今、なぜ谷崎? しかもよりによって『痴人の愛』って? オカモト國ヒコの新作である。彼がこの題材のどこに目を付け、わざわざ今、これを芝居にしたのか。興味津々で見た。コロナ禍で小劇場での演劇の中止や延期が続く中、急遽この企画が立ち上がり、上演されたらしい。いろんな事情があるのだろうけど、それでもこんな古臭いお話を今作る意味がどこにあるのか、とても気になる。
谷崎潤一郎の『痴人の愛』を現代風にアレンジして劇化するなんて、どこからそういう発想が生まれたのだろうか。3人芝居。主人公は河合譲治(倉田操。情けない男を見事に演じる)とナオミ(河野奈々帆。小悪魔的な少女をさりがなくでもふてぶてしく演じた)。そこまでは原作通り。そして譲治の娘である鮎子(滝川楓。とても自然体)がオリジナルキャラクターとして登場する。原作では独身だった譲治は妻子と別れて一人暮らしをしている中年男という設定にした。彼は猫を飼おうとしていた。だけど、猫を飼うには辞めてその代わりに街の片隅に身を寄せていた15歳の少女ナオミと家に連れて帰り世話をする。そしてふたりの生活が始まる。彼女はここに居ついた子猫のように、あるいは、失った娘の身代わりのように暮らす。だが、そこに本物の娘がしばらく同居したいとやってくるところからお話は動き出す。
ここまで見て、チラシにある「私には娘がふたりいる。本物の娘と、偽物の娘である」ということばがこの芝居の意図を的確に表現しているのだと気づく。では、なぜこんな芝居を作りたいと思ったか。譲治の孤独をナオミが癒すという単純な構造ではない。そこに本当の娘が介入してくることで、生じるドタバタ騒動を描くコメディタッチのホームドラマでもない。芝居を見ながら、いつまでたってもオカモトさんのここに秘めた本当の意図が明確にはならないから、なんだか見ていて不安になってくる。作品の着地点がわからないまま、お話はどんどん進行していく。
高校生になった娘が、環境保護団体に入り、そこから政治に興味を抱き、デモにも参加する、というまさかの展開。そこにナオミも介入する。この国ではデモなんかでは何も変えられない、という悲痛な叫び。それが終盤の過激な展開につながる。ここからお話は、とある家庭の小さないざこざではなく、我々はこの世界とどうかかわるべきなのか、という大きなお話になる。なんとクーデターを起こし、日本が分断されるなんていうお話へと広がり、やがて、テロリストとなった娘鮎子と独裁政権の幹部となったナオミが譲治の部屋にやってくるクライマックスシーンに突入するのだ。
ここで改めて言うまでもない。これは谷崎原作『痴人の愛』の劇化であったはずだ。それが気づくとこんな壮大なドラマになっている。でも、これはあくまでも30人ほどのキャパしか持たない狭い会場(シアターOM)で行われる3人芝居で、芝居自身もほとんど譲治のマンションの一室から出ることはない。これを孤独な中年男の見た妄想と解釈したらわかりやすい。だけど、そんなつまらない枠組みを利用しない。それどころか、こんな小さな世界の出来事から世界を揺るがす革命やテロを描くのだ。そこが作り手の望みである。
何が本物で何が偽物なのか、なんてどうでもいい。大切にしていたものが壊れていくこと、その時自分は何をなすべきなのか。ふたりの娘たちの成長を見守りながら、時代に翻弄されていく譲治の姿を描くことがこのお話の意図だったのか、と気づく。90分間の壮大なドラマは未来に対する不安を抱え生きる40代の男の内面の葛藤を幻想的に描きつつ、リアルな心情を生々しく提示する。小さな世界が大きな世界につながる。これは世界が劇的に変化している今という時代だからこそ提示可能な悪夢のようなロマンである。