『天晴浪漫!』より
『デカダンス』より
最近はアニメ熱が少々冷め気味でしたが、そんな私を一気に沸点越えさせる作品が二つも現れました。『天晴浪漫!』と『デカダンス』。
『天晴浪漫!』はハリウッドの古典的映画の魅力をアニメの中にギューーーーと凝縮してみせた。一方、『デカダンス』は前衛的な表現でSF的な興奮を堪能させてくれる傑作。この2作品を比べて「どちらが優れている」といった評価は無意味。両作品とも「表現の限界に挑む」エネルギーにおいて同等のレベルに達しており、それが確固としたアニメ表現の基礎の上のドッシリと構築されている事が、凡百の実験的アニメとこの二作品を隔てる「表現限界の壁」だと実感させられる。
一方で、富士山の如くドッシリと構えるこれら二作品に比して、一気に成層圏に突き抜ける『天元突破グレンラガン』の様な作品が存在する事が、アニメという表現の魅力なのだと再認識させる「指標」的作品とも言えます。
■ 安定した構成が、ハチャメチャな物語を視聴者に許容させている『天晴浪漫!』 ■
『天晴浪漫!』より
明治維新、未だ侍が帯刀していた時代に、一人の発明好きの人騒がせな少年と、彼のお目付け役を申し付けられた道場の師範代が、漂流してアメリカに渡って大陸横断自動車レースに出場する話。
・・・ストーリーを要約すると「何それ??」の様な話ですが、一つ一つ丁寧にシーンを積み上げ、人と人の繋がりを綿密に構築する事で、この作品は物語の強大な推進力を生み出しています。登場人物のハートにしっかりと火が灯り、走り出したらゴールまでは止まらない。
話の基本は、ハリウッド映画でも良く有る「大陸横断自動車レース」ですが、テイストはアメリカの古典アニメの『チキチキマシン猛レース』。コッテコテのキャラが、コッテコテの自動車に乗って、時にはライバルの邪魔をしながらゴールを目指すシンプルなストーリー。
ただそこに、漂流してアメリカ船に拾われた風変りな日本人二人を「混入」する事で、埃を被った「レース映画」が見違える様な輝きを放ち始めます。これ、『Tiger and bunny』に近い手法で、『Tiger and bunny』ではマーベルのヒーロ物というジャンルに「ヒーローという仕事」という概念を導入する事で、摺り切れたジャンルに新たな魅力を生み出しています。一方『天晴浪漫!』は、「野蛮なアメリカ人のDNA」とも言える「レース物」に「発明家の日本人」という異物を混入する事で、新たな座標からアメリカ文化やハリウッド映画の古典を俯瞰して見せる。
「大陸横断自動車レース」という映画ジャンル自体が、「荒野を失踪する馬や幌馬車隊」といった西部劇のメタファーですが、『天晴浪漫!』では、時代を「ガソリン自動車の創成期」とする事で、自動車レースを西部劇の舞台の上で展開する事に成功しています。
実際にガソリン自動車が発明された時代には、「相手が先に拳銃を抜いたら正当防衛が成り立つ」様な「野蛮」な時代は過ぎていますが、そこはアニメ、違和感無く「そういう時代なのね」と納得させてしまいます。
この作品の正当な感動の仕方は、「たった二人でアメリカに放り出された日本人二人が、知恵と剣の技で活躍する」というストーリーに胸を熱くする・・・というもの。実は80歳になる母に見せたら「アニメは良く分からないけど、これなら分かるわ。次を見せて、どうなるの?」と言う位い、シンプルで誰にでも分かり易く、主人公達に感情移入がし易い。
監督の橋本昌和は「劇場版クレヨンしんちゃん」の監督として活躍された方なので「子供でも分かる」という基本をしっかりと押さえています。脚本もほぼご自分で書かれていますが、「キャラクターの肉付け」が非常に上手い。全ての登場人物に、しっかりとした背景を与える事で、彼らのエキセントリックな行動や言動を自然なものとし観客が受け入れられる下地を作っています。さらに関心させられるがの、その背景を提示するタイミングが絶妙な事。これは脚本や物語の基本でも有りますが、最初から素性が知れているキャラクターに人は興味を持ちません。「コイツ何物だよ」とか「コイツ、イカレテルぜ」と思うから、物語の先に進みたくなる。
一方で、主人公の天晴と小雨。そして彼らの理解者であるシャーレンやアル・リオン、ホトトの背景は比較的早くに、丁寧に描かれています。これらの人物に最初に実在感を与える事で、物語のコアを確立し、そこにハチャメチャな登場人物の暴れ回るスペースを作り出しています。そして、ハチャメチャな彼らの過去を最適なタイミングで明かす事で、視聴者は「ハチャメチャな物語を許容」して行く。
■ 『チキチキマシン猛レース』に散りばめられたハリウッドの古典映画 ■
『チキチキマシン猛レース』より
『天晴浪漫!』を一言でいえば『チキチキマシン猛レース』のリメイク。昭和40年生まれの私の世代には懐かしいアメリカのアニメです。ブラック大魔王が、あの手この手でレースを妨害して勝利しようとしますが、いつも失敗して助手のケンケンがシシシシーーーって笑うアレです。
レースが物語の軸として一本通っているので、そこに様々な要素が加わってもブレが無い。後半は殆ど西部劇となりますが、名作西部劇へのオマージュが散りばめられています。さらに、そこにカンフー映画的な要素と、チャンバラ活劇的な要素が加わって、最高のエンタテーメントを提供しています。
どのシーンも見事なのですが、私は鉄橋爆破のシーンで、ソフィアを載せたまま走り去る列車のシーンでゾクゾクしました。絵コンテは岡村天斎だったかな。
OPの映像も素晴らしい。
『天晴浪漫!』OPより
OP詐欺みたいな作品の対極にあるOP。短い時間の中で、作品のテイストを的確に提示し、さらに登場人物を紹介する。リズムにシンクロさせたテンポ良いシーンの切り替え。これこそ、アニメのオープニングの見本です。
最後にこの作品はP.A WORKS作品。「働く女の子シリーズ」で定評のある会社ですが、『有頂天家族』とこの作品は見事です。京アニよりも作風が固定されていないのがPAの魅力。
■ 異世界物に対するSFの逆襲・・・『デカダンス』
『デカダンス』OP より
OPで比較すると『デカダンス』は『天晴浪漫!』とは対照的です。これを観ただけでは、この作品の内容は全く予想出来ません。
『デカダンス』より
『デカダンス』・・・私、実は1話冒頭で一回視聴を中止しちゃったんです。なんか『ガルガンティア』みたいだなと思って・・・。これ、間違いでした。どなたか、拍手コメント欄で「デカダンスはどうですか」みたいなコメントを下さったので、慌てて見直したら・・・傑作でした。作品紹介が遅れたのは、一気に観たいので、放映終了まで視聴せずに温存していたから。こういう作品って、次が気になって仕方無いじゃないですか。
人類が衰退した未来。人々は分厚い装甲に囲われた自走式都市の閉じこもって生活しています。歳はガドルと呼ばれる謎の生物の攻撃に晒されています。人々の中の戦士と呼ばれる人達がガドルと戦い、ガドルの肉は人々の食料となって生活を支えます。
実はガドルと戦っているのは「タンカー」と呼ばれる残存人類だけでは有りません。ガドルが現れるとギアと呼ばれる肌の青い戦闘集団が現れ、ガドルと戦います。ギア達は戦力も豊富で強い。タンカーとギアの交流は有りませせん。ギア達はデカダンスの上層部に住んでいて、タンカー達は低層部のバラックに住んでいる。
父親をガドルに殺され、自身も右腕を失ったタンカーのナツメは、戦士になる事を夢見ています。しかし、片腕の彼女は外壁修理工の仕事にしか就けません。そこで出会ったのが親方のカブラギ。クールでどこか達観した感のあるカブラギですが、彼の生活は徐々にナツメに振り回される様になる。そして、ナツメはカブラギが以前は凄腕の戦士だった事を知るのです。
<ここからネタバレ>
ネタバせずにこの作品を評論する事は出来ないので、視聴を予定されている方はここから先は読まないで下さい。
『デカダンス』は世に蔓延る「異世界転生物語」のSF的アンチテーゼです。
「異世界転生物語」はゲーム好きの夢の世界であり、同時に逃避場所でも有りますが、その原点は『ソードアートオンライン』の様なSFに有ります。(神話などを除けば)
『ソードアートオンライン』はフルダイブ型バーチャルゲームで、プレイヤーがゲーム世界に没入し、ゲーム世界をあたかも現実世界の様に知覚する設定。これを「死による転生」に置き換えたのが「異世界転生物語」。
仮想現実によるバーチャル物としては『マトリックス』が思い浮かびますが古典は『トロン』でしょう。オリジナルの『トロン』はサイバー空間を描く事を目的としていたので、ワイヤーフレームで表現され、それを現実と錯覚する事は有りません。一方、『マトリックス』のサイバー空間はかなり「リアル」で、人々はそれを「現実」と錯覚して生活しています。
これらの古典的なサイバー空間物に対して、『デカダンス』は世界をひっくり返して見せます。ゲームの世界が現実で、ゲーマーはサイバー空間に存在する。
人類は旅か重なる戦争で疲弊し、サイボーグとして新たな生を生きています。AIに完璧に管理された戦いの無い世界、エネルギーを補充し続ければ死も存在しない世界の最大の娯楽はゲーム。サイボーグ達は、素体と呼ばれる「生体」に意識を転送する事で、ガドルを撃退して要塞を守るという「デカダンス」というゲームに興じています。
ゲーム世界に転送される「異世界転生物語」の中の人達は「バーチャル」ですが、『デカタンス』ではゲームの中の人こそが「リアル」という逆転には驚きます。
この逆転は、「ゲームキャラにこそ生物としてのリアルが有る」という逆転の現実を視聴者に突き付けます。
「異世界転生物語」は主人公がゲームの中の人となる事で、ゲームの中の人を「リアル」と認識する構造ですが、『デカダンス』ではゲームに転生(転送)されるゲーマーの方が生物としてのリアルを失っています。彼らは死んだらログアウトするだけのバーチャルな存在ですが、タンカーの死は生物学的なリアルな死です。
この作品の主題は「リアルとバーチャルの逆転」なので、この構造が分かった時点でSFとしての物語の90%は終わったも同然ですが、映画やアニメはエンタテーメントとして、この設定を使って人々に感動を与える必要が有ります。
『デカダンス』は、AIに管理された世界へのサイボーグ達の反逆と、タンカーと呼ばれるリアルな人類との融和を終点とする事で、物語を成立させています。
■ 作画のカロリーをリアルな世界に集中される裏技 ■
『デカダンス』はアニメファンには「踏み絵」となる作品です。特に「作画厨」などと呼ばれる作品の表面しか評価しないファンは振り落とされる。
『デカダンス』のリアル世界は非常にクォリティーの高い作画によって構築されます。戦闘シーンの動画も素晴らしい。一方、サイボーグ達の世界は手艇的にマンガ的・記号的に描かれます。これはアニメという表現様式の本質に迫る表現でも有ります。「アニメ=キャラクターの記号化」と捉えるならば、キャラクターは単純な四角でも丸でも構いません。『鷹の爪』や『古墳娘のコフィーちゃん』や『石膏ボーイズ』が良い例です。記号に声優さんのセリフが付けば、人はキャラクターとしてそれを認識し、感情移入が可能です。
しかし『デカダンス』ではリアルな絵柄と簡略的な絵柄が同居しているから視聴者は違和感を禁じ得ません。『サマーウォーズ』の様に、簡略的な絵柄が「バーチャル空間」のシンボルとなっているならば受け入れ易いのですが、『デカダンス』ではシンプルな絵柄の世界も「リアル」とされるので、それを受け入れられない人が少なからず発生する。さらには、シンプルな絵柄とリアルな絵柄が同じリアルとして同居する場面まで有るので、ライトなアニメファンは「こんなのあり得ない~~」と、その時点で作品自体を否定してしまいます。
多分、タンカー側のリアルなシーンの作画クオリティーを限られた予算で追及する為の苦肉の策だったのだと思いますが、これは製作サイドとしても大きな賭けだったと思います。結果的に現在のアニメファンのレベルを図るバロメーターの様な作品となってしまった。
多分、サイボーグ世界もリアルな絵柄で描いたならば「大傑作だ!!」と褒める人が続出したでしょう。私はこれを「勿体ない」とは思わない。シンプルな絵柄で挫折する様なファンの評価などゴミに等しいから。
その意味において、作品が視聴者を選ぶ『デカダンス』は、アニメという記号で成立する映像表現の本質をも追及する意欲的な作品なのだと私は評価しています。これはヌルヌル動く上質な動画をファンに提供する「ユーザーフレンドリーなアニメ作品」では無く、SFとしてのアイデアを視聴者に問う作品なのですから。
監督は『モブサイコ100』の立川譲。有能ですね!!
『天晴浪漫!』と『デカダンス』の2作品の前に、2020年夏アニメの他作は別の地平に取り残されています。それが例え『とある魔術師の超電磁砲T』であっても『ソードアートオンライン・アリシゼーション』であっても・・・。
この二作品に対抗出来るのは『彼女お借りします!』と『ピーターグリルと賢者の時間』と『魔王学園の負適合者』しか無い(3作品も有るじゃないか)。これらの作品はアニメを視聴する少年少女(年齢は問わず)のリビドーに素直な点で評価出来ます。これはこれでアニメらしい。
特に『彼女お借りします』は・・・あの終わり方は次が気になって仕方ないじゃないか!!続巻をネット版で全話買っちゃったじゃないか!!講談社のワナにしっかり嵌っちゃったよ!!