初日に行く。風も強く、雨も少し降っていたけど、気にしない。一刻も早く見たかった。
週末には台風も近付く中での初日だが、武田さんは動じない。嵐が来ようと平然とこの静かな芝居を見守っている(見せてくれる)自由だけれど、不自由な野外劇場で、犯罪友の会最後の丸太劇場での興業が始まった。
東京オリンピック(2020年の、ではない)が終わった後、次は大阪万博だ、と世の中は浮かれていたかもしれないが、本当はそうじゃない。1965年。この町にはつむじ風が舞う。ここは吹きだまり。
「わかりにくいやろ」と武田さんは言う。芝居が終わった後、入り口での立ち話のとき、だ。そう、これはわかりにくい芝居だ。それは芝居の内容が難解である、というのとは違う。そういう意味でなら、これは反対にわかりやすい芝居だ。しかし、このシンプルなドラマには行き着く先が見えない。敢えて、時代と逆行する選択を取る男。成功という豊かさよりも、困難を承知で立ち向かっていく。
全くテンションが上がらない芝居だ。もちろんわざとそうしている。世の中が高度成長期を謳歌する中、それは、本当は、大切なモノを損なっていく時代。これはそんな時代への挽歌だ。日本という国が今まで大切にしてきたものを失い、壊れていく。右肩上がりの時代、でも、時代は決してよくならないことを、知っている。景気のいい話には乗らず、地道に、自分のペースで生きていこうとする男と、彼を好きになる女。そんなふたりを取り囲む人々との群像劇。うさんくさい奴らばかりが跋扈する中で、彼らは頑固に自分のペースを貫く。
本来ならヒロインとなる上木椛は、中田紅葉とともに、背景に回る。若いふたりの周囲の人たちによってドラマは動いている。戦争と戦後。そんな古い時代を引きずる人々だ。そこにふたりをポツンと押し込む。
最後の野外だからと、ことさら気負ってムダな大作仕様にすることもなく、いつも通りの犯友だ。90分という短い上演時間に収めた。気負うことなく自然体で、庶民の目線で嵐の時代に立ち向かっていく。犯友野外芝居のフィナーレとしてふさわしい作品であった。