語をドライブする力になっていない事が残念でならない。
例えば・・・『ペンギンハイウェイ』では、「或る朝、街にペンギンが出没し始めた」という突飛な設定が、徐々にオネエサンの秘密から、世界の秘密へと繋がる流れの強さが有ります。最期はカタロシスすら感じる。原作の勝利とも言えますが、SF作品の突飛な世界を確固たる実在に替える為には、ディテールの細かさもさる事ながら、物語の全体の構成が緻密に組み上げられている事が不可欠です。
『ペンギンハイウェイ』より
『天気の子』の「天気の巫女」の設定は、「古い神社に伝わる伝承」だけに依存していますが・・・これチープ過ぎますよね。どこのライトノベルだよと言いたくなる。これではSFは成り立ちません。だから、洪水の東京のシーンも、天気の巫女として犠牲になる主人公も、そして「僕たちの選択が世界を変えてしまった」という結末も、一切私の胸に響かない。
■ 個人の勝手で世界を変えてしまっていいんだよ・・・だって世界系の作品だもん ■
この作品のラスト、「二人の選択が世界を悪い方に変えてしまう」というのが作品のハイライトですが・・・私はこの選択自体を悪いとは思いません。だって、世界系の物語では普通に起こる事ですから。涼宮ハルヒの選択が、現実世界を消失させる事だって起こり得るのが世界系。
ただ、「世界を変える事」に大きな葛藤は必要で、『天気の子』では、その葛藤が随分と小さい。もう、引きこもりオタクの自爆テロ程度の葛藤しか無い。ここに問題が有る。だから、最後の選択にシーンで、観客な何が選択されたのすら分からない・・・。
■ 青臭い私小説の方が、安っぽいラノベよりも新海監督には向いている ■
私は新海作品は二つに分かれると考えています・・・あ、それとジブリのコピー系。
<青臭い私小説系>
『彼女と彼女の猫』(これ、学生時代の自主製作短編ですが必見です)
『秒速5センチメートル』
『言の葉の庭』
<安っぽいラノベ系>
『星の声』
『雲のむこう、約束の場所』
『君の名は。』
『天気の子』
<ジブリのコピー>
『星を追う子供』
私は新海誠監督に求めるのは「身をよじる程に共感羞恥」なので<青臭い私小説系>にこそ魅力を感じます。
彼は彼の身の回り5mの範囲で起こる些細な事を見事に掬い取る名手ですから、散文的で私小説的な世界を描かせたら右に出る人はいません。究極のナルシストで、光や風や空気や雨にすら、主観的な意味を見出している。
一方、ストーリーテーリングは下手なので、込み入った構成や、群像劇は苦手とする所でしょう。『君の名は。』だけが、奇跡的に、そして突出して出来が良いだけ。
■ 大好きなカルト系映画監督がハリウッド大作で失敗した・・・・的な何か ■
新海誠監督の初期作品のファンとしては、現状はこう表現するのが適当でしょう。
「大好きなミニシアター系の映画監督が、ハリウッドの大作の監督に抜擢されて、つまらない作品を作ってしまった」
或いは・・・
「日活ロマンポルノのカルト監督が、メジャー系で端にも棒にも付かない作品を撮った」
細田守も同様の状況に置かれていますが、『未来のミライ』の方が「観客の期待を裏切る悪意」を感じました。『天気の子』は、観客の期待に全力で応えようとして、自分を見失った新海監督の姿が浮かびます。それだけ彼は「いい人」なのでしょう。
■ 劇場で観るべき作品 ■
ここまで酷評して今さらですが、『天気の子』、劇場で観るべきです。「DVDが出たら見よう」なんて言っていたらアニメファンが廃ります。
この無駄な映像美は・・・劇場のスクリーンでしか楽しめません。私達夫婦はiMAXシアターで堪能しました。
アニメはこんな美しい映像を作る事が出来るんだ・・・・ただただ、それだけを堪能する為にも劇場へGOOOO!!。
最後に、この作品に携わった方々に、こんな記事を書いてしまってお詫びいたします。私個人としては、「酷評」の記事はなるべく書かない様にしているのですが・・・。
ちゃんとした脚本家が入れば、細田作品も新海作品も、さらなる高みに向かうハズです。「監督のオリジナル脚本」で客を呼ぼうとする政策委員会・・・逝っててヨシ。
『ウィッチブレイド』より
最後に東京が水没するなど『天気の子』に何故か共通する点のある『ウィッチブレイド』。私は小林靖子の最高傑作として疑いません。途中のグダグダの展開を通り越して最後まで見れば、涙腺が決壊します!!