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こんなにも内気な国王がいて、彼が一生懸命国民の前でしゃべれるように努力していたことを、ただ誠実に描いていくだけの映画なのだが、それがとても胸に沁みてくる。これはとてもいい映画だ。正直言って、ただそれだけ。それだけで十分だけど。
コリン・ファース演じるジョージ6世は幼い頃から吃音症で、国民の前でしゃべることは出来ない。父親が死に、王座を受け継いだ兄は好きな女と結婚するために王の座を棄ててしまう。仕方なく彼が英国王となる。やがて戦争が始まり、国民の前で、スピーチをしなくてはならなくなる。
映画自体は至極単純な話だ。吃音症を治そうとあらゆる努力をするが、どうにもならない。そんな時、妻が捜してきた民間の名もないドクター、ライオネルに会う。彼は身分の差を越えて、ひとりの人間としてお互い対等に付き合うことを望む。そこから、治療が始まる。
映画はこの2人の友情物語という側面も持つ。だが、ことさらそこをクローズアップはしない。また、献身的に王を支える妻との愛情物語としての側面もある。もちろん、そこを中心にして描くわけでもない。最初にも書いたが、これはあくまでも一人の誠実だが気の弱い男が、なんとかして自分の責務を全うするため、吃音克服に全力で取り組むというお話だ。それだけだから、反対にこんなにも気持ちのいい映画になったのだろう。
このお話を、いたずらに感動的なものにしようとはしないのがいい。そうすることでこの映画は品格のあるものとなった。そこが一番大事なことだ。王室を描くから、そうであらねばならないというのではない。ここに描かれることは、本来大したことではないのだ。こんなことで大騒ぎするところではない。そこをちゃんと抑えてあることがいい。
その上で、だが、この一見大したことのない出来事が、本人にしてみれば、一大事で、自分の尊厳はおろか、その存在自体すら奪いかねない、ということを描く。この滑稽ですらあるお話が、コメディーとなることなく、こんなにも感動的なドラマになったのは一重にコリン・ファースとジェフリー・ラッシュの誠実さと真剣さゆえだ。特にジェフリー・ラッシュ演じるライオネルの物怖じしない姿勢はすばらしい。ラストの演説のシーンはあれだけ盛り上げたのに嫌味にならないのは、この映画がここにおいても、そこだけをクローズアップしないという姿勢を貫くからだ。節度がある。そして、これはとても抑制の効いた映画なのである。
コリン・ファース演じるジョージ6世は幼い頃から吃音症で、国民の前でしゃべることは出来ない。父親が死に、王座を受け継いだ兄は好きな女と結婚するために王の座を棄ててしまう。仕方なく彼が英国王となる。やがて戦争が始まり、国民の前で、スピーチをしなくてはならなくなる。
映画自体は至極単純な話だ。吃音症を治そうとあらゆる努力をするが、どうにもならない。そんな時、妻が捜してきた民間の名もないドクター、ライオネルに会う。彼は身分の差を越えて、ひとりの人間としてお互い対等に付き合うことを望む。そこから、治療が始まる。
映画はこの2人の友情物語という側面も持つ。だが、ことさらそこをクローズアップはしない。また、献身的に王を支える妻との愛情物語としての側面もある。もちろん、そこを中心にして描くわけでもない。最初にも書いたが、これはあくまでも一人の誠実だが気の弱い男が、なんとかして自分の責務を全うするため、吃音克服に全力で取り組むというお話だ。それだけだから、反対にこんなにも気持ちのいい映画になったのだろう。
このお話を、いたずらに感動的なものにしようとはしないのがいい。そうすることでこの映画は品格のあるものとなった。そこが一番大事なことだ。王室を描くから、そうであらねばならないというのではない。ここに描かれることは、本来大したことではないのだ。こんなことで大騒ぎするところではない。そこをちゃんと抑えてあることがいい。
その上で、だが、この一見大したことのない出来事が、本人にしてみれば、一大事で、自分の尊厳はおろか、その存在自体すら奪いかねない、ということを描く。この滑稽ですらあるお話が、コメディーとなることなく、こんなにも感動的なドラマになったのは一重にコリン・ファースとジェフリー・ラッシュの誠実さと真剣さゆえだ。特にジェフリー・ラッシュ演じるライオネルの物怖じしない姿勢はすばらしい。ラストの演説のシーンはあれだけ盛り上げたのに嫌味にならないのは、この映画がここにおいても、そこだけをクローズアップしないという姿勢を貫くからだ。節度がある。そして、これはとても抑制の効いた映画なのである。