あと3カ月で死んでしまうと宣告された青年が、残された時間をどう生きるのか、というこれまでも何度となく描かれたようなお話。なのに、こんなにも新鮮な映画になる。大切なことは何を描くかではなく、その語り口であることを改めて思い知らされる。主人公の青年を演じた野田洋次郎がすばらしい。自分に訪れた災厄を茫洋と受け止めて、自然体で生きる。暴れたり、もがいたり、見苦しいことはしない。では、諦念からか、というと、そんなわけはない。なんで自分が、という気持ちは当然ある。でも、それをどこかにぶつけても、誰もなにもしてくれるはずもないし、共感されても、可哀想だと言われても、それでどうなるものでもない。受け入れるしかない。残された時間を精一杯生きよう、なんて言わない。そんな単純なものでもない。ただ、淡々と受け入れて、時を過ごすしかない。
ビルの窓拭きの仕事をしている。ゴンドラに揺られて、あるいは、命綱1本で窓を拭く仕事をするシーンが何度か描かれる。そんな不安定な状態が映画全体を象徴する。彼はバイトとして、ここで働く。20代後半になり、定職にも就かず、フラフラしている、ように見える(だろう)。画家の道は諦めた。もう、絵は描かない。という。才能があるのに、と言われる。だが、才能だけでは画家として生きていけない。商才もいる。きっと自分を売り込むには不器用すぎる。
病院で、ひとりの少女と出会う。彼女から「一緒に死のうか、」と言われる。彼女がどんな不幸を抱えるのか、知らない。聞かない。聞いたとしても、何もできないから。お互いの不幸を慰めあい、傷を舐め合うような関係にはならないし、なる気もない。彼女は頑なで気が強い。そうすることで、なんとか自分を保っているのかもしれない。彼女の家庭事情は描かれる。だから僕たちはなんとなく、わかる。でも、主人公である青年はそれを知らない。もちろん、彼の事情も彼女は知らない。(これも、もちろん、僕たちは知っているけど)
安易なラブストーリーには当然ならない。まだ子供でしかない中学生と25,6の大人の間に恋愛感情なんか生まれない。(いや、生まれたとしても、それを育むだけの時間は彼らにはない)
これが初監督となる松永大司は抑制のとれた描写で最後まで見せてくれる。タイトルであるピエタを自室のトイレに描く。それを仕上げるまでの描写が素晴らしい。絵に対する彼の情熱がそこには凝縮する。リリー・フランキー演じる同室の(同じように癌に罹った)患者が見守る。何も言わないけど、圧倒的な迫力だ。そこにすべてを捧げた。学校のプールの放たれた無数の金魚と共に泳ぐシーンもすばらしい。このふたつのシーンをクライマックスにして、淡々とした描写を最後まで崩さない。