雨の音がする。かなり激しく。でも、スクリーンは穏やかで静かだ。緑が美しい。男性が倒れる。「先生!」と女性が駆け寄る。冒頭の描写がこの映画の方向性を明確に示唆する。多くは語らない。いや、ほとんで語らない。スクリーンに映っている風景を、人々の姿を、ただ静かに眺めるだけでいい。彼らの交わすことばのやり取りは淡くてさりげない。
図書館で臨時職員として働く彼女と、翻訳の仕事をしている韓国人の彼。ふたりはここから出ていくことができない。でも、やがてここを出ていく。今だけの短い時間。映画が始まってから終わるまで何も起きない。でも、何かが彼らの中では進行している。表には見えないものがこの映画の中では描かれている。たぶん。言いたいを声高に語ることはない。コロンバスの美しい風景と彼らが見つめる建造物のたたずまいに心惹かれる。この街の好きな建物ベストスリーとかを訪れる。そしてゆっくりと少し遠くからそれを眺める。ただ、それだけ。
旅先のコロンバスで父親が倒れたという連絡を受けた男は、ソウルからここまでやってくる。映画のカメラはなぜか病室に入いることはない。冒頭で倒れた老人が彼の父親だ。有名な建築の評論家で、講演のためにここに来ていたようだ。男は病院で治療を受ける父を看取るまでここに留まらざる得ないようだ。父はここで死ぬのだろう。韓国の病院へ転院させることはできないほどに状態はよくない。
女はこの街から出ていかないと言う。薬物依存症で、精神を病んだ母親がいるからだ。彼女の面倒を見るのが自分のすべきことだと思っている。だけども、本当はそうではない。自分のしたいことがある。自分の人生がある。だから、自由にここから飛び立ち自分のしたい人生を送るべきだと、男は思う。
偶然出会った男女の出会いから別れまでの短い時間が描かれていくのだが、これは恋愛映画ではない。ただなんとなく、たまたま親しくなり、同じように建築を好むふたりがこの街の好きな建物を一緒に巡っていく。そこで交わされるさりげないやり取りが描かれていくだけ。彼らが見つめるモダニズム建築の宝庫であるコロンバスの素晴らしい建造物の数々も華やかではなくさりげない。不思議な映画だ。何かを語ることよりも何も語らないことを描く。彼らが本来向き合うべき存在であるはずの彼の父親、彼女の母親は映画にはほとんど登場しない。だけど、常に彼らの背後にはこの父と母の存在がある。
お互いのプライベートな部分には基本、口出ししないし関わらない。それだけではない。結末部分にあたるところは、描かれないまま、それが自明のこととして終わっていく。見えない部分が多すぎて、とまどう。だけど、それがこの映画の意図であり方針でもある。監督のコゴナダは小津安二郎の信奉者らしい。(ペンネームは野田高悟からきているようだ)でも、映画を見ながら小津のことなんて一切頭に浮かんではこなかった。後で知ってなるほど、とは思ったけれども。「見つめること」それが一番大事でそこから見えてくるものを大事にしようとしている。ある種の独りよがりだ。でも、それが心地よい。こんな映画あるんだ、と思った。