人力でGO

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『よふかしのうた』、『さよなら絵梨』、そして『僕のエリ』・・・珠玉の吸血鬼作品

2022-07-20 06:11:27 | アニメ

『よふかしのうた』より

今期アニメは『はたらく魔王さま!』『ようこそ実力至上主義の教室へ』の第二期というサプライズに狂喜乱舞していますが、何と、その2作が吹っ飛ぶ程の傑作が!!

『だがしかし』のコトヤマの『よふかしのうた』は、書店に並んでいる時から表紙が並みじゃないオーラを発していましたが、今期アニメ化されています。そして、そのアニメが素晴らし過ぎて、各話5回連続でも観れる。

とある事を切っ掛けに不登校になった「夜守 コウ(やもり コウ)」は、不眠症となる。あ夜、彼は夜中に家を抜け出して夜の街を徘徊します。昼間とは全く違う表情を見せる静寂で美しい街に少年は久しぶりの解放感に浸りますが、そこで出会った女性は吸血鬼「七草 ナズナ(ななくさ ナズナ)」だった。「少年、眠れないのだろう?」と彼の悩みを看過した吸血鬼は彼の血を吸わせろと言う。

現実逃避からか、吸血鬼に憧れた少年は血を吸わせるが、何故か吸血鬼にはなれない。ナズナは彼にこう告げます。「好きな相手に血を吸わせない限り眷属にはなれない」と。恋愛を概念的には理解しても「実感」を感じられない少年は、吸血鬼になるべく彼女に恋をすると心に決めます。そして、ナズナの横に横たわり、久しぶりに深い眠りへと誘われる。

吸血鬼ものは「名作」の多いジャンルですが、もう全身鳥肌が立つ出来栄え。夜の街の静寂と静かに満ちる生気を、色彩表現で見事に描いている。そして少年をお姫様抱っこしながら、「ふわり」と夜の空を飛翔する映像の破壊力と言ったら、黒田硫黄が『大日本天狗党絵詞』で見せた重力の呪縛を一瞬で振り切る様な表現に匹敵する。マンガやアニメの映像としての「驚き」が解き放される一瞬を久しぶりに観た。

そして、この『よふかしのうた』はエロティックだ。元々、吸血鬼ものにおける「吸血」はセックスのメタファーだ。女性の白い首筋に吸血鬼が牙を立てる、女性は吸血鬼の魅了の能力によって恍惚の表情を浮かべる・・・これはセックスのエロティシズムを表現している。一方で、眷属を作るという意味においては「吸血は生殖行為」でもある。少年は吸血鬼になりたいが故に、気軽に血を吸わせようとするが、ナズナは「お前、そんな・・・ねえ、して・・みたいな・・ハズカシイ!!」と狼狽えます。「雰囲気ってもんがあるだろう!」と。ナズナは彼女のアパートの床に敷かれた布団に少年と横になり、そしてチュゥウウ~~っと吸血する、「お前の血は本当に美味しいなあ~」と。ナズナは吸血を「まぐわい」と表現します。そして、彼女は少年との「まぐわい」を大切なものと感じている。

少年サンデーに連載される作品だが、コトヤマは『だがしかし』においては、駄菓子への偏愛でエロティシズムを表現する事を試みていましたが、『よふかしのうた』ではより直接的にエロに踏み込んでいます。ただ、コトヤマのエロとは、性的衝動の発露では無く、フェティシズムに近い。駄菓子フェチ、吸血願望フェチ。生殖器の結合よりも、特定の行為や部位に興奮を覚えるフェティシズムは、言わば「脳主導の性行為」とも言え、この作品は少年達の知的レベルを問う作品とも言えます。(もっとも、ナズナちゃんはセクシーで可愛らしいので、性的にも今期の無敵キャラですが・・・)

この作品で素晴らしいのは、実は「背景」です。夜空、街の明かり、それに照らされた街の色・・・。緑とオレンジにシフトした夜景は、濃密な生命力に溢れ、武蔵浦和の駅前や、公団住宅のありふれた景色を、異世界に塗り替えます。その風景の中で、少年と吸血鬼が連なって歩く・・・それだけで岩井俊二監督の『PICNIC』を観た時の様な、ある種の酩酊感を覚える。

そして、OPの映像と、EDの歌は今期最高の出来。特にEDの「よふかしのうた」は、作品がセックスを吸血によるメタファーとして描くのに対して、もっと直接的に男女の「まぐわい」を表現して、作品の本質をむき出しにして行きます。ラッパー「R-指定」と世界一の DJ「DJ 松永」によるHIP HOP ユニット「Creepy Nuts」はOPや挿入歌も担当しています。今我が家でエンドレスで流れています。

 

『さよなら絵梨』より

『ファイヤーパンチ』『チェンソーマン』とその天才性を発揮する藤本タツキの最新作。1巻読み切りですが、「ジャンプ+」でネット配信された作品の様です。

ガン?で余命宣告された母が、「自分の姿を映像で残して欲しい」と息子にビデオカメラをプレゼントします。息子は母の死の直前まで、母の日常を記録し続けますが、母に死に際だけは撮る事が出来ません。そして病院から逃亡した息子の背景で・・病院は爆破されて崩れ落ちる!?母と息子の心の繋がり的な作品を期待した読者は、一瞬何を自分が読んでいるのか目を疑います。そして、それが彼が文化祭で上映した「映画」であった事に胸を撫でおろす。しかし、作品自体はドキュメンタリーなので、彼は教師や周囲の生徒達に「なんであんなラストにした」と叱責されます。そんな彼の作品を「面白い」と言ってくれる女子が現れる。彼女は、「もっと映画を勉強して次は皆をアっと言わさせる映画を撮ろう」と彼を誘う。そして、廃墟に持ち込んだプロジェクターで彼らは映画をひたすら見続ける。彼は次第に映画の知識も深まり、彼女を主演として再び映画を撮り始める。ところが彼女も母と同じ死の病に罹っていた・・・。

藤本タツキの映画愛は、『ファイヤーパンチ』でも重要な要素でしたが、あちらは少し粗削りな表現でした。ところが『さよなら絵梨』では、マンガ表現と映画表現の見事な融合を果たしています。この作品は「マンガで表現された映画」だと私は考えています。カンヌ映画祭に「マンガ動画」でそのまま出品したら審査員はどういう評価を与えるのか・・・私は彼らが「これこそが映画だ」と絶賛するに違い無いと思う。

映画もマンガも「映像表現」としては同じジャンルに属します。映画は撮影と編集によって現実から虚構を構築し、マンガは白紙にペンを置く事で、虚構を一から作り出す。『さよなら絵梨』は、この「虚構を構築する」という「映像表現」の一番スリリングな部分に挑戦して勝利した作品です。冒頭に書いた様に、読者は「映像(絵)とストーリー」に時系列的に感情移入して行きますが、映画やマンガは一瞬でこれを裏切る事が出来る。ハリウッドのアクション映画は「どんでん返しの連続」という稚拙な手法で観客を飽きさせない事に注力しますが、『さよなら絵梨』は、「繰り返される裏切り」によって読者は本来虚構であるマンガに、自分の感覚の実在を激しく揺さぶられる。「つげ義春」などのアングラ系作家が得意とする表現ではありますが、それを、「表の表現」でスマートにやって見せた事に、藤本タツキの非凡さを感じます。そして彼の作品はいつも読者に対する悪意に満ちている・・。

『ぼくのエリ 200歳の少女』

『さよなら絵梨』は実は異色の吸血鬼映画の『ぼくのエリ 200歳の少女』へのオマージュで、吸血鬼マンガです。内容を書くと興ざめなので漫画の内容は書きませんが、スエーデンで製作され、後にハリウッドでリメイクされた『ぼくのエリ 200歳の少女』は、『小さな恋のメロディー』のグロテスクな吸血鬼版とも言えます。以前、「人力でGO]で紹介しているので興味のある方はお読みください。

 

愛すべき吸血鬼映画・・・「ぼくのエリ」 | 人力でGO

 

本日は「吸血鬼もの」の傑作3作を紹介しました。